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アルディーン二世は目的の部屋の扉に纏わりついた無数の木の枝を、必死にバスタードソードで切り落とそうとしていた。
「こいつめ! こいつめ! くそッ、なんて鬱陶しい植物だ! こんな事なら剣ではなく斧を持って来れば良かった」
そこに『黒獅子姫』が一糸まとわぬ姿で走って来た。
驚きでアルディーン二世は目を丸くする。
「一体どうしたのだ、その姿は? それにサー・ダグボルトがおらぬようだが?」
「ダグはわしを『翠樹の女王』の手から逃がすために捕まってしまったんじゃ。早くしないとここにも追手が来るぞ!!」
『黒獅子姫』の背後から蔦の触手が迫る。
アルディーン二世のバスタードソードをひったくると、彼女は瞬く間にそれを薙いでいく。
しかすぐに別の蔦が壁から剥がれ、またも襲ってくる。
「そ、それならこの部屋に逃げるのがいいと思うぞ。しかし木の枝が邪魔だし、扉にも鍵が掛かっているようでなかなか開けられないのだ……」
アルディーン二世は目の前の扉を指差し、困ったように言った。
すると『黒獅子姫』は扉の反対側の壁まで下がり、全力で肩から扉にぶつかった。ミシッと鈍い音がするが扉は開かない。
「おぬしもやるのじゃ!」
「は?」
「ほら早く!!」
『黒獅子姫』に急き立てられ、仕方なくアルディーン二世も全力で扉に体当りする。
アルディーン二世の力と鎧の重みが合わさり、扉を覆っていた木の枝が全て砕ける。再度ぶつかると今度は扉の鍵が壊れた。扉が開いた勢いで、彼は部屋の中に転がりこんだ。
『黒獅子姫』もすぐに部屋に入り扉を閉める。
部屋は寝室のようで、レースの腐り落ちた天蓋ベッド、カビの生えた化粧台や椅子などがある。ベッドの反対側には蜘蛛の巣の張ったレンガ造りの暖炉がある。
休む間もなく、蔦が扉の隙間から部屋の中に入ってこようとしている。
「その椅子を貸すのじゃ!!」
アルディーン二世に渡された椅子を、『黒獅子姫』は扉のドアノブに立てかけてつっかえさせる。
「これで少しだけ時間が稼げたが、長くはもたぬじゃろうな」
寝室にはテラスに通じる大きな窓があった。窓ガラスは全て割れ、外は太い木の幹と枝で覆い尽くされている。枝の隙間から外部を見ると、城の周囲には青白く発光する霧が広がっている。
「これも『翠樹の女王』の能力じゃな。魔力を帯びた樹液が蒸発して出来た霧で、光学迷彩のように光を屈折させて、普段は外から城が見えない状態にしてたんじゃな……」
『黒獅子姫』が窓の外を見ている間、アルディーン二世は暖炉の中に入り、煤に塗れてなにやら探している。やがて奥に立てかけられていた火かき棒を探り当てると、ぐいと右に動かす。
鈍い音と共に部屋中に振動が走る。驚いた『黒獅子姫』が振り返ると、暖炉の隣の壁に隠し通路の入口が開いていた。
隠し通路は人ひとり通るのがやっとの狭さで、少し先は下に続く階段となっている。下の方は真っ暗でどこまで続いているのか分からない。
『黒獅子姫』は寝室に置かれていた蝋燭立てを手にした。ハエトリグサに喰われずに済んだ蟻の一匹が蟻酸で蝋燭に火を灯す。
明かりを持っている『黒獅子姫』が先頭になり隠し通路に入る。アルディーン二世は通路に入ると近くの壁のレバーを倒した。短い振動と共に隠し扉の入口が閉まる。
「この通路の壁は蔦や木の枝が生えてないのう。ここなら安全そうじゃ」
『黒獅子姫』はやっと一息ついた。
石壁はひんやりと冷たく、ほてった肌に心地よい。
二人は無言のまま狭い階段を下りる。階段を下りる足音の他に静寂をかき乱すものは無い。
十分ほど下りたところで唐突に行き止まりにたどり着く。
『黒獅子姫』が背後に声を掛けようとした時、アルディーン二世が手を伸ばし、行き止まりの壁の少し突き出した石を押す。
再び辺りに振動が走る。行き止まりの壁がスライドし、黒い玄武岩の石壁の部屋が現れる。縦横十ギット(メートル)四方、高さ五ギットほどの広い部屋だ。
「ここが財宝の間だ」
アルディーン二世は厳かに言った。
しかし部屋の中はほとんど空であった。床に置かれた無数の木箱や石櫃は全て開けられ、中身がどこかに持ち去られている。
