12615人が本棚に入れています
本棚に追加
会社に戻ったのは17時の少し前だった。夕方といえる時間帯に差し掛かってはいるものの、うだるような暑さは消えそうにない。
熱帯夜と呼べるほどの寝苦しい夜はそう多くはないが、今夜はそれに近いものになりそうだ。べたつく首筋の不快感に顔を顰めながらエレベーターに乗り込み、6のボタンを押す。
心臓の音がうるさい。嫌な具合に、どくどくと鳴っている。理由は明白だ。駐車場から早足で歩いてきたせいでも、急に暑いところから涼しいところへ移動したせいでもない。
「つばき」
扉が開くのと同時に現れたのは、チェック柄のワイシャツの袖を肘まで捲り上げた彼だった。元々大きな目をさらに少し見開いて、「遅かったな」と上司とも彼氏ともつかない笑顔を浮かべる。過剰なくらい鳴っていた心臓が、今度は止まりそうになる。
──どうして、タイミングよくここに。ていうか、会社では名字で呼び合うことにしたじゃない。
こんな不意打ちをされたら、なにもかも知らなかったことにして、何事もなかったように「彼女」の座に収まっていたくなる。いいことも悪いことも全部知りたい、そんな欲から目を逸らしたくなる。
「メッセージ、見てない、よな。昼休みに送ったんだけど。こんなに長引いたってことは、他の企業も回ってきたのか?」
「……SANOに、行って来ました」
「は?」
瞬時に笑顔が固まって、 どういうことだよ、と女の子みたいな唇が動いた。リップの剥げかけた唇をきゅっと噛みしめてから、消え入りそうな声で答える。「佐野さんから電話をいただいたので、帰りに寄りました」。
「なんで……ああ、そういや俺にも着信が」
「金曜日の夜に佐野さんとの予定が入ったけど、仕事に直接関係するわけではないので、時間外申請はしません」
顔も見ずに横を通り過ぎようとすると、剥き出しの二の腕を強く掴まれた。その感触だけで胸が痛くなる。触れられすぎたせいだ。大切なものを扱うように、何度もしっとりと触れられたせい。
「高瀬、ちょっとこっちに来い」
さっと変わった顔色を隠すように目を逸らし、なんとか上司の体を保とうとしているように見えた。そのまま引きずられるように腕を引かれ、いつかのように向かいの会議室に連れ込まれてしまう。
最初のコメントを投稿しよう!