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口では伝えられないから
「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」
初めて君と言葉を交わしたあの日、君は桜の木に手を伸ばして、そうこぼした。
一体、どんな意味があるのだ、と僕は声を掛けた。
すると、君は少し驚いた顔をして、薄桃色の眼鏡を指で持ち上げた。そして囁いたんだ。
「この歌はね、桜があるから、春を過ごす人の心は、のどかでないのだ、と述べているんですよ」
金曜日の放課後。校舎の外れにある小さなプレハブ小屋。
そこにいつもの看板――『現代のエルキュール・ポアロが謎を解きます』と書いた――を掛けていた時、不意に肩を撫でられた。
「藤くん」
小さな声に振り向くと、よく見知った顔がそこにはあった。薄桃色の眼鏡を掛け、肩で切りそろえた髪を揺らした彼女。
「ねぇ、本当に、謎を解いて、くれるの?」
彼女は上目遣いで、首を傾げた。
「あぁ、そうだよ。ポンコツのポアロがいるからさ」
「ポンコツなの? ポアロさんなのに……?」
彼女は口許に手を当てて、クスクスと笑う。それを見て、僕の口も緩んだ。
「姿を見たら、納得してくれると思うよ」
僕はドアを開き、彼女を招き入れた。
中でモナカを頬張っていたポアロこと友人のマルは、一口でそれを飲み込んだ。
「いらっしゃい。謎解きの依頼かな?」
マルは格好つけたが、頬にモナカのカスが付いている。自分の頬をツンと指して、マルに頬を拭わせた。
彼女を窓側の席に座らせて、巨漢のマルを奥に押し込む。雰囲気を作るために隣に座ったが、やはり狭い。
彼女はマルをまじまじと見つめて、「本当にポアロさんね」とこぼしていた。その言葉に気を良くしたマルは、カッターシャツに付けた蝶ネクタイを触った。
「初めまして、現代のエルキュール・ポアロ、丸本郁人です」
マルは恭しく頭を下げたが、ご当地キャラのご挨拶感が拭えない。
次にマルは、そのふくよかな手を僕に向けた。
「ちなみに藤慧弥、通称ケイは、ワトソン役です」
彼女は頷いて、「花垣和香です」と軽く会釈した。
「えっと、花垣さんとケイは知り合い? 外で話してたけど」
「あぁ、マルには言ってなかったけど、よく公園で出会うんだよ」
「あー、学校近くの、あの公園かー!」
彼女はこくこくと首を縦に振った。
マルには話していなかったが、もうかれこれ一年以上、公園で会う日々が続いている。
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