第一章 暗黒海

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第一章 暗黒海

 それは、まだ彼がその世界に居た時の話だ。その日はとても良く星が見える夜だったのを覚えている。一本の塔の頂点で星達の囁き声に耳を澄ませていた彼が、その気配に気付いて閉ざしていた瞳を開いた。 「王、こちらに居ましたか」  一体の神が彼に呼びかけたのと、彼が黄色の瞳でその姿を見つけたのはほぼ同時だった。美しいブロンドの長髪が流れるように揺れ、その奥で柔らかくとも絶対的な威厳を纏うインクブルーの瞳が覗く。その美しさは一目見れば人々の心を奪う程であろうが、彼は彼女を見ても穏やかに微笑むだけだった。 「うん。今日はとっても良く星が見えるから…それに」  言いかけて、止めた。頭上で煌めいていた星々がざわついたのを感じたからだ。それに王と神は顔を上げて彼等を見上げる。致し方ないと言えば当然の事だ、何も言い返せない。故に彼女も目を細め、王が苦笑を零した。 「…少しざわついているのは、君が居るからかい?」 「…彼等にとって私は部外者………いえ、侵略者ですから。仕方ありません」  風当たりは厳しい。それを覚悟で彼女はこの世界にやってきた。この世界に宿る大いなる意志達には相応に手厳しい洗礼を受けた。神である彼女にとってはこの上ない屈辱だったろう。だが今こうして在れるのは、他でもない王の加護があるからだ。 「………僕は、そうは思わないけどな」  この世界を治める、愚かな程に優しい王が少し悲しそうに微笑んだ。彼がそう言うから、彼等も今は彼女を受け入れている。もし彼女が何の魂胆もなくこの世界に来たのであれば、彼等もその寛大なる意志で彼女を歓迎しただろう。だが、そうではないからこそ彼女は彼等―――大いなる"三つの光の意志"から今も見張られている。 「事情はどうあれ、今君がこの世界の守護神で在ってくれるから…この世界は、正しい輪廻を取り戻せたんだから」  永い永い時間をかけて少しずつ歪み続けた世界を、本来在るべき世界に戻したのは他でもない彼女だ。荒療治ではあったが、それほどにまで歪んでしまった世界の根本を正常化するのには神の力が必要不可欠だったのだ。それほどまでに……人の力では正す事は出来ない程に、この世界は歪んでいたと言うのだ。 「君が来てくれたから、僕は人間のままで居られたんだ」  だからこそ王は、星々を宥めるように右手を伸ばした。その右手に宿る星と共鳴し、彼等は煌めく。どうか、彼女を責めないで。そんな優しい王の意志が星だけではない、この世界を遥か古の時から見守り続けている大いなる意志達にも伝わる。 「………本当に、行くのですか?」  あろう事か、神でありながらその横顔に惹かれていく自分を自覚していた。実に不思議な感覚だった。決して人間が抱くような特別な感情ではなく、単純に興味があるだけだ。だがそれでも神である自分が、人間である彼に興味を持つなど思いもしなかった。 「…うん」  この世界を彼女に救われたのは紛れもない事実だが、しかしそれを条件に王さえ知らぬまま、この世界は神々の傘下…彼女の管轄下に収まった。しかし王は決して神に縋る世界を求めた訳ではない。一つの絶対的な存在に頼る事で、その世界が本当に誰かが求めた世界に成ったのか。その結末を、王の黄色の瞳は痛い程によく知っている。故にその傘下から出る…かと言って、恩を仇で返すと言う訳でもない。むしろその事には感謝すべきであり、大人しく神の意に従いその力を振るうべきであるとさえ思っている。だが、王の瞳はその違和感を直ぐに感じ取った。この世界においてはそう見えて当然かもしれない。しかし、多分違う。 「………カリオペ。僕はまだ…君がどうしてこの世界に来てくれたのか、どうしてこの世界を救ってくれたのかは分からない」  この世界を見つめるその姿は、酷く孤独に見えたのだ。"