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一
真っ暗闇の中を走る。
走る、走る、走る。
ただ、ひたすらに走る――。
誰の人生にも、暗黒時代というのはあるだろう。
鷹野透にも、もちろん暗黒時代はある。
いや、あるどころではない。二十四歳にもなる今もまだ、暗黒時代は続いていた。
「鷹野、聞いたぞ」
社内の喫煙所でタバコを吸っていた透は、同僚の上原に声をかけられた。
「聞いたって、なんのことだ」
「とぼけるなよ。栄転だって?」
相変わらず耳が早いなと透は片目を眇めた。まだ辞令は出ていないが、シンガポールへ異動になることは確かだ。
「栄転だなんて言われていないぞ」
異動にあたって、特に何かを言われていたわけではなかった。そのせいもあって、透には単なる転勤という意識しかない。共通言語が英語であるなら、英語に不自由のない透の意識は、国内への転勤と何ら変わらない。
「香港が危うい今、シンガポールはアジア一の金融ハブなんだ。それを栄転と言わずして何と言う」
「まあ、それもそうだな……」
上原の言うことは尤もだ。そんなことに意識のなかった自分がおかしくて、思わずふっと鼻で笑う。
「なんだよ、お前らしくない」
上原も透の態度に違和感を感じたのだろう。同僚の中で誰よりも出世欲の強い透が、出世への足がかりに鈍感でいるなんて考えられなかった。
「天変地異の前触れじゃないか?」
面白がるように上原は言うが、透は口元だけを綻ばせて受け流したのだった。
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