1 是方大樹(これかた だいき)のむちゃぶり

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「じゃ、ちょっと待ってて。」 私はピアノから離れて、楽譜の山が詰め込まれている棚の前に立った。 去年から、時々この棚の中身を眺めて、少し整理したりしていた。 部屋を借りているせめてものお礼というか。 別に片岡先生には何も頼まれてはいないんだけど、気持ちとして、何かしたくて始めたことだった。 整理している最中に気が向けば、楽譜をピアノまで持って行って弾いてみることもあった。 確か、私の記憶だと、『乙女の祈り』の楽譜もあったはず。 しばらくガサガサと棚の中を探った。 「あ、あった。」 私は楽譜を手にして是方の側に戻った。 「これ、『乙女の祈り』の楽譜。」 「わ! 教えてくれんのか! さんきゅ。」 「喜ぶのはまだ早いよ。 私はやっぱり無理だと思うから、正直教える気はない。 でも、是方が本気なのもわかるから、チャンスはあげる。 私をその気にさせてよ。」 私はにっこり笑ってみせる。 「……その気にさせるって、どうやって?」 「明日までに、楽譜全部の音符が何の音か、カタカナでいいから振ってきて。」 私は、私物の五線紙ノートのページを一枚破って、全音符で基本のドレミファソラシドを書いて、是方に渡す。 「これがヒント。シャープだのフラットだの……とにかく記号は無視していいから、音符だけ、読み解いてきて。 あ、それから、その楽譜は学校のだから、コピー取って、そっちに書き込んでね。」 「……明日までにそれをやれば協力してくれんのか?」 「それは明日考える。」 できないと思うし。 それは口にはしなかった。 「わかった。 あのさ、これさ、このドレミファソラシドに当てはまらない場所にマルが書いてあるのもあるだろ。 それはどうすればいいの。」 「このドレミファソラシドが基本で、さらにドレミファソラシドって繰り返していくから、数えて。あ、ヘ音記号とト音記号で違いがあるから……。」 私は少し五線譜に音符を書き足し、どうやって楽譜を読んでいくかのヒントを是方に説明した。 是方は真剣に私の話を聞き、楽譜を一心に見ていた。 「明日の何時にここに来ればいい?」 最後に是方がそう聞いてきた。 「……何時でも。 そうだなぁ……私は多分来ようと思えば9時くらいから来れるけど、夏休みだしね。10時くらいにしとこっか。 でも無理に来ることもないからね。 私は夏休みの宿題やるのにこの部屋使おうかなってだけだから。」 挫折して諦めるのだったら、松葉杖ついてまでわざわざ来てもらうこともない。 だから、そんなことも言っておいた。 「わかった。明日、10時、な。」 是方は楽譜をリュックにしまって、そのリュックを背負う。 きりっとした表情で私に向かって手を上げると、松葉杖を脇に挟み、歩き出す。  私はそのまま是方の後ろ姿を見送りながら、「変な奴。」とこっそり呟いた。
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