神"と言う、明らかな異質の存在。故に浮いていたのかもしれない。だがその事を抜きにしても、だ。ようやっと彼女と直接会って話せるようになった時からずっと、一目見てそう感じたのだ。まだ、彼女の本当の目的さえ分からない。一体どういう経由で、どういう理由があって此処に来たのか。 「でも…。………今度は、僕が君の力に成りたいんだ」  神で在る故に、人で在る自分では到底背負いきれぬ何かを抱えている。そんな気がしたのだ。だからこそ、王は決めた。この世界を神の管轄から外すと言う訳ではない、無論可能であればそれも検討していくが、王が拒むのは一つの絶対的な存在を置くと言う事だ。可能であれば神と手を取り、更にこの世界を豊かにしていく事。それが目的だ。その為には、あまりにも彼女達の事を知らな過ぎる。この世界の事しか知らない者が、神に意見するのにはあまりにも早い。知らねばならぬ、彼女の事を、彼女の住まう世界の事を。 「だから、僕は行くよ。この世界を救ってくれた事に、お礼も言いたいし」  "現世"という器から離れ、"前世"という魂が宿る確固たる存在を取り戻した今、時は満ちた。多くの"前世"は世界へと還り、その意志は今も世界に宿り、王を守護する力と成っている。その加護を受ける事でようやっと彼女と、そして自身の父と直接会い話せるようになったのだから。王として、やるべき事がある。故に王は立ち上がり、遥か遠くを見つめる。その先に在るものは、なんだろうか。それを考えると、酷く懐かしい感覚に陥る。そう、まるで何も知らない無知で幼かった頃。そこにはどんな世界が広がり、どんな存在が住まい、どんな色をしているのだろうか。そう考えると、胸が躍る。 「………王」  その瞳を止める事は例え神であろうとも敵わない。そう理解したからこそ、神はインクブルーの瞳を閉ざした。呼びかけに王は何事かと目を丸め、軽く首を傾げてみせた。沈黙する事で続きを促すと、神は一つ決意した面持ちで顔を上げた。 「文芸の神ムーサ姉妹の長女、カリオペの名において。レルア王よ、貴方の願いを三つ叶えて差し上げましょう」  ―――それは、人間の王が神と悪魔の世界へ赴く話。  暗黒海。その名の通りの混沌の海を渡れる船は数少ない。何故ならばあまりにも広大である為だ。道しるべとなる月と太陽がこの世界にはない上に、果てがない。そう、気付けば混沌の底へ沈んでいるのだ。如何なる神でさえ、自らの力のみで海を渡ろうとしたら酷く困難を極める。またこの海には、その混沌に心奪われた人魚達も居る。彼女達は気に入った男を手に入れる為、船ごと迷わせ沈めると言う。一切の光がない、広大な混沌の海。そこはまさに彼女達の楽園であり、何の対策も無しに踏み込めば彼女達の餌食にしかない。それでもこの海を渡ろうとする者は多い。この暗黒海を越えた先に理想郷…神々が住まう楽園があると謳われているからだ。  実際、この海を越える手段はある。あまりにも広大ではあるが、決して海の上に何もないと言う訳ではない。人魚達の襲撃はあるものの、あらゆる策で彼女達の襲撃や誘いを打ち払い、むしろこの暗黒海を大切な食物の糧としている港町は多い。故に、その港町を頼りに地道に船を乗り継げばいい。理想郷を目指して、暗黒海を渡れる船に乗ってその楽園を目指すのだ。―――そんな船の甲板に、一人の人間が居た。気が狂いそうな程の沈黙の世界で、船はただひたすらに混沌の海を切り進んでいく。彼の右耳で、月のピアスが煌めいた。かつて仲間から授かった力の加護を受け、彼はいち早くそれに気付き声を張り上げた。 「右へ迂回して!前方に居る、今ならまだ十分間に合う!」  その方向に危険が迫っている、と月が彼に知らせたのだ。恐らく人魚達だろうが、彼女達はこの海を早くは渡れない。人魚と言う事もあって泳ぎは得意だろう、本気で泳げば相応の速度は出るが、対するこちらは船だ。