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冷気が残っているということは、つい先ほどまで使用していたのだろう。無意識に二の腕をさすると、「寒くないか」と手のひらで包み込むように触れてくれた。これは「彼氏」だ。
「佐野さんに会ったってことは、ピックアップ記事のミスの件、聞いたのか」
久保くんや後輩社員たちと笑って話している彼とは別人のように静かな声だった。否定も肯定もせずにいると、彼が「聞いたんだな」と深いため息を吐き出す。……これはどちらだろう。彼氏?上司?
「……聞いちゃ、まずかったの?わたしの担当箇所なのに?」
「そうは言ってない。ごめん。話そうとは思ってたんだ」
「いつも、どんなに小さなことでも事前に報告しろって言ってるよね。それなのに、部下には事後報告なんだ」
わたしの言葉に隆平の顔が強張った。そうじゃなくて、と漏らした声は自信なさげに消え入りそうで、いったいこの会話は上司と部下のものなのか、恋人同士のものなのか分からなくなる。
過保護、独占欲、俺のもの、取り返しがつかないくらい好き。要するに、嫌で仕方なかったんだろうね。俺をつばきちゃんに近づけるのが。
佐野さんの意味深なセリフたちをかき集めると、さすがのわたしでもぼんやり意味を見渡すことができた。もしそのとおりなのであれば、ミスを隠されていたことを許してしまいそうな自分がいることに気づく。そして失望する。公私混同なんて最悪だ。
「……わたし、そんなに頼りない?」
ぽろりと出たのはそんなひと言と涙だった。茉以子にミスの件を聞いてから、佐野さんに意味深なことを言われてから、ずっとモヤモヤと飲み込めないものがあった。──これだ。わたしが一番引っ掛かっているのは、これ。
「確かにわたしは仕事が速いほうじゃないし、要領も悪いよね。だけど、あの記事は、佐野さんと何度もやり取りしてたくさん書き直して、やっと完成させたの。隆平はわたしのこと、部下として頼りないって、使えないって思ってた?」
「そんなこと、思ってるわけないだろ」
珍しく声を荒らげた隆平が、わたしの左手首を強く掴んだ。じっとりと汗ばんだ感触が伝わってくる。彼の口が微かに動いたが、言葉は発せられなかった。ほつれた前髪を所在なげに摘み、わたしの顔と床を交互に見ている。
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