水遊び

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 ボーンボーンと時計の鐘が鳴る音に、僕は目を覚ました。 鐘は少なくとも五回以上は鳴っていて、僕は飛び起きる。 もうあたりは薄暗くて、あと少しすれば完全に陽は落ちてしまうだろう。  僕は居間へと向かう。 薄暗い玄関と仏間とは違って、電灯の明かりが眩しい。 部屋には誰も居なかった。台所の方へと向かうと、エツコさんが食器を洗っていた。 「もう大丈夫なのですか」 「ええ、まあ」 「なら、お夕飯は」 「あ、はい、いただきます」 「ごめんさい。よく寝ていたので、先に食べてしまいました。 今温めますから、そちらで待っていてください」 わかりましたと、僕は台所から出る。 台所の机には、すこし冷めた唐揚げとサラダが一皿だけ残っていた。 箸ぐらい自分で持っていくべきだったな、と僕は今更に思ったのだけれど、 逆にエツコさんを心配させるようだったから、ここは大人しくしていよう。 しばらくすると、僕の目の前には今夜のおかずとお味噌汁が運ばれてきた。 「あまり時間は経っていませんが、お口に合わなければ言ってください」 「いえ、ぜんぜん大丈夫ですよ。 エツコさんの料理は、冷めてもおいしいですから」 「そう言っていただけると嬉しいですね」 エツコさんは笑った。思えば、彼女の笑顔を僕は初めて見た。 ユキミくんとは違う、どこか悲しげな笑顔。 張り付いた悲壮の薄皮が、どこまでも、どんな表情であっても、 その白く透き通った顔色を影に沈めてしまう。 「ああ、白ご飯がまだでしたね」 そう言ってエツコさんはそそくさと台所へと戻っていった。  夕食を食べ終わったとき、エツコさんが後片付けを終えて、台所から出てきた。 「ごちそうさまでした。食器は僕が洗います」 「そんな、気を使わなくて私がやりますから」 「いえ、やらせてください。なんだかしてもらってばかりだと申し訳なくて」 「そう……ならお願いしますね」 僕は食器をまとめて、台所へと持っていく。 「ヤスオさんはどこに?」 「ヤスオさん……あの人は今町内会の付き合いで、お酒を」 エツコさんはどこか足元を向いて、 「もう、あの人はいつも口約束ばかり――」と、呟いた。 僕には聞こえないと思ったのだろうけれど、微かに音は耳に届いて、 僕は思いもよらず聞き耳を立ててしまっていた。 どこか嫉妬の入り混じった声色。僕の母さんとは正反対だった。 父さんが夜一人で出かけるとなったら、 いつも母さんは僕をファミレスなんかに連れて行ってくれた。 父さんのいない夜はいつもとは違う特別な日だった。 けれどエツコさんにとっては、それは耐え難い苦痛なんだろう。 「あの、タツオさん」 「はい」 「私はヤスオさんを迎えに行きますから、しばらく留守をお願いします。 ああ……冷蔵庫にはスイカがありますから、どうぞ食べてください」 「はい、いただきます」 「それと、よろしければユキミも呼んで、一緒に食べてあげてください。 あの子は今、上の部屋に。 私に叱られたから拗ねているんです。 もう子どもではないのに」  「それではよろしくおねがいしますね」と、エツコさんが家を出ていってから数分後。 慣れない食器洗いも終わって、 僕は冷蔵庫にあるというスイカの在り処を確かめる。 上の段のさらに上の方、ラップに包まれたスイカがいくつか並んでいた。 一人で食べるには多い量だから、きっとみんなで食べる分だったんだろう。  エツコさんからのお願いを思い出す。そうだ、ユキミくんを呼ぼう。  急な階段を登って、僕は家の二階へと上がる。 僕の部屋は一階にあるから、二階に上がったことはほとんどない。 窓のない廊下は薄暗くて、キイキイ軋む床板の鳴き声がいたずらに僕を不安にさせる。 二階の部屋たちはほぼ来客用で、だからもうずっと使われていなかった。 掃除だけはされているから、ホコリまみれというわけじゃない。 ただ生活感のない畳の列がより一層、 この屋敷の中でもずっと不気味な雰囲気を醸し出す原因になっているように思える。  五畳ほどの外に面した部屋には、家族の思い出たちが飾られていた。 掛けられた写真のいくつかは、 エツコさんのお祖父さんだったり、お父さんのものなのかもしれない。 警察官だったらしい父親の肖像は、今や日に焼けて色が飛んでしまっている。 それよりもずっと古い賞状もある。 読めない文字で書かれた賞状は、 きっとなにか戦争に縁のあるものだろう。  合唱コンクールの賞状。 エツコさんの名前。  そろばん検定の賞状。 エツコさんと母さんの二つ。  似顔絵コンクールの優秀賞。 母さんのもの。  小中高の卒業証書。 エツコさんのもの。  梁の上に立て掛けられたものは、 どれも全部色褪せて時が止まっていた。  ユキミくんの部屋は二階の奥にあった。 立て付けの悪い古い扉を叩いて、僕は言う。 「ユキミくん、いる?」 なにかドンと音がして、 「ど、どうしたの?」 「い、いや、一緒にスイカ、食べようかなって」 「スイカ……いいよ。食べようよ」 「じゃあ、下で待ってるから」 「うん、すぐ行くよ」 僕は二階を降りていった。
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