アルディーン二世が部屋を漁っている間、『黒獅子姫』は武器立てにあった、あまり価値の無さそうな古びたシミター(円月刀)を見つけた。
「ここの財宝はみんな盗賊にでも盗まれてしまったのかのう? ダグがこの部屋を見たらがっかりするじゃろうな」
『黒獅子姫』は蝋燭立てを床に置き、近くの木箱に腰を下ろす。
「じゃがダグは捕まってしもうた。早く助けに行きたいが、魔力が回復しないとどうする事も出来ぬ……」
するとアルディーン二世が彼女を慰めるように、赤いサーコートを裸体に優しく被せた。
「すまぬのう、アルディーン」
『黒獅子姫』は力無く微笑む。
「気にするでない。民を助けるのは国王として当然の務め。それにあれほどの男ならそう簡単には死ぬまい。彼を助けに行くのなら今度は余も一緒に行こう。その時が来たら教えてくれ」
「心強い言葉じゃな。まさか死んだ国王に励まされる日が来るなんて、思ってもみなかったぞ」
「死んでいる? 余がか?」
「うむ。ダグが言っておったぞ。おぬしは『黒の災禍』の三、四年前、つまり今から十三、四年くらい前に亡くなっとるとな。しかも葬儀も見たらしいぞ」
すると急にアルディーン二世は肩を落とし、『黒獅子姫』の前の木箱に腰掛けた。
「……言わない方が良かったかのう?」
「いや、真実を話してくれて有り難い。道理で会う人間が皆、奇妙な目で余を見ていると思ったのだ。あれはきっと余に気を使ってくれていたのだな」
「あるいは気が触れた男が、王を騙っていると思ってたのかも知れないのう。関わり合いになりたくなくて適当に話を合わせてたのかも。じゃがおぬしの行動を見てる限り、とても偽物の王だとは思えんがのう」
「うむ。余は間違いなく本物のアルディーン二世だ。それは保障するぞ。しかしまさか余が死んでいたとはなあ……。それもずっと前に……」
アルディーン二世は顎に手を当て、ぶつぶつと取り留めもなく独り言を呟いている。『黒獅子姫』は彼の隣に座り優しく声を掛ける。
「おぬしは自分が死んだ時の事を何か覚えておらぬのか? あるいは生き返った時の事とか?」
「ううむ。死んだ時の事は覚えておらぬな。だが生き返った時の事は何となく覚えている気がする。……そう、あれは半年ほど前。余はこの城の地下で目覚めたのだ。すると見慣れたはずの城は荒れ果て、得体のしれない植物に覆われていた。おまけにこんな脱げない鎧まで着せられておるではないか。もうどうしていいのか分からない状態だったのだ……」
アルディーン二世は困惑したように頭を振り、口を閉ざしてしまう。
『黒獅子姫』が慰めるように肩を撫でるとようやく重い口を開いた。
「それでもとりあえず余は、城の中に生存者がいないか探し回った。だが無駄な努力であった。そこで今度は城の外がどうなっているか確かめようと、城門から外に出てみる事にしたのだ。すると辺りは見知らぬ荒野が広がるばかり。驚いて城内に引き返そうとした瞬間、今度は城が忽然と消えてしまったのだ。仕方なく余は城に戻る方法を探すため、ひたすらに荒野を流離った。そして大きな災禍によってイスラファーンを含むほとんど全ての国が滅していると知ったのだ」
そこで突然、アルディーン二世は立ち上がった。己を奮い立たせるように拳を握りしめ力強く言葉を発する。
「それでも余はこの城に戻りたかった! ここはイスラファーンの栄光の地。例え王国が滅びようとも、ここに戻ればもう一度建て直せる。そう。王城エイン・デルシスと、この王家の宝剣ゼーレン・イスラファーンがあれば!!」
腰のベルトに挟んであった黄金のショートソードをアルディーン二世は高々と掲げる。
「それがこの城でおぬしが探したかったものなのか?」
「うむ、そうだ。この宝剣はイスラファーンの正当なる王である証。王位継承の儀式で、先代の王より次代の王に引き継がれていくものなのだ。例え余の身に何かあったとしても、これがあれば新たな後継者に王位を引き継がせる事が出来る。その者がきっとこのイスラファーンを建て直してくれるであろう!」
蝋燭の明かりに照らされちらちらと輝く宝剣は、まるで亡国の栄華の残り火のようだ。
アルディーン二世は演説を終えると、満足したようにまた木箱に腰を下ろした。
「じゃがそれだけ高価そうな物がよく盗まれてなかったのう」
