真夜中

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真夜中

 蝉の声も止んで、本当の静寂が訪れるこの夏の夜。 僕は眠くなって本を閉じて、 窓から差し込む光の向こうを眺めながら、布団に横たわっていた。  ここに来てから、いろいろなことがあった。 溺れかけたことも今では笑い話。 今日は畑の手伝いをして、たくさん汗をかいた。 そんなこと、 慣れてしまえばなんてことはないただの日常なんだろうけれど、 それでも、僕にとってはかけがえのないもの。  らしくないな。  夜は人を感傷的にする。  だからさっさと寝てすっかり洗い流そうと、枕元の明かりを消す。 もうそろそろ睡魔が瞼を下ろして、 意識は脳みそのどこか奥に引き籠ろうとしたそのとき、 僕の足の、その先にあるドアがひっそりと開かれた。 「もう寝ちゃった?」 その声はユキミくんのものだった。 「寝てないよ。眠たいけど」 「入ってもいい?」 「う、うん。ぜんぜん。いいよ」 廊下の闇の向こうから出てくる、その白い姿は明るくて、 浮き上がった輪郭は、寝巻姿のままでどこかあどけない。 天色の少しくすんだ青をした浴衣が、彼の決まって羽織る、 僕が知る制服以外の着物だった。白く見えるのはきっと夜のせいだ。  「座ってもいい?」 「どこでも」 ユキミくんは僕の隣に座った。 起き上がったばかりの布団は温くて、 「なんか温かいね」 なんて言われて僕は赤面する。 「寝てたから。気持ち悪いよね、汗とかもあるし」 「ううん。そんなことないよ。僕はずっと冷たいから、 夏でも汗をかけないんだ。ほら」 彼はすっと手を僕の手に重ねて、 「冷たいでしょ」と微笑む。 僕はもう、そのことは知っていた。 あの川で彼の手を取ったとき。 あの時と同じように、彼は手を差し出した。  確かに彼の手は冷たくて、 けれど、それはあくまでも人肌の温度の範疇だった。 「ちょっと冷たいね」 「涼しいでしょ。君のはすごく熱い」 僕はドキンとする。 この体の熱は決して夏のせいばかりじゃなくって、 彼に触れられたせいでもある。 心臓はいつもよりすこし速く拍を打って、 赤らんだ手の甲の色は、夜目にも明らかに見て取れた。 この前はもっとずっと自然に握っていたはずなのに。 きっと、今は手と手が触れるそれ自体が目的だから、 こんなにもドギマギするんだろう。  僕の手を両の手で包んで、 「夏は好きじゃないんだ。蒸し暑いし、日差しはキツイし。 でも、君がいるとそうでもない。 いろんな事ができるんだ。自転車だって、君と一緒じゃなきゃ乗れなかった」  自転車――あの時の距離を思い出す。 僕のすぐ傍に彼の心臓があったあの時。 数枚の布切れが、僕たちの間を分かち隔てていたあの時。 「だから、今は夏が好き。 けどそれって、君が好きなんだって、僕は思う。 だっていつかキミが消えてしまって、たった僕一人の夏が来たら、 そんなの、本当に最悪だから」 そう言って、ユキミくんは僕の胸に顔を埋める。 「うわ」 「なに、うわって」 「いや、その。くすぐったいなって」 「じゃあ、もっとそうする」 ぐしゃぐしゃと顔を擦り付けて、 パジャマの上からでも、鼻先が左右に振れるのがよくわかる。 「僕は君が欲しい。 君が僕にとって、一番大切なものになってほしい。 でもそれは、君が僕のことをどう思っているのか次第」 彼は離れる。 その感覚が、ポッカリと胸に穴が開くみたいに寂しくて、 でもそれが酷く身勝手な被害妄想にも思えて、嗚呼、僕には耐えられない。 だから、僕の口は勝手に言葉を吐き出す。僕の気持ちも知らないで。 「好き……だと思う。僕も。 でも正直になれない。怖いんだ。 君の望む僕に、きっと僕はなれない。 だけど、なりたいと思う」 もう、何言ってんだろう。 今だって、僕は本当の気持ちがわからない。 「それが嫌なんだ。だから、だから――」 言葉が詰まる。こんなにも胸が苦しいのは初めてだ。 本当に何も出てこない。 たった一言、出てこない。  けど、 「一緒にいたい」 やっとそれだけが、僕の口から這い上がってきた。
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