#3 あやめはなさく夜更けに

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──Side 隆平  東、とか細い(・・・)声で呼ばれるのは悪い気がしなかった。いつも固く結ばれている唇は触れ合うと柔らかくて、わずかな隙間から漏れる声に反応してしまったのは事実だ。  抱きしめてみたら想像以上に細くて、少し力を入れただけで折れるんじゃないかと怖くなった。思えば最初から最後まで震えていたし、ずっと俺のワイシャツを掴んでいたよな。皺になって大変だったんだ。  可愛くなくは、なかった。いつもの気の強さも強情っぷりも、あの夜だけは消えていた。高瀬があと少し慣れたふりをしていたら、歯止めの効かないところまで行っていたかもしれない。──だけど。  ああいう展開になったときから、小さな違和感のようなものは感じていた。浮いた話は一切聞かないし、「高瀬はないな。美人だけど」と言う男性社員もいるくらいだ。  見た目云々の話じゃない。あいつを色っぽい目で見ること自体が、「違う」。  ──固いやつだとは思っていたけど、まさか男を知らないとは。  少なくとも、俺がいままで関わってきた女たちとは「違う」。そう確信するともう触れなくなった。触っていい代物じゃないように、思えた。 「……つーか、んなん貰えねえだろ。彼氏でもないのに」 「なんか言ったか?」 「いや、なんでもない」  どうしてあいつの拙い誘いに応じたのか、自分でもよくわからない。  初恋、という単語を出されてムキになったのか、俯いてぼそぼそと俺の腕を引っ張る姿に心を打たれたのか。  なんにせよ、やっぱり高瀬は「ナシ」だ。あいつは、好きでもない男()にはじめてを捧げられるような女じゃない。 「で、やったの?つばきちゃんと」 「バカかおまえ、どうしてそんな話になるんだよ」 「いや、どことなーく、つばきちゃんがよそよそしいからさあ。東くんが粗相をしでかしたのかなって」  うん、でも、なんとなくわかった。つばきちゃんと仲直りしなさい。久保が思いきり背中を叩いてくる。危うく、咥えているタバコを吹っ飛ばすところだった。
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