手に負えない男

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「新聞は必ずニ紙以上とること。同じ事件でも、記者の書き方やその新聞社の方針によって、記事から受ける印象が全然違うことがある。一紙しか読んでいないと、いつしかそこに書かれていることを疑いようのない事実として受け取るようになり、記者の解釈が混ざっていることに気付かなくなる。こういった思考の偏りを避けるために、二紙以上読み比べるのは大切なんだ」  サイフォンで淹れたコーヒーを飲みながら、父は朝食の席でそう言っていた。  実際、私の家は特に裕福ではなかったはずなのに、新聞は朝刊も夕刊も二紙とっていた。  さらには、新しいものとハイカラなものが好きな父は、テレビが発売されればどこの家よりも早く買い求め、近所の人を呼び集めては鷹揚に「見ていいよ」と見せびらかしていた。  実験器具のようなサイフォンも好んでいて、朝食は必ずコーヒーとクロワッサン。  大正生まれの日本人男性としては長身であっただろう、すらりとした百八十センチ。いつも仕立ての良いコートと帽子を身に着けていて、どこにいても人目をひいた。  降るようにあった縁談の中から、「顔の良さ」だけで選んでしまった、と母が言うだけはある見目の良い美男子。  いつも目を輝かせてそのとき興味のあるものについて滔々と語り、昼間から全集で揃えた文学作品を読み耽っていて、たまに油絵を描く。  アトリエと呼ばれる一室が家の中にあって、そーっとのぞくと、緑色に塗られた窓枠から、夜明けのようなうすぼんやりとした青い光が差し込んでいたのを覚えている。  その光の中に、イーゼルに向かった父の後ろ姿。少し伸び始めた黒髪をそのままに、たばこの煙をくゆらせていた。サスペンダーが交差した背中は身長に見合った広さ。  たばこの火が板張りの床に落ちても足で踏みつけて消すためなのか、父はその部屋では靴を履いていた。  自由気ままに生きていて、父というより兄弟の一人のようにそこにいた。  ちなみに職業はひも。  もっと言いようがあるかもしれないし、そもそもそれは職業として適切ではない表現かもしれないが、とにかく父は仕事をしていなかった。  娘たちと、道楽に生きる父を支えるために、母は寝る間も惜しんで働いていた。  そのせいで、私には母との思い出はほぼない。  代わりに、いつも娘たちをかわるがわる膝にのせ、何かを楽しそうに話していたとびっきりのイケメンの記憶はある。  ここまでだとそこまで悪くない話かもしれないが、父の特技は「連帯保証人」だった。  母が働けど働けど、暮らし向きが上向かなかった理由である。  結果的に、あれほど始末に負えないひとはいない、というのが私をはじめ姉妹たちの記憶に強く強く刻まれた。  四人姉妹だった私と姉や妹は全員、公務員などの固い職業の相手と結婚。  並びに、顔の良い男は決して信用しないという業を背負って生きていくことになった。  姉妹が揃うと、あれは本当にタチの悪い男だった、という笑えない笑い話になり、話している間に全員が頭痛を覚えて頭を抱えてしまう有様だった。  母も亡くなるまでずっと「顔の良い男には気を付けなさい。仕事をきちんとする相手と結婚しなさい。あのひとが死んだあと、あのひとが連帯保証人として押し続けたハンコを見つけたんだけど、刻印の部分がすり減っているのを見てぞっとしたものよ。友達にいい顔したいだけの男なんかもってのほか」と娘たちに言い続けていた。  それでいて、「夫婦とはよくわからない」と思うのは、おそらく母は父を恨んでいたはずなのに、父の命日に逝ったことだ。 「ああそう、そういえばあのひとの命日が近いわね。あのひとのことでこれ以上子どもたちに迷惑をかけるわけにいかないから、その日だと良さそうね。法事をまとめてできるから少し楽ができるわよ」  数日前に病床でそんなことを言っていて、「何言ってるの」とたしなめた記憶がある。  それなのに、本当にその通りに逝ってしまった。  もしかしたら、娘たちの人生に多大な影響を与えた「顔が良くて手に負えない男」が迎えにきて、連れていったのかもしれない。  父のような男が夫というのは想像するに恐ろしく「絶対無理」なのだけど、なんだかんだ言いながら、死ぬ時まで添い遂げた母は、自分の人生をそんなに後悔していないのではないだろうか、とときどき思うことがある。
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