「これは石櫃の二重底に隠されていたのだ。厳重な仕掛けに守られてな。それを解除できるのは歴代の王のみなのだ。そしてこの剣を鞘から抜くことが出来るのも歴代の王のみ。もしそれ以外の者が抜こうとすれば、王家の呪いによりその者は立ちどころに命を失うであろう……」
そう言ってアルディーン二世は宝剣ゼーレン・イスラファーンの鞘の装飾を弄り始める。
しばらくするとカチッという音と共に、鞘から艶めかしい光を放つ白い刀身が現れる。
「……という風に世間には言い伝えられているのだがな。実際は鞘の装飾にいくつかスイッチが隠されていて、順番に操作しないと抜けないようになっているのだ。そして操作の順番を間違えたり、強引に剣を引き抜こうとすると、その者は柄頭から噴き出す毒ガスによって命を落としてしまうのだ」
「呪いどころか、ただのトリックっていうわけじゃな。知らない方が良かった気がするぞ」
「うむ。真実とは得てしてそう言うものだ」
二人は軽く笑いあう。
それから『黒獅子姫』は壁にもたれかかり目を閉じる。
「わしはちょっと休むぞ。少しでも早く魔力を回復させて、ダグを助けに行かんと」
「うむ、そうか。では余も少し休むか。死人に休息が必要なのかは分からぬが……」
『黒獅子姫』は蝋燭立てを手に取り、火を吹き消そうとした。
その時、頭上から微かに金属音のようなものが聞こえてきた。
二人は口を閉ざし耳を傾ける。
そして同時に叫んだ。
「戦闘の音!!」
**********
果てしなき忘却の世界。
無限に続く黒の回廊。
辺りに広がるのは延々と続く暗闇ばかり。
そこではダグボルトの非凡で強靭な肉体は消え失せ、平凡で脆弱な精神が曝け出される。
結局の所、肉体など虚飾に過ぎない。虚飾が剥げ落ちた時に人間の真価は問われるのだ。
そう。
彼はセオドラを救えなかった。
彼はリーシャを救えなかった。
それが彼、ダグボルト・ストーンハートという人間の本質。
虚飾の剥がれ落ちた哀れな男の本当の姿。
そうして何事も成し得ず、何の価値もない人間として、その生涯を終えようとしているのだ……。
(だが俺はまだ生きてるぞ!)
内なる声に抗うようにダグボルトは叫んだ。
(俺はまだ死なん。ミルダが助けに来てくれると約束してくれたんだ!)
しかしダグボルトは心の中で己の欺瞞を見抜いていた。
(……いや、約束など何の意味もない。俺はリーシャに居場所を見つけてやると約束したのに、結局はこの手に掛けてしまった。そんな俺が約束を守ってもらおうなんて、おこがましい話だ……)
すると突然闇が晴れ、目の前に懐かしい景色が現れる。
消滅する前の王都デルシスの正門前。
プレートメイルの上に聖天教会の白いサーコートを羽織った三人の若い聖堂騎士の姿が見える。
その内のひとりは聖堂騎士になったばかりの若きダグボルトだ。三人は馬に乗ったまま正門の前にある何かを見ている。
正門の上から長いロープを首に掛けられた男の死体が吊るされていた。
腐敗がひどいので年齢は分からないが、服装や体形を見るに二十代前後くらいのようだ。蛆に塗れた死体は悪臭を放ち、ぶんぶんと蠅がたかっている。
最年長の聖堂騎士ローレクは鼻をつまんで顔をしかめている。
「ひでえ臭いだな……。で、こいつは一体何をしでかしたんだ、サー・ケレイン?」
「強盗殺人の常習犯と聞いています。デルシスの北市街区で捕えられ、三週間前にアッコンの刑場で処刑されたようです」
「フン。人間の屑に聖天の女神の正当なる裁きが下ったわけだ」
そう言うとローレクは馬上から死体の足元に唾を吐いた。
「そうは思わんか、サー・ダグボルト」
「えっ?」
突然ローレクに話を振られ、若きダグボルトはあいまいに頷く。
「そろそろ街の中に入りましょう。大聖堂で司教様が我々の到着を待っているはずです」
ケレインの言葉に従い、三人はデルシスの街に消えて行った。
やがて場面は暗転し、元の暗闇へと戻る。
(……俺とあの吊るされた男との違いはたったひとつ。俺はセオドラと出会った。あの男は出会わなかった。そして俺は聖天教会に入り聖堂騎士となり、あの男は絞首台の露と消えた。俺は救われたが、あの男は救われなかった。だがなぜだ? なぜ俺なんだ? それが女神の意志なのか? 俺に何かを成し遂げろと言っているのか?)
