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ある少女へ 第2部
【2】
あれから五年の歳月が流れたある日、懐かしい人から電話がありました。
「よう、お久しぶりだね。どう、元気してるかい」
それは五年前、ぼくが自分で作詞作曲した歌を歌っていた頃、その歌を発表できる会場を貸してくれていた個人経営レストラン『モンテ』のオーナー大和田さんでした。
「元気にやってますよ。もう歌はやってませんけどね」
受話器の向こうで、大和田さんの声が弾けました。
「そうか。それはちょっと残念だったね。そのうちプロになって、テレビの音楽番組に出てくるんじゃないかって、期待してたんだけどね」
「ああ。それはダメでしたね。かなわぬ夢でした」
声を落としながら、ぼくは言いました。
「でも、それよりどうしたんですか。急に」
懐かしさと嬉しさが混じり合ったぼくは、やがてその声のトーンが自然に甲高くなります。
■
フォーク音楽が若者音楽の全盛だった頃、ぼくは自分で作詞作曲した歌を大和田さんが経営する個人レストラン『モンテ』で歌っていました。
それは毎月最終土曜日の午後七時から始まる、小さなアマチュアのフォークコンサートでした。ぼくたちは開演時間が迫るとレストラン内のテーブルを片付け、椅子を並び替えて、さらにステージを作って観客を待ちました。
歌を歌うソロ、そしてグループは三組か四組。観客椅子は三十席あまりだったでしょうか。
そんなコンサートもやがて終了するとととなり、気づけばあれから五年の歳月が流れていたのです。
■
「ところでコウショウ。五年前、お前たちのコンサートにいつも来ていた、オケアットっていう女の子、覚えてるか」
ぼくが軽く、はい、覚えてますと答えると、大田和さんは言葉を続けます。
「あの頃、オケアットはまだ高校生だったんじゃないかな。ほら、いつも、友だちとふたりで来ていた、おとなしい感じの女の子だよ」
ぼくはオケアットを覚えていました。
当時のフォークコンサートでは、チェリーさんは最前列の席に座ってぼくの歌を聴いていたのに対して、オケアットは後方の席で、いつも仲良し同級生の女の子と一緒に観に来ていました。当時のオケアットはちょっとコロコロしていて、いつも鼻の頭に汗を浮かばせている、引っ込み思案な女の子。そんな印象が強い女の子でした。
その当時のぼくは、チェリーさんがコンサートが終わるといつも出口で待っていてくれたので、そのあと彼女とファミリーレストランで食事をしたり、おしゃべりをして楽しい時間を過ごしていました。
しかしオケアットとはそんなアフターの記憶がありません。
ただオケアットはぼくの出番が終わるといつもステージのそばまで来て、「良かったです。良かったです」と言いながら、一緒にいる友だちと目を合わせ、うんうんと頷きあっていたことが印象的でした。
そして何度目かのコンサートのとき、
「いつも観に来てくれてありがとう。今度はミニ履いて、観に来てね」とぼくが言ったら、ポカンとした顔をして、友だちからそのダジャレの解説を受けてから、ようやく照れくさそうに笑った顔を、ぼくは今でも覚えているのでした。
■
そのオケアットにぼくは以前、ぼくのオリジナル曲の歌詞とコードを教えてくださいと頼まれたことがあります。その翌月、ぼくは自分のオリジナル曲の歌詞とコードを書いたコピーを彼女に渡しました。
オケアットは百曲近くあるぼくのオリジナル曲で『ある少女へ』という歌が一番のお気に入りのようでした。
それを渡したときの彼女の嬉しそうな顔。それは宝物を手に入れた少女そのものの顔でした。
「オケアット。覚えてますよ。ヘンなニックネームだったんで、覚えてます」
「で、そのオケアットが、どうしたんですか」
ぼくが訊ねると、大和田さんが答えました。
「そのオケアットから、おまえ宛てに招待状が送られてきたんだ」
