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「やっぱり佐野さんに教えてもらえば?俺なんかより、よっぽど優しくしてくれるだろ」
俺、帰るわ。こんな時間に異性の部下の部屋に上がり込むなんて、立派なセクハラだよな。パワハラとも言うか。
東はわたしと一切目を合わせず言って、玄関の方に足を向けた。返す言葉をうまく見つけられない。座り込んだままじゃだめ、って分かっているのに。
「……東、待って」
「飯、うまかった。佐野さんの口に合うかは知らねえけど、俺は、うまかった」
ごちそうさま、と優しい声を投げられて、喉の奥が熱くなった。
東の失恋を知ってから、泣きたくなることばかりだ。絶対に手が届かなかったはずの彼の、匂いや唇の温度を知ってしまった。
ご飯を作っているとき、お風呂で歯を磨いているとき、眠る前のベッドの中で──ふとそれを思い出しては泣けてしまう。涙もろくなったことを実感するのと同時に、歳を重ねるにつれて、感情を揺さぶる出来事からいかに目を逸らしていたかを知った。
知りうるすべての感情の中で、恋ほど己を左右するものを、わたしは知らない。
芽生えた気持ちは、ひとりで消化するものだと思っていた。可愛くなれない女の恋心なんて、無駄でしかない、と思っていた。
「東、待って。お願い」
帰しちゃだめ、と心が叫んだ。急に立ち上がったせいか、半分痺れていた足がじんじんと痛い。
「違うの。そうじゃ、ないの」
両手で、ワイシャツ越しの逞しい腕を掴んだ。熱い。わたしを二度も包んだ、彼の温度。
「……東が、いいの」
「え?」
「わたし、は……東が、いいの」
これが、わたしのいまの精一杯。恋の微熱に浮かされているわたしの、いまの限界。
涙が零れ落ちないように、唇に力を入れて彼を見上げた。呆気に取られたような、少し間抜けな顔は、やっぱり可愛い。
いつか、この人の隣にいても恥ずかしくないくらい、可愛くなってみたい。唐突に、そう思った。
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