泣き虫な君を愛している

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   「ただいま!」玄関を開けると同時に雑に言葉を投げつける。おそらくキッチンで洗いものをしている母親が顔を出すのを待たずに、階段を一目散に駆け上がる。階下で「千冬(ちふゆ)、帰ってきたのー?」と声がしたが、聞こえないふりをして自室のドアを乱暴に閉めた。  リュックを下ろし、マスクを外すして酸素を取り入れると、息苦しさから途端に開放されて安心する。スマホを開いて、いつも通りの順番に画面を高速タップ、聞き慣れているはずの発信音にドキドキとワクワクが止まらない。  「待って待って、まだ帰ってきたばっかり!」  画面に映し出されたのは少しくすんだ白。(あきら)が住むアパートの天井だ。バタンと閉める音がする。きっとクローゼットだ。  「ダッシュで帰ってきた!」  「そんなに急がなくてもいいのに」  「だって、早く顔見たかったから」  「いやでも毎日テレビ電話してるじゃん」  「えー冷たいなー」  「ごめんって、ちょっと待って」今度はパタン。冷蔵庫かな。カタン。これは水入れたコップを置く音。白かった画面が動き出して、眼鏡をかけた晶の顔に変わる。  「おかえり千冬、バイトお疲れ様」  「ただいま。晶も、本日もお勤めご苦労様でした」  私と晶の遠距離恋愛は、今年の春から始まった。  大学のサークルで知り合い、一学年上だった晶は、四月から東京の会社で働き始めた。私は大学四年生、内定をいくつかもらえて就活も終わりに差しかかっている。  やや田舎の大学で、私はそこまで歩いて通える実家暮らしだ。東京は近くはないけれど、週末に行って帰ってくるくらいなら電車を使えば余裕だ。本当ならいくらお金がかかったとしても、休みの日は彼のもとに飛んで会いに行きたいくらいなのに。  「あーあ、コロナさえなければなぁ」  「まだ県外移動は自粛してって感じだしね」  「ほんとにさ、コロナがなかったら定期券買って、いつでも東京に会いに行けるようにするのになぁ」  「そこからだと定期券代やばそう」  「晶も私に会いに来るんだよ!?」  「えー動くのめんどくさいから、定期券代折半じゃダメ?」  「うわっ最低だこの人……」  「いや冗談だって、ちゃんと帰るよ」  首元の筋肉が、飲み込むのと一緒にゆっくり動いているのを見つめた。ちょっと色っぽいなと思った。コップの水を飲む、なんて離れ離れになる前は何にも気にしていなかった動作なのに。じっと見ていると、親指、人差し指、中指の三本でコップを持つ彼の癖に気がついた。  2020年春から東京に行った晶を、最初はものすごく不安に思っていた。新しい環境に馴染めるか、仕事で行き詰ったりしていないか。  得体のしれないウイルスに感染しないか。  治療法が確立されておらず、死者が出たニュースを耳にする度に、不安に押しつぶされて一人でちょっと泣いていた。今のところは健康に問題ないようだが、会社側がリモートワークへの切り替えが遅れており、今も満員電車(それでもコロナ禍前よりずっとマシらしい)に揺られて平日毎日出社している。  「上の人が頭硬くてさ、下はみんなパソコンの扱い慣れているけれど、『仕事は顔を実際に合わせないとできない』とか言い出してさ、もはや旧時代的だよね」  「大学の授業でさえ、もう全部オンラインなのにね」  「ちゃんと卒業単位とれそう? どうせ配信された動画、見溜めているんでしょ?」  「何でばれてるの!? でも、リアルタイム配信の授業は開始二分前に起きてベッドの上で見ればいいからめっちゃ楽」  「俺もそれが良かったな、ベッドの上で授業。寝落ちしそうだけど」  「すみません寝落ちしてますいつも……」  大した話の内容ではないのに、笑いのツボが浅すぎで、目をキュッと細めて声上げて全力で爆笑する晶を見ているだけで気分がぱっと明るくなる。辛いことがあっても頑張ろうと思わせてくれる。コロナで、自分より晶のことが不安で仕方ないときにも、「全然大丈夫だって!」に、何故か私の方が元気づけられていた。  晶の仕事が忙しくて帰りが遅くなることもあったけれど、それでもかけてくれる数分間のテレビ電話。離れた私たちを繋いでくれるスマホがある時代に生きられて、心の底から良かったと思う。中々届かない手紙とか、家の電話しか使えない時代だったら、きっと寂しすぎてメンタルも二人の関係もすぐにダメになっていたんだろうなとは、よく考える。
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