#9 うだる暮れに嘘を知る

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 SANOの本社は、中央区の東側に位置する。川沿いの、昼でも夜でも車がひっきりなしに往来する大通りを渡ってすぐのところだ。  全面ガラス張りのそのビルを訪ねたのは一度や二度ではない。だが、うちの自社ビルとのあまりの違いに──受付で身分を明かして通行証を借りなければ先へ進めないとか、1階にはホテル顔負けのカフェテリアが入っているとか──、いつも必要以上に身構えてしまう。 「つばきちゃん」  エントランスをくぐって間もなく、静かな靴音がこちらに向かってくるのが聞こえた。  エアコンがよく効いているせいか、白いワイシャツに重ねられた細身のベストが暑苦しく見えない。ダークグレーの上質なスーツに包まれた佐野さんは、今日もたっぷりと余裕のある佇まいだ。 「わざわざ下りてきてくださったんですか。人事部までお伺いしようかと」 「あんなピリピリしたところで話すの、なんか嫌でしょ。そこのカフェテリアで話そう」  佐野さんが右奥のスペースを指差して笑顔を浮かべた。どうしようかと迷う暇もなく、「コーヒーくらいは奢ります」と優雅に歩いて行ってしまう。 「あの」 「せっかく東さんに黙ってまで来てくれたんだから、少しはもてなさない(・・・・・・)と。うちが自社開発したスイーツも置いてるけど、どう?」 「仕事中なので遠慮します」 「だよね。あのカフェのプリンよりはいまいちだし」  開発部も頑張ってはいるんだけど、やっぱり本職の人たちにはなかなかね。仕方なくついていくわたしに独り言のように言い、「窓際の席、空いてる?」とカウンター内の女性にピースサインを作って見せる。……ああ、ふたり、って意味か。 「さ、佐野部長……」 「べつに、仕事ぶりを偵察しに来たわけではないので安心してください。単なる打ち合わせです」  女性がほっとした表情を浮かべ、窓際の一番奥の席に案内してくれた。そうか、人事部長さん、だもんな。恐れられる立場なわけだ。  ホットコーヒーをふたつ注文されそうになったので、慌てて「ひとつはアイスで」と声を被せた。社食のホットコーヒーだけは、夏でも飲む気になるから不思議だ。
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