「オケアットはおまえの連絡方法知らないから、おれにハガキを送って寄こしたんだ」
「何の招待状なんですか」
すると大和田さんは、嬉しそうに答えました。
「今はOLなんだけど、趣味でフォークデュオをしているらしい」
「そのライブがあるから、ぜひ来てくださいってな内容だったぞ」
「どうだ。行くか」
そう訊ねる大和田さんにぼくは、ふたつ返事で答えました。
「ぜひ行ってみたいです。歌もそうですし、久しぶりに彼女に会ってみたいです」
ぼくは大和田さんから、オケアットがライブをする会場とその住所、日時を訊いてから、電話を切りました。
そのあとぼくは何かに満たされる気持ちで、しばし心をあの日、あのときの空間にさまよわせました。
そうか。当時女子高生だったオケアットはOLになった今でも、フォークが好きで、フォークを歌っているのか。懐かしいな。今どんな女の子になってるんだろう。そして、どんな歌を歌っているんだろう。
ぼくはカレンダーにその日の目印を書き込んで、久しぶりに自作自演のカセットテープを再生してみました。
するとぼくの目の前に、あの日あのころの自分がよみがえってきました。
がむしゃらに歌を作り、その歌に自分の熱情をつづっていた、あのころに。
【3】
そのライブレストラン『ホワイト』は、東急池上線蒲田駅から五分ほど歩いた雑居ビルの地下にありました。普段はジャズバンド、ロックバンドのライブがメインでしたが、その日はアコースティックバンドをフィーチャーしたプログラムになっています。
少し照明を落とした店内には、中央に十卓ほどのテーブル席が設けられ、そして壁に沿って、やはり十卓ほどのテーブル席が設けられています。
ステージはフロアーの一番奥まった場所にあって、その場所だけ複数のスポットライトによって浮かび上がっていました。
その日は四組ほどの出演で、お目当てのオケアットは三番目の登場でした。
デュオの名前は『オケアット&フレンズ』。やがてその二人はフォークギターを片手に、舞台上手の袖から登場してきました。
その刹那、ぼくの胸は懐かしさでいっぱいでした。
間違いありません。今ステージに現れたのは五年前、まだ顔のどこかにあどけなさを残していたオケアットと、そしていつもオケアットと一緒にいた女の子です。
あの頃のオケアットはコロコロしていて、よく鼻の頭に汗を浮かべていて、いつも何かに怯えているような女の子でした。
しかし、今は違います。今、目の前に現れたのは、どこか小悪魔を連想させるコケティッシュな女性です。そしてそれは、いつもオケアットと一緒にいた女の子も然りです。
どうすればあの頃のおどおどした女の子が、こうも変身できるのでしょうか。化粧のせいでしょうか。女性として円熟してきたせいでしょうか。あるいは恋愛。
ぼくはそのとき、ふと『みにくいアヒルの子』というアンデルセン童話を思いました。
■
そのオケアットが、一番ステージに近い席に座っていえるぼくに気づいて、満面の笑みとともに手を振ってくれました。するといつもオケアットと一緒にいた女の子も、同じ仕草でぼくに会釈します。
やがてオケアット&フレンズの歌と演奏が始まりました。
彼女たちは女性フォークデュオの代表曲を次々に歌います。
まず、ウィッシュの『六月の子守歌』。ピンクピクルスの『天使が恋を覚えたら』。そしてもとまろの『サルビアの花』。
オケアット&フレンズはそれらのカバーを見事なハーモニーで歌い終えてから、トークに入りました。それは通常の舞台挨拶から始まり、やがて話題はどうして彼女たちがフォークを歌うようになったか、という話になりました。
「わたしたちは高校生の頃、よく地元蒲田のレストランで開かれていたフォークコンサート行ってました」
「そのコンサートでオリジナルの歌を歌っていたのが、コウショウさんです」
オケアットは、いったん言葉を切りました。そして続けます。
