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是方大樹は柔道の選手だ。
1年生の頃から主力選手として期待されている学校内でも有名人だった。
私は高校に入るときにこの辺の地域に引っ越してきたから知らなかったけど、中学の頃には全国大会に出るような選手で、やっぱり有名だったらしい。
外見もそこそこイケメンで、がっしりとした筋肉質な体型から、女子から結構騒がれているけれど、柔道一直線で、彼女を作ったりはしていないらしい。
去年はクラスが違ったからまるで接点がなかったけど、今年は同じクラスになった。
とはいえ、別に接点もなかった。
5月。
是方は突然松葉杖で登校してきた。
練習試合で大きなけがをしてしまったとクラスメートから聞いていた。
今年のインターハイは諦めないといけないらしく、かわいそうにと同情的な扱いを受けていた。
でも当の本人は、特に落ち込んでいるようにも見えず、いつも通り過ごしていた。
男子と笑い合って盛り上がっている様子もいつもと同じ。
初めのうちは、気を遣うような空気がクラス内を流れていたけれど、いつのまにかそんな微妙な雰囲気はなくなって、是方が松葉杖をついているのも日常の風景になった。
もう2ヶ月経つけれど、まだ是方は松葉杖をついている。
「……えっと……ピアノは経験者?」
とりあえず、私はそんな風に聞いてみた。
是方は首を振る。
「いや、楽器は何もやったことない。
当然ピアノもほとんど触ったこともない。」
「楽譜は読めるの?」
「いや、読めない。」
「……ふざけてる?」
「いたって真剣だ。」
「…………。」
さて、どうしたらいいんだろう。
私はちょっと困って眉根を寄せた。
「無茶を言っているのはわかってる。
それでも俺は奇跡を起こさないといけないんだ。
だから頼む。」
是方は私を拝むように手を合わせて軽く頭を下げた。
是方は、本当に真剣に言っているんだろうな。
それは伝わる。
でも……夏休みの1ヶ月ちょっとでそこまで簡単でもない曲を、楽譜も読めず、ピアノに触れたこともない人が弾けるようになりたいって、それはちょっと乱暴な話じゃない?
「奇跡……ねぇ……。
確かに奇跡かもなんだけど、なんでそんな奇跡を起こしたいの?」
是方の瞳が揺れた。
表情も曇った。
話したくなさそうだと察して、私は慌てて口を開いた。
「いい。別に理由は。
聞いたから何が変わるわけでもないから。」
「ごめん。」
是方はそう言って眉を下げた。
でも、すぐにふっと笑顔を浮かべる。
「一宮って、気ぃ遣いなんだな。」
「……そんなこともないよ。」
是方の笑顔が思いがけなく柔らかくて、優しげで、自分の胸の奥がちょっときゅんとして戸惑う。
褒めてくれた……のかな。
いや、ただの感想だよね。
「んー。『乙女の祈り』はね、そこまで簡単な曲じゃないよ。
もう少し難易度落としたら?」
「いや、ダメ。」
私の提案は是方が即座に却下した。
どうしてもこの曲じゃないといけない事情でもあるのかな?
絶対無理だと思う。
けど……そう言ったって是方は引かなそうだ。
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