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わたしのマンションは駅の2番出口、東のマンションは4番出口が最寄りだ。北と南で方向は真逆。だから、いつもは改札を出たら「また明日」と別れていた。
夜風が湿気を連れてくる。あと少しで7月だ。
ここ数年、6月よりも7月のほうが天気が悪い。いわゆる「蝦夷梅雨」というやつで、ぐずついたはっきりしない天気が続く。
するつもりのなかった打ち明け話をしたことが恥ずかしくて、グラスに手を伸ばしては次々とお酒を注文した。話題はいつの間にか仕事の話に移っていて、東はきちんと自分のペースを守って飲んでいた。
今度こそ、あの夜みたいな間違いが起きればいい、と心のどこかで思っていたのかもしれない。
もう一度あんなふうに触れてもらえるなら、こんなものは喜んで捨てる。大切になんかするより、たとえ一度きりでも、好きな人に奪ってもらったほうがずっといい。
「……うち、ここ、の5階」
駅から歩くこと10分弱、8階建てのマンションの前で立ち止まった。
──心臓、飛び出るかと思った。
東の手が肩に伸びてきたとき、酔いなんてどこかへ行ってしまった。「大丈夫だから」と跳ね除けられなかったのは、自分の中に卑しい期待があったから。
ずっと触れられているところが熱くて燃えてしまいそうだ。それに、外灯があるたびに怖かった。顔を見られたら、動揺していることを、意識していることを悟られそうで。
「部屋の前まで行ってやるから、早く鍵解除しろよ」
マンションのエントランスの、少しオレンジがかった明かりから逃れるように俯く。
「いいよ、ここで」「最後まで見届けないと気が済まねえんだよ。上司として」──なんなのよ、なんでもかんでも上司って言えば通用すると思って。
「……肩」
「は?」
「その……もう、大丈夫だから」
こんなに静かなところで密着していたら、心臓の音が聞こえてしまいそう。さっき飲んだ、苦いカンパリソーダがいまさら回ってきた。熱が離れていった途端に。
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