水遊び

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 「ダメ!」  ユキミくんが叫ぶけど、その声は水の中には届かない。  僕は何か、ヌメリとしたものに足を滑らせたらしかった。  何が起こったのか自分でも分からなかった。 だからそのまま川の底に頭を打って――それからの記憶はない。 ただその直前の光景だけが、 僕を俯瞰から見下ろす鳥の眼の景色だけが、 どうしてか頭の中にこびりついていた。 だからあんなにもひどい夢を見たんだろう。 頭の中、脳みその中は、人が思う以上にグロテスクで、 冷徹で、苦しみに対してただ見下ろしていることしかできない。 あるいはそうでなくても、 夢の中に楽園が無いことは誰だって知っているだろう。  瞼が縫い付けられたみたいに開かなくて、 それでも微かな電灯の明かりが、 僅かに開いた隙間を無理矢理に入り込んで眼に突き刺さる。 僕は確か、川に溺れてしまったはず。 けれど、ここは浅くて冷たい水の底でもなくて、 ゴツゴツとした河原でもない。 「目が覚めましたか」 布団に寝そべった僕の側には、エツコさんが座っていた。 姿勢正しい正座のまま、ずっとそこに居たのだろうか。 「僕は……」 言葉が声にならなかった。 喉にはまだ水が溜まっているような気がして、 ――もちろん、ただの錯覚なんだろうけれど―― その気持ち悪さのせいで満足に話せない。 「無理はしないほうがいいですよ」 エツコさんは目覚めた僕の額に手をやって、 「熱はないようですね。よかった――」 そう言って立ち上がる。 「僕は……どうしてここに」 「ユキミが川に溺れたあなたを助けたそうです。一時間ほど前に」 「ユキミくんが――」 エツコさんは替えのタオルを僕に渡して、 「汗、どうぞ拭いてください。風邪をひいてしまいますよ」 と、言ったまま台所へ。  まだ満足に回らない頭でも、 僕はエツコさんに聞きたいことが山程あるのだけれど、 今は言われたとおりに汗を拭う。声を出すのが億劫になっていたから。  びっしょりと汗に湿った布団は、一階の仏間に敷かれていた。 たしかヤスオさんの話なんかじゃ、 葬式のときには三十人ほどが入れるぐらいの広い部屋で、 だからその手前の角に置かれた僕は、 自分がひどく小さな存在のように思えて仕方がないくらいだ。 わざわざこんなところに布団が敷かれたということは、 どうやら僕は川から引き揚げられてからすぐここに寝かされたらしい。 一時間ほど前とエツコさんは言ったから、 今はもう午後の五時ぐらいだろうか。 いや、もう少し経っているかもしれない。 時計を探すが、僕の置かれた場所からは居間の時計は当然見えない。  いろいろと考え事をすれば、 ようやく頭の調子が戻ってきて、僕は体の具合を確認する。 すこしズキズキと痛む頭には大きなたんこぶが出来ていて、 足にはいくつか擦り傷が付いていた。 それと、何か鱗のような痕が付いていて、 きっと河原の石の上にしばらく体があったからだろう。  チャリンと鈴の音が外から聞こえる。 網戸の閉まった玄関の向こうには、 自転車に乗ったヤスオさんが帰ってきたみたいだった。 籠にはあのスイカを乗せて。  「ああ、よかった。元気そうじゃないか」 ヤスオさんは僕の頭をポンポンと叩いて、心底安心したように笑う。 引っさげたスイカは僕たちが置いてきてしまったもの。 わざわざ取りに行ってくれたのか。 「せっかくだから一緒に食べようと思ってたんだが、 今は無理だよなぁ……」 「あら、あなた、どこに行っていたのですか?」 「川でスイカを冷やしてもらっていたんだ。 だからこの子たちの代わりに持って帰ってきた」 「スイカ、またあの人から」 「いや、上のカワカミさんに分けてもらった。 よく出来てるいいスイカだろう。 カワカミさんもコツを掴んだのか、今までのとはずいぶん違う」 「そうですか……。なら、冷蔵庫に入れておきましょう。 タツオさんも、食べられるならどうぞ食べてください。 お夕飯のあとにでも切って出しましょう」 「ああ、そうしよう」 エツコさんはヤスオさんからスイカを受け取って、 台所へ帰っていく。 「いや申し訳ない、タツオくん。 僕が君たちを川になんか行かせるから。 たしかにあそこは見かけよりも流れが早くて―― ちゃんと言うべきだったね」 「いや、あの、僕はぜんぜん大丈夫ですから。 その、ユキミくんが助けてくれたので」 「ああ、そうだったね。ユキミが。……そうか」 ヤスオさんは部屋の遠くを見つめて、なにか思い出した話を僕にしてくれる。 「懐かしいなあ。 あの子はだいぶ昔にも溺れた友達を助けてあげたことがあってね。 小学校の四、五年生のころかな……たしか、引き揚げてから人工呼吸までして、 消防署から表彰状を貰っていたはず。 どこでそんなの覚えたんだって聞いたら、学校で習ったって。 すごいよなあ。 子どもっていうのは、 大人が思っているよりもずっと賢くて勇気のある生き物なんだ」 「そう、だったんですか」 「ああそうだよ。だから君も助かったんだよ。 まあ、多分、そんな大したこと無かったんだろうけど」 はははとヤスオさんは笑う。仮にも僕は死にかけたんだから、 もっと深刻に事を捉えてほしいと文句を言いそうになったけれど、 実際、僕も多少体が怠いくらいで済んでいるから、大した事じゃなかったんだろう。 それでも、助けてもらったことに変わりはない。 だから僕はユキミくんに「ありがとう」を言いたかった。 なのに、肝心の彼の姿は見えなかった。 「あの、ユキミくんはどこに」 「ユキミ……うーん見てないな。 きっと二階の、自分の部屋に居るんだろう。 夕飯には降りてくると思うから、それまでタツオくんも休んでるといい。 まだまだ寝たりないって、君の顔」 ヤスオさんは僕にブランケットを被せて、 「じゃあ」と、台所へと向かっていった。  彼の姿が見えなくなると、ひどい眠気が僕をもう一度布団に押し付けて、 そのまま、気付けば眼を閉じてしまっていた。
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