Poker Face

2/48
前へ
/48ページ
次へ
あの夏休みが明けて一転、研究開発部は忙しさに包まれていた。現在開発途中の製品の生産予定日が偉い人の合意で前倒しになったらしく、私たちは12月25日という聖なる締め切り日に開発スケジュールを間に合わせるべく、文字通り奮戦していた。こういう状態を「佳境に入った」と言い、その最上級状態を「修羅場に入った」と私たちは言い表す。佳境段階では、昼ご飯を手早く社食で食べることもできるし、最悪でも最終電車で帰ることができる。しかし、修羅場段階では、売店で買っておいたパンをかじりながら、昼休みも仕事をし、当然終電を逃せば、仮眠室や空いてなければ最悪実験室の片隅で寝ることもある。当然、みんな修羅場には入りたくはない。だから、今のうちから本気を出して仕事をする。 私の仕事は試作機の機械設計だ。簡単に言うと、他のチームの試作機に対する性能や制限を聞き、頭の中で試作機の構造を想像する。それが現実で稼働するかの思索を重ねて、それで良しと思ったら、ひたすらパソコン上の専用ソフトで図面を書く。そして、書いた図面を元に実際試作機を他のチームの人たちと組立て、実証実験をする。で、駄目だった場合は図面を書き換えるのループである。 実を言うと、私たちのチームは他のチームにも増してスケジュールが押していた。私たちのチームは例えば駅伝で言うなら後続のランナーに当たる。つまり、自分より前のランナーの遅れを必然として受けてしまう。だから、その遅れ分を吸収する形で仕事を進めねばならない。開発業務はチームプレイで、持ちつ持たれつの関係だから前のランナーに当たるチームの人たちを恨んでいるとかではない。ただ、この「遅れを取り戻す使命」はどうしても私たちのチームにつきまとうもので、だからこそ今のうちに修羅場にならないような対策を取らなければいけない。……私は、昼休みに画面の前にいるべく、社食に行くのを止めた。パンを左手で持ちながら、右手で図面を書いていく。みんなは手早く社食に行って帰ってくる忙しい昼休みを過ごしていたが、本当は羨ましかった。 出張でいないとか、忙しいなどの理由がない限り、「あの人」は部下を引き連れて社食にやってくる。営業の方はみんな食べるのが速い。聞いた話では、お客様とご一緒して食事を食べる際に先に食べ終わらないと、お客様を待たせてしまう。それが失礼に当たるとのことだ。それが本当かどうかはさておき、私の知っている営業の方たちは食べるのが速く、それは彼にも当てはまる。だから、彼らはものの十分程度で食事を平らげ、大抵部下の方々は喫煙所へ、彼はひとり屋上へ向かう。だから、大した時間ではない。けれど、社食にいると彼の姿が見られることが多い。それだけで私は嬉しかった。彼の目に入っているのかは解らないが、それだけでも、嬉しくて胸が高鳴ってしまう。
/48ページ

最初のコメントを投稿しよう!

45人が本棚に入れています
本棚に追加