#6 四の五の言わずに宵の口

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「緊張してくれてるんだ」 「えっ」 「緊張してるということは、意識してくれてるってことでしょ。見たら分かると思うけど、これ、社用車じゃないんで」 「はい。すごくいい車、ですね」  小学生でももう少しマシな返答ができそうだ。特に車に詳しいわけでもなく、そもそも持ってすらいない。社用車を毎日のように運転しているおかげでペーパードライバーにならず済んでいるだけだ。 「わたしみたいな超庶民が乗ってもいいのかな、って思ってたんです。これから行く店舗について教えてください」  SANOに関する資料とタブレットを取り出し、前回の打ち合わせ記録を開く。「北海道に根ざして30年 新しい挑戦は続きます」──キャッチコピーがどうも月並みだ。明日、東に相談してみようか。いや、こういうのは向井くんのほうが得意だ。 「仕事モード、だね。つばきちゃん」 「はい。仕事モード、です」  きっぱりと返すと、佐野さんが肩を震わせた。 「そうだね。じゃあ、簡単に説明するよ」 半年前にいまの店長が異動してきたこと、それから社員だけでなく学生バイトの意識までもが変化したこと、店舗に近い地域限定で入れているというチラシの内容。流暢かつ分かりやすい説明を零さないようにメモしていく。  あのようすだと、東の残業はそれなりに長そうだ。甘いシトラスと逞しい腕の力を思い出す。じゃあ今日はナシだな、って言われなくてよかった。連絡しろよ、って言ってもらえて嬉しかった。  今朝作ったご飯が無駄になりませんように。楽しみにしていた気持ちが、無駄になりませんように。また「すげえうまい」って笑ってくれますように。
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