再び闇が晴れ、今度は薄暗い地下室が現れる。
ビュッと風を切る音。
くぐもった悲鳴。
先程の場面より数年歳をとったダグボルトが両腕を鎖で拘束され、Y字の姿で天井から吊るされている。
後ろに立っている覆面の騎士が鞭を振るう度、上半身裸のダグボルトの背中の肉が裂ける。誤って舌を噛み切らないよう、ダグボルトの口には口輪がはめられている。
ダグボルトの周囲には五、六人の覆面騎士がいた。しかし正面にいる女騎士だけは覆面をしておらず、冷淡な眼差しで鞭打ちを眺めている。
彼女の名はマデリーン・グリッソム。
聖天教会の事実上最後の教皇となったヴィクター・クレメンダールの懐刀であり、同時に審問騎士団の団長でもある。教皇の愛人であるとも噂されているが、真実は定かではない。
年は二十七。美しいが温かみの無い顔立ち、青みを帯びた長い黒髪を後ろで結っている。
ワインレッドの瞳とは対照的に、肌は雪のように白い。しかし白い肌には不釣り合いな醜い傷跡が身体中にある。
細身の身体に武骨な黒いプレートメイルを身に着け、審問騎士団の赤いマントを纏っている。腰には漆黒のレイピアを佩いている。
長い鞭打ちが終わると、覆面騎士の一人が口輪を外してくれた。
ダグボルトは息も絶え絶えに喘いでいる。全身はびっしょりと汗にまみれ、背中の傷からはだらだらと血が零れ落ちていた。
「痛みを覚えたか、ダグボルト?」
今まで無言だったマデリーンが初めて口を開いた。
ダグボルトは何とか返事をしようとするが、代わりに口から黄色い胃液が溢れ出した。
「その痛みを決して忘れるな。他者に苦痛を与えようとする者は、その苦痛がいかなるものであるか自らの身をもって知らねばならない。それが善の体現者たる審問騎士の教えなのだ」
それだけ言うとマデリーンは隣の部屋に消えた。鞭を打っていた男が覆面を外し、ダグボルトの肩を優しく叩いた。
「合格だ、ダグボルト・ストーンハート。お前を我ら審問騎士団の一員と認めよう」
ようやく審問騎士団の入団試験は終わった。これと比べれば聖堂騎士団の入団試験などままごとみたいなものだ。背中の痛みはすでに耐え難いものになっている。
早く鎖を外して痛み止めの薬をくれ。
ダグボルトは心の中で呟く。
するとマデリーンが隣の部屋から戻ってきた。今度は真っ赤に熱した鉄を挟んだ大きなやっとこを手にしている。
ダグボルトの頭の中が一瞬で真っ白になる。
マデリーンは熱した鉄をダグボルトの右頬に近づけた。
頬の産毛が焦げ、皮膚がちりちりと炙られる感覚。
胃液が口の中にこみ上げてくる。汗が滴り落ちるたびに、鉄はジュッという音を立てる。
「恐怖を覚えたか、ダグボルト?」
そう尋ねるマデリーンの顔には何の表情もない。
サディスト的な喜びも、良心の呵責も何もない。
人間味の欠片もない完全な無表情。
「恐怖は善を成立させるために必要不可欠なもの。恐怖なき善に誰が従うというのだ? そんな甘ったるい砂糖菓子のような善など空虚な理念に過ぎない。我々は現実的尺度に基づき、善を体現せねばならないのだ。そしてそれが偉大なる教皇猊下の教えでもある。分かったか、ダグボルト?」
ダグボルトは頷くのがやっとだった。言葉を発しようとすればまた胃液を吐き出してしまうだろう。
マデリーンはダグボルトの身体から熱した鉄を離し、再び隣の部屋に消えて行った。
そして場面は暗転し、元の暗闇へと戻る。
(俺は自らの意志で、聖堂騎士団から新設されたばかりの審問騎士団に移籍した。力をもって善の体現者たらん、という審問騎士団の信条に引かれたからだ。だがそんな信条など、もうどうでもいい。真なる聖女であるセオドラを、魔女に仕立て上げて殺してしまうような教会が唱える善に何の意味があるんだ? 結局全てが無駄だった。セオドラに命を救われたのに、俺は結局何も成し遂げられなかった……)
やがてダグボルトの記憶は薄れて行き、朦朧とした意識の中でとりとめもなく無意味な思考を繰り返す。
