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「わたしなんか、とか言うなって」
手が止まった。額を擦りつけられて、いまさらぎゅっと目を瞑る。そうしなければ、くりくりとした大きな瞳に吸い込まれてしまいそうで。
「ちゃんと連絡しておけよ。大事なクライアントなんだから」
筋張った手が前髪に触れ、露わになった額に口づけられたのと胸が一際跳ねたのは同時だった。それから、跳ねたものがお腹のずっと下まで沈んでいく心地。
佐野さんと、これからは仕事で関わっていくのだ。プライベートを持ち込んで支障を来たすわけにはいかない。……そんなの、わかってる。わざわざ東に言われなくたって。
「うん。……言われなくても、しとく」
「社用携帯でな」
重なっていた手はいつの間にか握られていた。感情が大渋滞を起こしている。ときめいたりがっかりしたり、好きだって思ったり腹が立ったり忙しい。東はいつも、こうやってわたしの心の中を掻き乱す。
「でも」
「おまえの連絡先と仕事は関係ないだろ。なんのために社用携帯があるんだよ」
ガチで狙いに行くなら別だけど。その言葉に勢いよく首を振ると、「どんだけ必死だよ」と笑われた。
ふっとわたしの髪に触れた指先から、甘いシトラスが香る。もうすっかり鼻に慣れてしまった。離れていくのが寂しい、と無意識に思ってしまうくらい。
「おまえにその気がないのにしつこかったら言えよ。担当、俺が代わるから」
黙って頷いたわたしから資料のファイルを取り上げ、「戻るぞ」とドアを開け放つ。廊下の空気がなだれ込んできた途端に現実に引き戻され、未だ夢見心地の脳みそを奮い立たせるように両頬を叩いた。
「……大丈夫。自分でなんとかするから」
「意地張って、取り返しのつかないことにならないように」
いつかも聞いたセリフに曖昧に頷き、東の半歩後ろをついていく。
「おまえには勿体ないくらいの男なのに、いいのかよ」「関係ないでしょ。ていうかそれ、失礼」「高瀬のくせにあんなタイプに言い寄られるとか、ウケるんだけど」──カチンときて言い返してやろうと思ったのに、すぐに戦意喪失してしまった。
何度もキスを交わした女の子みたいな口元が、ほんの少し緩んでいたから。もし思い上がりじゃないのなら、ちょっとだけ、嬉しそうに見えたから。
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