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翌日の土曜日の夜。僕は仕事を定時で切り上げて、音楽の流れるバーに向かった。
食事は極軽めに摂って、歌に響かないように。
僕はカウンターの一番奥で待機していた。オレンジ色の分厚い扉がゆっくりと開く。
「爽ちゃん! よく来てくれたな!」
もちろんその場にいたほとんどの客が驚愕した。見城爽が現れたのだから。
「ユウマ! こっち来い! 爽ちゃん今日のヴォーカルはコイツだ」
「初めまして、棚橋ユウマです。本日はよろしくお願いします」
僕は挨拶をして手を差し出すと、その手を見城さんはしっかりと握ってくれた。痩せていて、少し繊細な感じのする瞳。細い指だけれどしっかりした大きな手だった。
「見城爽です。マスターから君のことを聞いて楽しみにしてました、宜しく。オケは聴いてくれた?」
「もちろんです。週初めから声出しもして自分なりに準備しました」
「じゃあ、やろうか」
見城さんは機材のセッティングを始めた。僕も身体をほぐして歌に備える。
「……OK,マスター、いつでもできるよ!」
見城さんがマスターに声を掛けた。
「棚橋君、何か僕に言っておきたいことはある?」
見城さんが僕にそんなことを訊いてきた。僕は少し考えて、言った。
「見城さん、僕、今日、プロポーズした彼女に振られて、別れたてなんです」
それを聞いた見城さんは目を大きく開くと、笑い皺をたくさん出して目を細めた。
「……なら、きっと素晴らしく歌えるはずだよ」
「はい」
選んでいた最初の曲は、J. BlackfootのTaxiという曲だった。
傷つけてしまった彼女の元にタクシーを飛ばして向かう男の曲。でもきっと間に合わない。僕は間に合わなかった。
マスターが見城さんと僕を紹介して、見城さんがキーボードを弾き始める。僕は、レミにありがとうと思いながらこの曲を歌った。もちろん次の曲も。
たった二曲だったけれど、その場にいるお客さんからは今までに無い熱い拍手をもらった。きっと見城さんへの拍手だったと思うけれど、僕は嬉しかった。
「アンコール!」
誰かがそう叫んで、店内のあちこちからアンコールの声が掛かり、もう一曲やることになった。
今日はレミと別れた日だけど、自分の歌で皆が喜んでくれた日でもある。
きっと僕はこの日を忘れないだろう。
後日、連絡先を交換した見城さんからメールが届いた。
“君の声や歌いっぷりが気に入った。フィーチャリングで僕の次のアルバムにヴォーカルとして参加してくれないか”
こんな素人でもいいのかな。そう思ったけれど、今はレミ以外のことを考えたかった。
“僕で良ければ、よろしくお願いします!”
レコーディングは東京まで行くのだろうか、と思っていたら、何と見城さんは僕が住む街に自宅兼レコーディングスタジオを構えているという。
“――だから、交通費はそれほど掛からないと思うよ。安心してくれ”
そのスタジオは、とても景色が良くて、僕もたまにドライブに行く海岸にあった。
「ユウマ君、いらっしゃい!」
奥さんと高校生の息子さんがいる。息子さんはギターを弾くそうだ。
僕は地元でリラックスしながらレコーディングに携わった。コーラスにも数曲関わり、コーラスアレンジについても相談をされた。素人の僕が言うのもおこがましいと思ったが、リスナーの耳が必要だということで、忌憚の無い意見を言わせてもらった。
その上、ある曲は作詞にも参加させてもらった。
「今の気持ちを、詞にしてみてごらん。いい経験になると思うよ」
僕は、レミの幸せを願う歌詞を書いた。何度も書き直し、ダメ出しを食らいながら書いた詞は、見城さんが歌うラブバラードになった。
「レコーディングするなら、歌う回数増やせ、ここで歌えばいいじゃないか」
バーのマスターの厚意で、店で歌う回数も増えた。キーボードでコードだけ押さえながら弾き語りをするコツを見城さんに教えてもらいながら。
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