「そのコウショウさんのオリジナル曲で、とりわけ大好きだった歌が『ある少女へ』という歌でした」
オケアットは観客の反応を確認するように見まわしてから、
「今日ここに、そのコウショウさんが来ています」。
彼女はそう言って、ぼくの方に腕を伸ばし、観客にぼくを紹介しました。
ぼくが立ち上がって周りに軽く挨拶すると、客席からまばらな拍手が起きました。オケアットはその拍手が終わるのをまって、話を続けます。
「その歌は、タエコという女性に向けたラブソングです」
しばし沈黙がありました。ちょっとした沈黙でした。観客の誰もが、オケアットの次の言葉を待ちました。オケアットはそれを確認してから、言いました。
「実は、わたしの本名は、タ・エ・コと言います」
「そしてオケアットとは、T・A・E・K・Oというローマ字つづりを、逆から読んだものなんです」
■
会場が少しざわめきました。そしてぼくに衝撃が走りました。
何てことでしょう。オケアットなんて、変な名前だとは思っていましたが、それがタエコという名前のローマ字つづりを逆から読んだものだなんて、ちっとも気づかなかったからです。
そしてぼくはそのとき、どうしてオケアットが『ある少女に』という歌にこだわっていたのか、そしてあの歌を歌うことをせがんだのか、その真相にようやく気づいたのでした。
やがてギターのイントロが始まります。それは『ある少女へ』というぼくのオリジナル曲のイントロでした。
■
『ある少女へ』
作詞作曲 狩野晃翔
いつの間にか 心に深く 忍び込んだ タエコ
きみの瞳や きみの仕草が すべて愛おしい
これが恋だと 認めたくない 強がりをいうぼくを
けがれ知らない きみの瞳に どう映るだろう
舌ったらずで 甘えん坊の 幼すぎるタエコ
きみの眼差し きみの囁き すべて愛おしい
いつも夢みる 星の降る夜 きみと交わす愛の言葉
永遠に変わらぬ 愛の誓いを 今君に告げる
今のぼくに 誰よりも 大事な人 タエコ
このささやかな 幸せに のめりこんでみたい
いつもひとりで きみを想い きみの愛を求め
今日もぼくは 暗い夜空に 祈りを捧ぐ
■
アレンジこそ違え、彼女たちが歌うその歌は、まぎれもなくぼくが作詞作曲した歌でした。その歌を聴いたぼくは、不思議な感覚に包まれました。そしてぼくの心は、あの歌を作った高校生当時の自分にさまよったのです。
あの頃のぼくは何に関しても夢中になれて、何に関しても熱くなれました。
その当時の記憶が鮮明に甦ってきてぼくは、胸が熱くなったものです。
■
やがて歌が終わり、彼女たちの出番も終わったあと、オケアットとその友だちはぼくの席まで歩いてきました。
「良かったよ。ほんとうに良かったよ」
ぼくは立ち上がってそんな言葉を彼女たちに伝えましたが、その瞬間、その言葉は五年前、彼女たちがぼくに伝えた言葉とまったく同じものだということに気づきました。
ぼくが手を差し伸べると、ふたりはそれを強い力で握り返します。
ふたりの目が潤んでいます。それは五年もの歳月が、今この場で直結した瞬間でもありました。
会いたかったんですよ。また会って、今度はわたしたちの歌を、聴いてほしかったんです。
欣喜雀躍する彼女たちを見てぼくも、目が潤みました。
あの日、あのとき。ぼくはチェリーさんしか見えてなかったけれど、それでもオケアットたちはぼくの歌を愛し続け、歌ってくれていたんだ。
感無量でした。
■
しばし雑談をして次のライブも観に来ることを約束して、ぼくは店の外に出ました。
都会のビルに切り取られた夜空には、それでもわずかばかりの星が瞬いています。ぼくにはその星が、いつまでもオケアットたちを見守っている星に見えました。
そしてぼくはその星を仰ぎながら、自分が高校生だった頃の、タエコと出会った日々を思いました。
《この物語 続きます》
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