#3 あやめはなさく夜更けに

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「簡単に触れない、って……言った、くせに」  東の腕はわたしの身体を捉えたままだ。「リップ、ワイシャツについちゃったかも」「もう取れてんだろ、とっくに」──心臓の音が聞こえる。余裕があるように見えるのに、意外と鼓動が速いのは、気のせい? 「ねえ、簡単に触れない、って」 「うるせえな、おまえが悪いんだろ」  さっきとは別人のような口ぶりにカチンと来て、彼から逃れるように身じろぎした。残念ながら、やっぱりびくともしないけど。 スーツとワイシャツの隙間から東の匂いがする。 三年間、ただの同僚として感じていたものとは全然違う、甘いシトラスに隠された「男の人」の匂い。憶える予定なんて、ほんの少しもなかったはずなのに。 「なんでわたしが悪いの。意味わかんないんだけど」 「だから、その……おまえが」 「わたしが?」 「おまえが、あんな顔するから」  なにを言っているのかさっぱり分からない。突然玄関に押し込まれて──しかも、ここ、わたしの部屋なんだけど──、キスを浴びせられたわたしの身にもなってほしい。 「あんな顔って、なに」 「うるせえな、そんなこと訊くなよ」 「うるせえうるせえって、さっきからパワハラなんですけど」 「うるせえな、職場じゃないから関係ないだろ」  ふん、と鼻を鳴らす東の声は、言葉とは裏腹に照れているように聞こえた。  どうしてわたしを抱きしめているんだろう。キスは終わったのに。簡単に触れない、って言ったくせに。  あの夜よりも濃く感じる。彼の匂いも、存在も。いまドキドキしているのは、わたしだけじゃない、って思ってもいいかな。
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