#3 あやめはなさく夜更けに

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「おまえ、なんで経験ないの?」  ビールの泡がすっかり消え、サングリアの氷がほとんど溶けたころ、東が思い出したように言ってはっと口を噤んだ。あ、また無神経なこと言ったな。顔にそう書いてある。 「さあ。女としての魅力がないからじゃないの」 「いや、その……ごめん。俺、また」 「いいよ。東の失言にはもう慣れた」  そういう子どもっぽいところも嫌いじゃないの。だって、仕事中には見せない顔でしょ?  東は随分しっかりしたな、ってもっぱらの評判だけど、本質的なものは変わっていないって安心する。あなたに訪れた変化も、そのままのところも、結局は全部が魅力的に映ってしまう。恋なんて、惚れたほうが弱いに決まってる。 「失言、か。……俺、こういうところがだめなんだよな」  小さなため息が、近くの席から聞こえてくる笑い声に紛れた。 「久保にもよく言われるんだ、東は中身も見た目どおりだって」  つるんとした黒目がこちらを向く。メイクもしてないのに、あんなに可愛いってずるいよね。女性社員の間でそんな話題が持ち上がることがある。あの顔で頼まれたら、多少無理なことでも頷いちゃうよね、って。 「おまえは見た目のせいで女に甘やかされすぎてきた、って」 「それを自分で言っちゃうのが東だよね」 「……あ、こういうところもまずいのか」  はあ、と前髪を崩す姿に胸を撃たれて、「最近だよね。前髪、そんなふうに上げるようになったの」とグラスと持ち上げた。サングリアがなくなりそうだ。だけど、東のビールはまだなくならない。 「そんなに変か?この前髪」 「変、じゃないけど」  下ろしたほうが東っぽいんじゃないの。ワックスのせいで束になった前髪に、手を伸ばしそうになる。洗い立てはいったいどんな感じなのだろう。 「俺っぽい、か。いつまで経っても、渋くなれそうにはねえなあ」  諦めたように笑う表情にまた胸を撃たれる。「渋くならなくたっていいでしょ。まだ気にしてるの?上司としての貫禄がないとか」「そんな、はっきり言うなよ」「初恋の人の結婚相手、そんなに渋いわけ?」──丸っこい目が尖った。それから、またため息。
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