#3 あやめはなさく夜更けに

13/19
前へ
/280ページ
次へ
 わたしのマンションは駅の2番出口、東のマンションは4番出口が最寄りだ。北と南で方向は真逆。だから、いつもは改札を出たら「また明日」と別れていた。  夜風が湿気を連れてくる。あと少しで7月だ。 ここ数年、6月よりも7月のほうが天気が悪い。いわゆる「蝦夷梅雨」というやつで、ぐずついたはっきりしない天気が続く。  するつもりのなかった打ち明け話をしたことが恥ずかしくて、グラスに手を伸ばしては次々とお酒を注文した。話題はいつの間にか仕事の話に移っていて、東はきちんと自分のペースを守って飲んでいた。   今度こそ、あの夜みたいな間違い(・・・)が起きればいい、と心のどこかで思っていたのかもしれない。  もう一度あんなふうに触れてもらえるなら、こんなものは喜んで捨てる。大切になんかするより、たとえ一度きりでも、好きな人に奪ってもらったほうがずっといい。 「……うち、ここ、の5階」  駅から歩くこと10分弱、8階建てのマンションの前で立ち止まった。  ──心臓、飛び出るかと思った。  東の手が肩に伸びてきたとき、酔いなんてどこかへ行ってしまった。「大丈夫だから」と跳ね除けられなかったのは、自分の中に卑しい期待があったから。  ずっと触れられているところが熱くて燃えてしまいそうだ。それに、外灯があるたびに怖かった。顔を見られたら、動揺していることを、意識していることを悟られそうで。 「部屋の前まで行ってやるから、早く鍵解除しろよ」  マンションのエントランスの、少しオレンジがかった明かりから逃れるように俯く。 「いいよ、ここで」「最後まで見届けないと気が済まねえんだよ。上司として」──なんなのよ、なんでもかんでも上司って言えば通用すると思って。 「……肩」 「は?」 「その……もう、大丈夫だから」  こんなに静かなところで密着していたら、心臓の音が聞こえてしまいそう。さっき飲んだ、苦いカンパリソーダがいまさら回ってきた。熱が離れていった途端に。
/280ページ

最初のコメントを投稿しよう!

12605人が本棚に入れています
本棚に追加