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「函館出張は楽しかったですか」
コーヒーを啜り、たったいま思い出したように佐野さんが言った。僕が邪魔してないといいんだけど、と付け足され、頬がカッと熱くなる。
「楽しいっていうか、仕事、ですから」
「勿体ないなあ。出張は、ご当地グルメを楽しむものだと思っているんですが」
この人が言うと冗談に聞こえないから困ってしまう。それとも、各地のご当地グルメをリサーチするのも仕事の一環だというのだろうか。
「東さんね、つばきちゃんのこと、俺のものだって言ってましたよ」
顔を上げるとばっちり目が合った。どことなく悪戯っぽい目だ。やはり、面白がっているような。
いったい、どう話が流れたらそんな話題になるのだ。昨夜上書きされたうなじの痕を、そっとなぞる。彼の甘いおねだりは留まるところを知らず、熱くなった身体を鎮めるのが大変だった。
「あと、取り返しがつかないくらい好きとか」
「……なにを言って」
「あの人、ふわふわしてるけど、嘘つきではないと思うよ。悪い人でもない。素直だし、仕事は真面目だし」
以前わたしに話していた印象との、あまりの違いに驚きを隠せない。いつの間に隆平のことをそんなに見直してくれたのか。
「ていうか、知らないうちに大逆転しててびっくりしたよ。つばきちゃん、やるね」
だいぎゃくてん、とおうむ返しのように呟くと、そう、大逆転、と佐野さんが頷いた。わたしが知っているこのふたりは、もっと険悪──というか、良くも悪くもビジネスライクだったはずだ。
「その話と今回のミス、なんの関係が」
「まだ繋がらない?つばきちゃん、東さんのものなんでしょ?」
「え、と……」
──だから早く、全部を俺のものにしたいの。
耳の中にこびりついて離れない甘い声を思い出す。付き合っているのは本当だ。一応。だけど、「彼のもの」という定義が「抱かれた」ということであれば、それは──。
「お堅くてしっかりしているつばきちゃんが、仕事中にそんな顔をするとはね」
「え?」
「うん、これはほっとけないね。東さんも大変だ。いや、幸せだと言うべきか」
未だに話の全貌が見えない。勝手に微笑んで納得している佐野さんを睨みつけながらアイスコーヒーを啜ると、「クライアントにそんな顔していいの?」なんて言ってのけるから苛立ちすらおぼえてしまう。
首を傾げるわたしに、佐野さんが勿体ぶったように言った。
「要するに、嫌で仕方なかったんだろうね。俺をつばきちゃんに近づけるのが」
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