自転車

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自転車

 始めの数日はまだ借りてきた 猫のようにぎこちない生活が続いていたけれど、 今はもうすっかりこの家の食卓にも馴染んで、 「醤油を取ってください」 なんてことも気兼ねなく言えるようになっていた。 特に旦那(ヤスオ)さんとは打ち解けていて、 そもそもが明るい人だから、 僕も遠慮なしに色々と話し合える仲になっていた。  今日もだから、 ヤスオさんの提案で納屋の奥にあった古い自転車を引っ張り出して、 修理することになった。 夏の日差しは僕の知らない間にうんと強くなっていて、 すこしでも日の下にいれば汗が吹き出て服をジメジメと濡らしてしまう。 そんな炎天下の中で僕たちは、 お互いタオルで汗を拭いながらヒイヒイと作業していた。 錆びたチェーンに油をさしたり、汚れたサドルを綺麗にしたり、 パンクしたタイヤの穴を塞いだりして、 合計で一時間ぐらいかかったけれど、 その甲斐あってまあまあ使えるまでに直すことができた。 ただ僕は結局手伝いどまりで、 ほとんどはヤスオさんの作業だったのはなんだか申し訳なかった。 「よし、これでいいだろう」 黒縁のメガネを取って汗を拭うと、手に付いた黒い油で彼の頬は汚れていた。 けど、間抜けなんて冗談でも言えなくて、 捲くったシャツの袖とすこし焼けた小麦色の肌が相まって、 子供思いで器用な父親という、世の中の憧れる雰囲気を醸し出していた。 「すごい。普通に動いてる」 ジャリジャリとチェーンが回っている。 さっきまでは錆びついてキイキイうるさかったのに。 「まあ、これぐらいはね。田舎暮らしに機械いじりは必須だよ」 コンバインとかいじるからね、と彼は付け足す。 「これ本当に使っていいんですか」 「いいよいいよ。どうせ僕らには車があるし。 それに、おっさんが自転車なんてこいだらすぐに筋肉痛だよ」 確かにあの斜面を自転車で登らなければならないと思ったら、 そんなに便利なものでも無いのかも。 でもやっぱり速い足は必要だ。 スムーズに動くギアと、夏の風。 この季節の醍醐味と言ってもいい。 「じゃあ僕はちょっと仕事があるから」 そう言ってヤスオさんは家に戻っていく。 本業は雑誌か何かのライターらしかった。
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