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「ねえつばき、さっき、あの人が来たの。婚活パーティーの」
事務所に戻るなり駆け寄ってきたのは茉以子だ。もう夕方に差し掛かる時間帯だというのに、その綺麗な肌に乗ったメイクはまったく崩れていない。
「ああ、SANOの新しい担当なんだって」
「SANOさんの佐野さん……ってことは」
辺りを見回す素振りを見せて、なにかを思いついたように目を見開いた。
わたしの腕を掴む指先にきらめく、くすみピンクのカラーグラデーション。一瞬の抜かりもない茉以子を前に、リップが落ちていないかが気になって仕方ない。
「もしかして、噂の社長候補?」
「さあ」
「でも、そう考えれば、あの清潔感とか品の良さとかお金持ってそうな感じとか納得じゃない?」
すごい、これって玉の輿?キャッキャと語尾にハートマークがつく勢いで言われ、わたしのほうが怯んでしまう。
うちの島はみんな外勤に出ているものの、内勤営業チームはほとんど在席している。誤解を招くような発言は控えてほしい。
「ほら、梁川。早く仕事に戻れよ」
よそ行きに近い優しい声に、茉以子が「はーい」と唇を尖らせる。「高瀬も。仕事、溜まってんだろ」──会議室での出来事なんて幻だったかのようにいつもどおり。……だけど。
──さっき掴んだところ、ちょっと皺になってる。
黒い革ベルトのすぐ上に、くしゃくしゃとした皺が見えた。小さく厚みのある唇は、心なしかいつもより紅い気がする。
──キスのせい?それとも、わたしのリップが移った、せい?
親指で唇にそっと触れると、そこはまだ熱を持っていた。冷めそうにない。少なくとも、あいつと同じ空間にいる間には。
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