その身一つの人魚よりも、数多の細工を施した船の方が圧倒的に速度は出るし、どちらかと言えば彼女達は罠を張り獲物が掛かるのを待つのが主だ。その罠へゆっくりと誘うのが彼女達の魔の歌声だ。一度でもその歌声に捕らわれれば、その船は沈む他ない。だが逆に言えば罠にかからなければ良い…即ち、彼女達の歌声が聞こえる範囲に近づかない、あるいは彼女達を近づけさせなければ良い。故に暗黒海を渡る船には彼女達を察知する探知機能が数多く備えられているが、彼の声はどの探知機能よりも早かった。  告げた後も酷く警戒するように暗黒海を見つめる彼は、恐らく船が何処かに迷い込んでも無事に脱出する事が出来るだろう。何故ならば彼は、月のピアスに宿る意志に耳を傾ける事でその声を聞く事が出来るからだ。ただ、誰もが月の声を聞く事が出来るかと問われれば否であり―――突如、その指示を聞いて大きく方向を変えたのだろう、ぐわん、と船が大きく揺れた。それに彼は瞬きをし、ようやっと落ち着いたはずの酔いに咄嗟に口元に手を当ててその場にしゃがみこんだ。相変わらず酷く荒い運転だ。今の衝撃で樽でも転がったか、少し離れた所で激しい物音と船員の悲鳴が響く。今なら十分間に合うと言ったではないか、と彼は酷く顔を顰めながら内心でこの船を操る船長に文句をぶつける。不意に、耳元で再度月のピアスが揺れた。それに彼は直ぐに気付き、顔を上げて咄嗟に立ち上がる。その動きは自分に追い打ちをかける事となり、感じた嘔吐感を必死に抑え込みながら海を見つめる。月が何か別の危険を知らせている。人魚だけじゃない、別の何かを。目を凝らし、月の声に耳を澄まし、その答えに辿り着く。 「…人魚じゃない!もっと速い何か…すごく速い何かがこっちに向かって来てる!!」 『何ぃ?…チッ、今日は人魚じゃなくて鮫の方かァ?』 「うん、多分…!でも、もう一つ………すごく大きな影もある!」 『デカい影…?…まぁいい、仕事だ野郎ども!!きっちり働かねぇ奴ぁ海に叩き落とすぞ!!』  告げると船長は酷く面倒くさそうに声を張り上げる。その声に一斉に動き出したのはこの船で働く船員達だ。随分と慕われているのだろう彼等は迅速に動き始めるが、つい先ほどの荒い運転の所為で転げた荷物の整理に追われていた彼等は愚痴を零す。そんな彼等に彼は苦笑を零す一方、船に備えられていた探知機能が漸く反応して船内に警報が鳴りだす。 「おーい、船酔いしてる奴は大人しく引っ込んでろ?」  それに背を押された彼もまた自らの武器を手に取ろうとした時だ、明らかに彼に向けた言葉が降りかかった。実によく聞き覚えのある声に彼が顔を上げると、見えたのは同じ光を宿した黄色の瞳だった。彼の瞳はその男から受け継いだものだろう、黄唐茶の髪が揺れ、その肩には男が長年が愛用している棍棒が寄り掛かっていた。そして男は、荒れ始めた海に目を細める。そうしてる間にも察知した気配は物凄い勢いでこちらに向かってきている。警報が響いた時点で、恐らく男もその距離を把握しているはずだ。にも拘らず、男はその棍棒を構えようとしない。暫く思考しながら黄色の瞳を左から右へと視線を流す。そして男が彼の頭を撫でてその場に座らせた時だ、トン、と軽い足音と共に暗黒世界の暗闇に溶け込んでしまいそうなヴェールが翻った。  その名を呼ぼうと彼が口を開くが、それを遮ったのはその場で棍棒を一回転させてから軽く振り落とした男だった。キン、と軽い音が響くと精々風除け程度だろう極弱い星の結界が二人を中心に張られた。その直後、炎が暗黒海に向けて叩き込まれた。一瞬、暗黒海に太陽の日差しが戻ったかのようだった。激しい水音と共に弾けた暗黒海の混沌の雨が甲板に降り注ぐ。先ほど張った結界がそれらを弾き、一瞬の沈黙を挟んだ後、ザバ、と更に激しい水音を立ててついにそれは海面から顔を出した。恐らく感じ取った大きな影、だろう。その巨体に驚き目を丸めたのは、彼だけではなく男もだ。