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「奥に行って下さい」
身体中に痛みを感じながら起き上がり、青年に言われるままに部屋に入った。六畳一間に狭いキッチンとバストイレがついた、典型的な一人暮らしの間取りだ。
青年は腰を屈めて窓に近づき、施錠を確認してカーテンを閉めた。
私は小さなソファに膝を抱えて座り、けがの具合を確認した。膝は赤く腫れているし、脛には広範囲な擦り傷ができていた。もう、どうして今日に限ってスカートを履いてしまったんだろう。
どうして今日に限って、後ろを向いて誰もいないか確認しなかったんだろう。階段に近い部屋だから、誰か飛び出してこないようにいつも気をつけていたのに。疲労困憊なせいだ。こんなになるまで働かせた課長のせいだ。私は、スマホを見ながらうろうろしている青年を見た。
「僕のこと、わかりますか」
青年がソファの向かいにあるベッドにどかっと座った。私はおそるおそる青年の顔を見た。二十歳代前半だろうか、私より5、6歳は若そうだ。凶暴犯といった顔つきではない。むしろ育ちのいい感じがした。
「ここの1階に住んでいる大学生です。といってもほとんど通ってないので留年してますけど」
青年はさっきから片手をずっと上着のポケットにつっ込んでいた。凶器となるものが入っているのか。こわい。
「な、なにを、したの」
一見穏やかそうだが、どんな人間か全くわからない。生殺与奪の権利は、目の前の見知らぬ青年がにぎっていた。
「僕は何もしていません」
青年はため息をつきながら首を振った。
「デイトレーダーって知ってますか。僕、ネットで株の売買をしているんです。この前、とある製薬会社が画期的な新製品を開発していると噂が立ったんですけど、それほんとかなあ、ってSNSで呟いたんですよ。本当にそれだけ。もうちょっとなんか言ったかなあ。僕、薬学部なんで鵜呑みにした人たちがいたみたいで、そこの株が大量に売られちゃって。それで僕がけっこうその会社の株を持っていたものだから、警察に目をつけられちゃって」
……まさか、この青年が。
最近、私の勤めている会社が保有している製薬会社の株価が暴落して、それに連動してわが社の業績や財務が悪化していた。社を挙げて資金繰りに懸命になっている最中だった。その原因は、この目の前の青年だというのか? はは、話ができすぎている、世間は狭いものだ。
「警察から連絡が来て、一度は事情聴取に行ったんです。そしたら、やれお前のやったことは風説の流布だとか、金融商品取引法、だったっけかな、で禁じられているとか、業務妨害罪だとか言われてすっかり怖くなっちゃって。家族に知られたら大変なことになると思って」
「それで逃げ出したの?」
「まあ、そんなところです」
暴力行為を犯した人間ではなくて少しほっとした。
「あの、トイレにいってもいい?」
私はソファとお尻の間に手を入れ、スマホを握りしめていた。
「だめです、勝手なことは許さない」
「そんな」
「トイレは3時間に1回にしましょう。そうだ、スマホ預かります。持ってないわけないですよね」
私は諦めてスマホを手渡した。
「テレビのリモコン、どこですか」
指をさすと、青年はテレビをつけてざっと全チャンネルを確認した。
「まだ気づかれてないな」
そのあと自分のスマホと私を交互に見ながらぶつぶつ呟いていた。はいアク抜け、約定……。
「株を売って利益を確定しておきました。僕、どうなるかわからないですもんね。儲かりそうだったんだけどなあ、残念」
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