#3 あやめはなさく夜更けに

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「その……送ってくれて、ありがと」 「ああ」  東はなにか言いたげにわたしを見下ろすと、すぐに目を逸らしてため息をついた。それから一歩下がり、「俺、行くわ」といま歩いてきた方向に足を向ける。  ──待って。  そのひと言を口に出せたわけではなかった。だけど無意識に、スーツの上着の端っこを掴んでいた。 「部屋、入らねえの?」  呆れたような声が降ってきて、なにをしているんだろうと恥ずかしくなる。 入る、ごめん。そう答えたあとで、もう一度顔が見たくて、仕事中とは違う、少し酔っ払った、プライベートの顔が見たくて──思い切って、顔を上げた。  東が一瞬たじろいで、大きなため息をついた。 「……ごめん。おやすみ」  なにを、しているんだろう。心の底から恥ずかしさが込み上げてきて、彼に背中を向けて鍵を開ける。  飲みすぎたのだ。早く戻らないと。ただの同期に、上司と部下に、男でも女でもない関係に──。 「……高瀬」  ドアを開けた途端、左の手首を強く掴まれた。  なにがなんだかわからないまま部屋に引き入れられて、真っ暗な玄関の壁に身体を押し付けられる。 「ひが、し……?」  甘いシトラスと汗が混じった匂いに、くらくらと膝の力が抜けそうになる。  ゆっくりと顔を上げたのと同時に、息を吸う間もなく、唇が塞がれた。
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