その巨体は既に活動を止めており、先ほどの炎が直撃したのだろうその身が少し焦げている。 「ん…とりあえずそれっぽい奴に一発叩き込んだんだが…そのデカいってのはコイツの事か?」  その巨体を浮遊魔法で引きずり上げたのだろう、降り注ぐ水飛沫からヴェールで身を守りながら問いかけたのは一人の青年だ。とても美しい容姿でしばしば女と間違えられるだろう青年は丹色の長髪を靡かせ、その奥で深緋色の瞳が自分が仕留めたものを見て驚いたように丸められていた。 「い…っ、烏賊…っ…!?」 「みたいだな…?すごいな、こんなデカい烏賊は流石に初めて見るぞ…」 「おー、今日の晩飯は烏賊か。悪くないが…俺は蛸の方が好きなんだよなぁ」 「食えるのか?」  男の言葉に青年がそもそもの疑問を近くにいた船員に問うと、彼は三回程瞬きをしてから食べられるという意味を込めて頷いた。しかし見ての通りの巨体だ、引き上げるどころかその重量で船が沈む上に酷く凶暴で、滅多に食べられない高級品だと言う。その事を聞くと青年は幸運だ、とはにかみながら左腕を振り上げた。今、この船に迫ってきているのはこの烏賊だけじゃない。 「アーモンド、シン、焼きと生どっちが好きだ?」 「ん~…生だな」 「え、と………や、焼き…かな………?」 「よし船長、後でこれ半分にしてくれ!焼きと生半々だ!」 『馬鹿野郎、そんなでけぇのが船に乗るかってんだ!半分にカットしてから乗せなぁ!』 「お任せあれ、っと」  言いながら青年は丹色の瞳を細めて、今度は風の力を纏うとヴェールが緩やかに靡いた。瞬間、刃化した風は音速で吹き抜け、青年に噛みつこうとしていた鮫を一気に六体ほどまとめて海に叩き返した。一方で先ほど引き上げた烏賊を綺麗に二つに切り落とし、半分を海に捨て半分を甲板へと放った。そして先ほど叩き落とした鮫が食べられると言う事は、数日前に教わり知っている。なかなかの美味だった。故に青年は口元を緩ませ、ご機嫌そうにヴェールを翻した。ここ数日は退屈で死にそうだったのだ、久しく体が動かせるのも嬉しい。 「海は良いな、食糧に困らない。今日は久々にご馳走にありつけそうだ、なっ!!」  鮫の大群が到着したようだ、その先頭にありったけの炎を叩き込んでやる。それを合図に船員達もまた動き出し、攻防が始まる。青年が海に叩き込む魔法の所為で更に海面が荒れ、船が揺れる。それによって被害を被るのは彼の方で、酷い揺れに見舞われ彼が黄色の瞳を歪めた時だ。正反対―――背後からその気配を感じ取って咄嗟に棍棒を手にした刹那、明らかに彼に狙いを定めていた数匹の鮫に振るわれたのは、男が手にしていた星の力を宿した棍棒だ。さほど力を入れていないだろうにも拘らず、その棍棒は彼等の急所を容赦なく抉った。スパン、と酷く澄んだ音が響き渡り一匹残らずそれは今日の夕飯となる。 「魚はどうする、焼きか?それとも煮るか?」 「この前は焼きだったよな、煮るのも美味そうだな」  男が問い、青年が答えながら次々と飛んでくる鮫を片っ端から叩き落としていく。一見それぞれが自由に戦っているように見えるが、その根本は全く同じで、両者共に何が起きても直ぐに彼を護れるような動きだ。特に男に限っては殆どその場から動く事なく、近くにまで来た害を払うだけ、といった様子だ。が、そうなると当然そこに居る彼はまるでやる事が無い。いや、それ以上に頼もしい事は無い。だが続く酷い揺れに、これならばいっそ体を動かしていた方が気分が楽になるかもしれない、という希望が絶たれたのも確かだ。故に折角握りしめた棍棒を両手で持ち、ついに彼―――レルア王は嘆くように男と青年に声を漏らした。 「父さん、リューティリアさんっ!僕ここ最近全く体動かしてないんだけど!?」  喚いたところで、再度叩き込まれた魔法による揺れに彼は咄嗟に口を閉ざした。
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