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拡声器を通してもめる声が聞こえ、外が騒々しくなった。
「ハルヒコー! ちょっとなによあなた」
「ちょっと貸しなさいよ、アヤカ! 大丈夫なの! アヤ……あっ」
なにすんのよ、うるさい、あんた息子にどういう教育してんのよ、あんたの娘にだまされてるんじゃないの、まあまあ、落ち着いてふたりとも、……
外からごちゃごちゃと流れてくる品のない言葉を聞いて、私と青年は同時にため息をついた。
「私の同僚の女性がね、息子のことすごくかわいいって言ってた。母親にとって息子は恋人だって。きっと何でもしてあげたくなるんだろうね」
「いろいろ自分でやってみたい気持ちもあったんです。だから家を出たんだけど」
「毎日ご飯作りに来てくれるんでしょう? 都合のいい恋人って感じね」
「思うようにさせてやってるんです。それでママが喜ぶならって」
「いいなあ、私の家はご飯が用意されてる方が珍しかったから。一刻も早く大人になって、こんな状況から抜け出したいと思ってた」
もう死ぬかもしれないと思ったら、どこかちぐはぐな会話もおかしかった。
「あなたはもう大人でしょ」
青年は穏やかに微笑んだ。
「あなたは抜け出せばいい、僕はもう無理だけれど。あなたの母親も、あなたが望んで自分に利用されていると思っているかもしれませんよ」
青年は、こほこほと咳をした。
「いやなら、抜け出せばいい。僕は、ゴホ、覚悟を、決めて、ゴホゴホ、る」
咳は次第に大きくなり、青年は喉元を押さえて苦しみ始めた。
「……どうしたの」
明らかに青年の様子がおかしい。私は怯えながらその様子をうかがった。青年は喉からひゅーひゅーという異音を出して床に倒れ、身体を丸めて苦しみ始めた。這いつくばって玄関まで行き、ドアを開けようとしている。私が駆け寄って鍵を開けドアを開くと、青年はずりばいのまま身を乗り出した。ドアの外には黒ずくめの武装した警官たちが待機していて、ドアを全開にすると青年を数人で担ぎ階段を下りて行った。
「犯人確保!」「犯人確保!」「救急車!」
複数の声がアパートにこだました。
「大丈夫ですか? けがは?」
普通の制服姿の警官に話しかけられ首を振ると、警官は胸元のマイクで「人質確保、異状なし」と告げた。
「ハルヒコ! どうしたの!」
青年の母の声がした。人が大勢いてよく判別できないが、公園からアパートの玄関側に回ってきたようだ。玄関前の手すりから青年の姿を目で追っていると、生真面目そうな警官が少しだけ微笑んだ。
「換気扇、回したでしょう? あれで気づきましたよ。最初、木村を追ってきた時はどこも換気扇は回っていなかったし、後からいい匂いがしてきましたから、中にいるなと」
ああ、よかった。私は肩の力を抜いた。
「何か作らされたんですか?」
「カルボナーラです。あ、ちょっとすみません」
私は玄関に戻り、水道の蛇口から水を出し、横に置いてあったグラスで水を飲んだ。生ぬるい水がからからに乾いた喉を通って胃に溜まっていく。立て続けに2杯飲んで深く息を吐き、ようやく落ち着いた。生きてる、そう感じた。
「アヤカ!」
母が玄関から入ってきて、警官の前で大げさに私を抱きしめた。
「よかった、アヤカ! あなたに何かあったら困るもの」
「ありがとう」
私は淡々と答えた。私がいなくなったらお母さん、生活できないもんね。私と母の間に、無事を素直に喜べるような歴史はなかった。
緊張が解け、眠気がよみがえったせいか頭痛がした。
「お母さん、眠い」
「刑事さんに話は後にしてもらうから、寝なさい」
母はたまにこういう優しいことを言う。さっきまで青年が座っていたベットに横になるのは嫌だったが、意識が重力に引きずられるように深い何処かに落ちていくのを止められなかった。
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