ピアス

1/1
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
「今日代々木公園でたくさん走ってた動物って何だっけ?」彼女は月を見上げながら呟いた。 まばらに雲で霞んでいるが、満月がこちらを見ている。高層ビルの屋上から見上げても、月はとても遠い存在に感じられた。 「犬だよ」僕は簡潔に答える。 「忘れちゃってごめんね。さっきお店で右耳のピアス落としちゃったでしょ」ここに来る前に行ったレストランで彼女は右耳のイアリング(彼女はピアスと言ったが、穴を開けていないので正確にはイアリングだ)を落とした。店員さんにも探してもらったが、結局見つからなかった。 「あのピアスには、私の記憶の断片が入っていたの」彼女は右耳を触りながら言った。 「記憶の断片て?」僕は彼女の横顔を見る。 「細々した記憶よ。物の名前とか。犬もその一つなの。どうしても犬という言葉を覚えられないの。なぜかは分からない。たぶん脳に生まれつき欠陥があるんだと思う。だからピアスにその記憶をはめ込んだの。あのピアスを付けているときは、犬とかも忘れないんだけどね」彼女はこちらを見ずにずっと月を見ていた。 「だからあんなに必死に探してたんだね」僕も月を見る。 彼女はそれには答えなかった。風が少し強くなってきた。僕は彼女の左手を握った。彼女はやっとこちらを見る。 「今日は満月だから、一緒に祈ろうよ。君のピアスが見つかりますようにって。君の記憶が戻ってきますようにって」僕は彼女の目をじっと見ていた。彼女も僕の目をじっと見ている。 僕たちは月を見上げる。さっきの風で、周りの雲は流されてしまって、綺麗な満月だけが空に浮かんでいる。心の中で僕たちは祈る。しっかりと手を握り合いながら。彼女の左耳のピアスを、風が揺らした。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!