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「はい、お水。何があったの?」
ナオの部屋の、革張りの大きなソファに横になった僕に、冷たい水を大きなタンブラーで差し出した彼女が少し呆れた口調で尋ねてきた。
「マスターから聞いてない?」
「聞いてない」
僕はタンブラーを受け取り、一気に三分の二を飲んだ。
「……あー、彼女にプロポーズして、考えさせて、って言われて逃げられた」
言ってしまってからナオの顔を見ると、彼女は悲しそうな顔をしていた。
「どうして、ナオがそんな顔するんだよ……」
「だって、ユウマには幸せになってほしいから」
ナオと出会って六年以上経つ。二十代後半だった彼女も三十代半ばになっていて、僕と寝ていた頃よりも少し落ち着いた物腰で僕の横に腰掛けた。
「もう一度、話してみたら、彼女と。ほんとにびっくりしちゃっただけかもしれないし」
笑顔でナオは僕を励ますように言う。
「うん、そうするつもりだけど……」
「だけど、どうしたのよ」
歯切れの悪い僕を、怪訝そうな顔でナオが見ている。
「レミは……彼女は、もう俺を受け入れるのに疲れたのかも知れない」
「どういうこと……?」
タンブラーの水を飲み終えて、ローテーブルにグラスを置いた。コトリ、と音がして、後は彼女が好きな――それは必然的に僕も好きな曲調の――ミドルテンポのソウルミュージックが小さな音で流れている。
「……抱けないんだ、彼女が怖がって」
「え?……ユウマは優しくするじゃない」
「違う、彼女は……レイプされてて、手を握るのも、許可が必要で……無理を言って抱かせてもらってる……大切にしてるつもりだけど、俺じゃ……ダメみたいだ……」
ずっと、誰にも口にしてこなかった言葉を、初めてナオの前で口にした。
レミの心の傷を癒やすことはできないことを認めて口にするなんて、恐ろしくてできなかった。それは、レミとの未来が無いということだから。
でも、五年近く付き合って、プロポーズを考えさせてと言われ、そのまま席を立たれたという事実は、自分にもひた隠してきた事柄が揺るがないものであることを、僕に突きつけた。
僕は、レミが好きだ。彼女と過ごす休日はいつも幸せで、小さな行き違いなんて、彼女を嫌う原因にもならない。一緒に生きていきたいと思った。それなのに。
「何でよ、何で……⁈ 私、ユウマみたいに女を愛するのが上手い人、知らないわ」
それはナオの水商売で培われたリップサービスにも聞こえるが、すぐに違うということが判った。ナオは僕の顔を両手で包んで、深くキスをしてきたから。
ああ僕は、この人の身体の全部が好きだったなあ。
深く深く身体を繋ぎ合わせた記憶は、そのキスだけであっさりと蘇った。
「ナオ……」
「ユウマが呼んでくれる声が、一番、好き……」
僕はナオを抱いた。朝が来るまで。
ナオと数年ぶりに寝て、僕は悲しいことに気付いた。僕はレミを、好きな人を抱いても全く満足していなかった。好きな人なのに、愛している人なのに、レミを抱いて僕は一度だって性的に満足をしたことが無かったのだ。
それに気付いてしまった。
僕は、それでも一生、レミと一緒にいる事を選ぶのだろうか。
自分で自分がわからないまま、二度目の痺れるような快感が身体を突き抜けた。
それでも僕はレミと会ってきちんと話をしなければ。
そう思って、職場で声を掛けた。
「レミ、ちょっといいかな」
どうして職場で声を掛けたかというと、その後お互いに連絡を取らなくて、一週間を超えて週末に連絡を入れたものの、レミから返信が無かったからだった。突然部屋に行くことは彼女が怖がるからしない、という約束をしていた。連絡が無い限りは押しかけるわけにも行かない。僕は別にレミを怖がらせたいわけでは無いのだから。
人目のあるところで話しかけたら、僕らが付き合っている事は誰もが知っているから、話さないという選択は難しい。そう計算して僕は話しかけた。
「あ……はい」
いつもなら、ユウマ、どうしたの?と笑顔で答えてくれるレミが、こんなに表情を硬くして僕に答えるなんて。
奥まった階段の踊り場に連れて行って、話をした。
「ねえ、どうして返事くれなかったの? 僕は週末、ずっと待ってたよ」
レミに対しては絶対に、俺、という一人称を使わないようにしていた。それも彼女を脅かさないようにという自分なりの配慮だった。
「ごめんなさい……ずっと考えてて……」
「じゃあ、答えは出た?」
「今週いっぱい考えさせて。週末には答えを出すから」
「……わかった」
僕は、レミの答える様子を見て、彼女の中でもう答えは出ているのにな、と思った。彼女が迷っている時にする、手を拳に握って何度か握りしめる仕草が全く出なかったから。
覚悟しておこう。僕はレミから別れを告げられる。間違いなく。
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