#9 うだる暮れに嘘を知る

17/23
前へ
/280ページ
次へ
「函館出張は楽しかったですか」  コーヒーを啜り、たったいま思い出したように佐野さんが言った。僕が邪魔してないといいんだけど、と付け足され、頬がカッと熱くなる。 「楽しいっていうか、仕事、ですから」 「勿体ないなあ。出張は、ご当地グルメを楽しむものだと思っているんですが」  この人が言うと冗談に聞こえないから困ってしまう。それとも、各地のご当地グルメをリサーチするのも仕事の一環だというのだろうか。 「東さんね、つばきちゃんのこと、俺のものだって言ってましたよ」  顔を上げるとばっちり目が合った。どことなく悪戯っぽい目だ。やはり、面白がっているような。  いったい、どう話が流れたらそんな話題になるのだ。昨夜上書きされたうなじの痕を、そっとなぞる。彼の甘いおねだりは留まるところを知らず、熱くなった身体を鎮めるのが大変だった。 「あと、取り返しがつかないくらい好きとか」 「……なにを言って」 「あの人、ふわふわしてるけど、嘘つきではないと思うよ。悪い人でもない。素直だし、仕事は真面目だし」  以前わたしに話していた印象との、あまりの違いに驚きを隠せない。いつの間に隆平のことをそんなに見直してくれたのか。 「ていうか、知らないうちに大逆転しててびっくりしたよ。つばきちゃん、やるね」  だいぎゃくてん、とおうむ返しのように呟くと、そう、大逆転、と佐野さんが頷いた。わたしが知っているこのふたりは、もっと険悪──というか、良くも悪くもビジネスライクだったはずだ。 「その話と今回のミス、なんの関係が」 「まだ繋がらない?つばきちゃん、東さんのものなんでしょ?」 「え、と……」  ──だから早く、全部を俺のものにしたいの。  耳の中にこびりついて離れない甘い声を思い出す。付き合っているのは本当だ。一応。だけど、「彼のもの」という定義が「抱かれた」ということであれば、それは──。 「お堅くてしっかりしているつばきちゃんが、仕事中にそんな顔をするとはね」 「え?」 「うん、これはほっとけないね。東さんも大変だ。いや、幸せだと言うべきか」  未だに話の全貌が見えない。勝手に微笑んで納得している佐野さんを睨みつけながらアイスコーヒーを啜ると、「クライアントにそんな顔していいの?」なんて言ってのけるから苛立ちすらおぼえてしまう。 首を傾げるわたしに、佐野さんが勿体ぶったように言った。 「要するに、嫌で仕方なかったんだろうね。俺をつばきちゃんに近づけるのが」
/280ページ

最初のコメントを投稿しよう!

12614人が本棚に入れています
本棚に追加