#3 あやめはなさく夜更けに

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 あ、ごめん。わたしも失言。サングリアを飲み干してしまったけれど、向かいのグラスが空くまで待つことにした。  だって、こんな時間は最初で最後かもしれない。あの夜、キスをした瞬間からそう思っている。わたしたちは、ただの同僚だ。 「渋い、っつうか、男から見ても色気があるっつうか」 「東にはないものだ。わたしと一緒」 「おまえと一緒にするなよ」 「可愛げと色気が足りないところは一緒でしょ」  わたしは東に、嘘ばかりついている。  あの夜の、熱のこもった目と掠れた声。甘いシトラスの隙間から漂っていた男の匂い。ひとたびワイシャツのボタンを外せば、隠された彼が溢れ出しそうで怖かった。 「おんなじこと、言われたの。それまで、自分に可愛げがないとか色気がないとか、考えたこともなかった」  子どものころから痩せているほうだという自覚はあった。だけど、それが色気云々に結びつくとは想像もしていなかった。  どんな女の子も年頃になれば、等しく恋をして彼氏ができてキスをして、その先を経験するものだと思っていた。恋とは絶対に楽しいもののはずだ、と。 「誰に?」 「初めて付き合った人」  彼氏とは、無条件に「好きだ」「可愛い」と言ってくれるものではなかったらしい。わたしはそれを、21歳の夏に初めて知った。 「薄くて固くて、女って感じがしなかったんだって」  初めての彼氏は大学の同級生だった。  学科は違ったけれど友達の紹介で知り合って、映画を観たりご飯を食べに行ったりした。 初めてキスをしたのはデートの帰り道、そういう(・・・・)雰囲気になったのは、ひとり暮らしをしていた彼の部屋。  最初はその言葉の意味がまったく汲み取れず、緊張で身体を固くしていることを指摘されたのかと思った。 ごめんね緊張してて、と上擦った声で縋ったら、そういうことじゃなくて、つばきはすげえいいやつなんだけど、ごめん、と謝られた。
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