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『ピンポーン』
玄関でチャイムが鳴ると、青年は立ち上がって私の後ろに回り、また口をふさいだ。
『ピンポーンピンポーン』
ドンドンドン、玄関ドアを叩く音が響いた。
「アヤカ、アヤカちゃーん、いないのー」
お母さん、アヤカはここにいるよ、助けて。一生に一度でいいから私のこと、助けて。
しばらくすると音が止み、足音が遠ざかっていった。青年の手が下がり、私は長いため息をついた。
「あなたのことを心配してるんじゃないんですか」
「これ以上遠くへ行かないように、監視されてる……え、なに」
青年は私を羽交い絞めしたまま離れない。そのうち私の首筋に顔を埋めて深呼吸し、手が私の腕や太腿をまさぐり始めた。悪寒が体の底から湧き上がって背筋を走り、息ができない。
「うーん、なんか違うな」
腕の力が少し緩んだので、必死で抜け出して部屋の隅にしゃがんだ。
「ああ、まあいっか」
もう心臓が破裂して泣きそうだ。私は青年をにらみ、スカートの裾を握りしめた。
「ちょっと痩せすぎですね、僕はもうちょっとこう……柔らかい人がいいな」
青年は何かを思い出すような口ぶりで話した。私は子どもの頃から骨と皮と言われた貧相な身体に初めて感謝した。
「腹減ったな」
青年は急に話を変えた。
「何か食べるものありますか」
「……」
「ねえ」
やっぱりこの人おかしい。こっちの気持ちなどお構いなしだ。
「……さっき、買い物に行ってきたけど」
動悸がおさまらないまま、玄関で転んだ時から床に散らばっていたパック入りのサラダ、リンゴ、菓子パン2個を顎でしゃくった。
「よくこんなんで腹がもちますね」
青年は私の身体をじろじろ見た後、食材を拾い集め、菓子パンの袋を手にした。
「何か作って下さいよ。自炊してるんでしょう? ほら早く、腹減ってるんだから」
こんな時にお腹が空くとか、どういう神経をしているんだろう。
「……パスタならある、あとレトルトのソース」
「レトルト? いやですよ、食べたことないし」
「自炊してるの?」
「母親が作りに来ます、毎日」
それが何か、とでも言いたげな口ぶりで、青年は菓子パンをかじりながらキッチンに行き、逃げ出せないように玄関の前に立った。身体も気持ちもどこまでも沈んでいくが、仕方なく後について行き1ドアの冷蔵庫を開けた。確か先週辺りに買った卵、ハム、牛乳が入っていた。
「じゃあカルボナーラ。ベーコンも生クリームもないけど」
「何ですか? カルボナーラって」
カルボナーラを知らないのか。そんなに特別な料理だったっけ。
「私が作れる、唯一のパスタ」
「じゃあそれで」
シンクの下から鍋を取り出し、お湯を沸かすときにさりげなく換気扇を回した。換気扇は玄関横の壁にある。
お願い、誰か気づいて。さっきまで回っていなかったことに、いま回って湯気を放出していることに。中に人がいます。
青年は気づいていない。熱湯をぶちまけてやろうかと思ったが、もし軽々とよけられてしまたら、何をされるかわからない。私は手が震えて、トングを何度も落としそうになりながらパスタを茹で、フライパンでハムを炒めて牛乳を入れ、塩とコンソメで味付けをした。パスタが茹で上がり、ざるにあけた。青年は調理の様子をじっと見ていた。
「お皿とって、後ろの棚から。右上にあるでしょう」
青年は私に背を向けて皿を探した。私は面倒くさくなり、卵の卵白を分けずに投入して混ぜた。美味しく作ろうという気はさらさらない。ざるにあけたパスタをフライパンに投入した。
「どの皿ですか」
「大きいの」
何もできない人なんだな、どれくらいの量のパスタができて、どの容量の器に入れればいいのか推測できないなんて。じっと見ていたのに。
「ん、あんまり美味しくない。やっぱりうちの母親は料理上手なんだなあ」
青年はそう言ったわりに、200グラムはあるパスタをがつがつ食らっていた。家に帰ってママの美味しい手料理を食べればいいのに。私は水を飲みたかったが、トイレに行きたくなると困るので我慢した。
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