#9 うだる暮れに嘘を知る

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「佐野さん……あの」 「うん?浮かない声だね。子犬くんとケンカでもした?」  その軽やかな声に詰まってしまう。ケンカなんて、できない。ただの同僚のときはある程度の言いたいことを言っていたはずなのに、いまはどうケンカしていいのか分からない。  嫌われたくない。面倒くさい女だって思われたくない。夢みたいな「彼女」という座を失いたくない。先に立つのは、そんな気持ちばかりだ。 「いえ……ピックアップ記事の件、申し訳ありませんでした。言い訳みたいになってしまうのですが、ついさっきまで聞かされていなくて」 「ってことは、東さん、ようやくちゃんと話したんだ。おっさんのお小言が効いたかな」 「え?」 「いや、こっちの話。彼からも聞いてると思うけど、あの件ね、僕が全面的に悪いから。つばきちゃんはひとつも悪くありません」 「そう……なんですか?実は、東から直接聞いたわけではなくて」 「あれ、そうなの。だめだなあ子犬くん、過保護と独占欲が過ぎるね」  捻るように繰り出されたその言葉の意味を理解できないまま話が進んでいく。それで、どうする?僕、そっちまで行ってもいい?ほぼ反射的にスケジューラーを開く。これからの予定はない。気が重いまま事務所に戻るはずだった。 「いえ、ちょうど訪問が終わりましたのでこちらからお伺いします。30分以内には着けるかと」 「いいの?東さんに確認しないで、独断で決めちゃって」  本気で心配しているというよりは、面白がっているように聞こえた。外的な担当は隆平、内的な担当はわたし。佐野さんに無理やりキスされている現場を目撃した隆平が、他でもないわたしのために決めたこと。 「東には事後報告します。いまから向かいますので、少々お待ちいただけますか」  だけど、その取り決めを先に破ったのは彼だ。ミスの内容がどんなものであったにせよ、すぐに話してほしかった。恋人という関係の前に、いち同僚として、いち部下として──もっと信頼してくれていると思っていた。 「つばきちゃん、すっかり他人行儀だね。ま、そういうお堅いところがあなたの長所ですが」  電話が切れた瞬間、もう一度ハンドルに突っ伏した。私用スマホのロック画面にはなにも浮かび上がってこない。わたしはいったい、なにをやっているんだろう。
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