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『ピンポーン』
青年が食べ終わった頃、ドアのチャイムが聞こえた。青年の顔に緊張が走った。
「これ、隣の音よ」
生活音は普段から安普請なアパートの壁を難なく越えて、よく聞こえた。そしてすぐに別の方向から、
『ピンポーン』
という音が聞こえてきた。
誰かがこのアパートの部屋をひとつひとつ回っているに違いない。私は青い顔をした青年を刺激しないよう、緩みそうになる口元を真一文字に引いた。
『ピンポーン』
この部屋のチャイムだ。青年は私の背後に回って口をふさいだ。
「宮永さーん、宅配便でーす、宮永さーん」
私は玄関に行こうとしたが、青年の力が強くて1ミリも動くことができなかった。すると、そのあとすぐに玄関のドアを激しく叩く音がした。
「木村、いるんだろ、開けなさい!」
木村と呼ばれた青年は、私を抱えたまま立ち上がって窓際に行きカーテンを開けた。午後の明るい光が目を差し、目の前の公園にはパトカーが数台と救急車が一台、それに大勢の警官が見えた。青年はすぐにカーテンを閉めたが、公園から騒然とした声が聞こえてきた。私は玄関の方に行こうとしたが、全く腕の中から動けない。でもよかった、気づいてくれたんだ。思わず泣きそうになった。
窓の下から拡声器を通した中年女性の声が聞こえてきた。
「ハルヒコ! ハルヒコちゃん! 何してるの! 出てらっしゃい!」
ヒステリックな女性の叫びは泣き声に変わった。
「ハルヒコちゃん! どうしちゃったの? 本当は優しくていい子でしょう? ママが弁護士に頼んで何とかしてあげるから、安心して出てきなさい!」
青年は窓を開けて怒鳴った。
「じゃあこの警察、何とかしてよ!」
「ハルヒコ!」
そして窓をぴしゃっと閉め、私を手から放すと力なく笑った。
「うちの母親はあんな感じ。笑えるでしょう」
私は首を横に振った。この親子も歪んでいる。歪んではいるが、信頼感が伝わってきたからだ。青年は困った顔をした。
「どうしよう、大勢いましたね。いざとなったらあなたを盾にしてここを出ましょうか」
青年は上着のポケットからバタフライナイフを取り出して見せた。ああ、やっぱり持ってたんだ。
「いつも持ってるんです、護身用にね」
「……ママに頼んで弁護士を呼んでもらったら」
「そうやってみんな僕をバカにするんだ」
青年が手元のナイフを見つめた。
そのとき外で拡声器がまたヒステリックな声をまき散らし始めた。
「ハルヒコー! ハルヒコちゃーん!」
この青年の母親も、子育てや何やらいろんなことを少しずつ間違えてしまったんだろう。でもこの状況で息子のことを本気で心配している点だけは、この青年がうらやましかった。
「わかった。いいわよ、盾にしても。どうせこのまま生きてても、母親に安月給を奪い取られるだけだし、私なんか何の価値もない人間だから」
私はソファに座り、膝を抱えた。
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