(セオドラ……。セオドラ……? 誰だったかな、そいつは……。もういい。俺は楽になりたいんだ。ひとりにしてくれ……)
ダグボルトの意識が途絶える。
そして彼は、再び果てしなき忘却の闇に身を委ねるのであった。
**********
「真面目に戦え、ホノリウス!! このままでは我らは全滅するぞ!!」
「し、しかし私は戦闘要員ではないのですぞ、サー・フレデリク!!」
『黒獅子姫』とアルディーン二世は戦闘の音がした場所へと走り、城の地下に続く階段の踊り場にたどり着いた。
そこでは二人の男が三体の骸骨戦士に囲まれていた。どちらの男もひどくやつれていて、長い無精髭を生やしている。
古びたプレートメイルに身を固めたフレデリクは、二体の骸骨戦士に囲まれながらもカイトシールドで攻撃を巧みに防いでいる。しかし防戦一方で攻撃する暇がないようだ。
一方、ホノリウスは手に持った大きな旅行鞄で、残りの一体の骸骨戦士の頭を何度も殴りつけている。
しかし効き目は薄い。というより全く効いていない。
腰にショートソードを佩いているのに抜こうともしていない。恐怖で錯乱して存在すら忘れているのだろう。
シミターを抜いた『黒獅子姫』は、フレデリクに加勢するため、骸骨戦士の背後にそっと忍び寄る。
しかし気配を察したのか、骸骨戦士の一体がくるりと振り返った。
白骨化した身体には蔦や蔓がびっしりと絡み付いている。
『翠樹の女王』に生み出された悍ましい屍の戦士。すなわち――
――魔女の尖兵『蔦の異端』
振り返った『蔦の異端』は手にしたバトルアクスを振り上げ、『黒獅子姫』に襲いくる。
振り下ろされたバトルアクスをシミターで受け流すと、長い金属音と共に激しく火花が散る。
逸らされたバトルアクスの刃が地面を叩く。逆にシミターの刃はチェインメイル(鎖帷子)を装備した『蔦の異端』の喉を強撃する。硬質の刃が鎧を構成する鎖を切り裂いた。
ブチブチと何かがちぎれる音。
チェインメイルの首の裂け目から切断された蔦や蔓が見える。『蔦の異端』の頭がだらんと後ろに垂れ下がる。
(なるほど。蔦や蔓が筋肉の代わりとなって白骨の身体を動かしとるんじゃな)
しかし首が取れそうになっても『蔦の異端』は動きを止めず、なおもバトルアクスで切りかかってくる。
「胸です!! そいつの右胸を刺すのです!!」
もう一体の『蔦の異端』と戦闘中のフレデリクが叫んだ。
『黒獅子姫』はバトルアクスをかわすと、フレデリクの言葉通り『蔦の異端』の右胸にシミターを突き刺した。
すると『蔦の異端』は糸の切れた操り人形のように、急に身体から力が抜けて地面に倒れる。鎧の隙間のあちこちから切れた蔦や蔓が飛び出している。
「そこがこいつらの弱点なのです。全身を覆う蔦や蔓は全て右胸に繋がっているようで、その部分を切ると動けなくなってしまうのです」
もう一体の『蔦の異端』を倒したフレデリクは、ロングソードについた樹液をぼろぼろのマントで拭いながら言った。
年は四十台前後。白髪交じりの長い茶髪。顔はやつれ無精髭に覆われているが、整った顔立ち。
上品な仕草や言葉遣いから高貴な騎士である事を窺わせる。
「ど、どうでもいいが余も助けてはくれぬか?」
アルディーン二世が哀れっぽいを声を上げる。
二人が振り返ると、ホノリウスを襲っていた『蔦の異端』は背中からバスタードソードを突き立てられ地面に倒れている。しかしその横でアルディーン二世がホノリウスに頭を旅行鞄でぽかぽかと殴られていた。
「戦闘は終わったぞ。ホノリウス。その方は敵ではない」
フレデリクの言葉でホノリウスはようやく正気に戻る。
「はっ! これはお見苦しい所をお見せしてしまいましたな、御仁。私めはアドラント出身の詩人ホノリウス・ダンセンと申し――」
「挨拶は後だ。まずはここから離れるぞ」
フレデリクに冷たく言われ、ホノリウスはしょげ返る。
ホノリウスは五十台くらいの男だが、艶々とした黒髪に白いものは全く無い。しかし頭頂部は髪が大分薄くなってきている。
頬の皮膚のたるみを見る限り昔は太っていたのだろうが、今はフレデリク同様やつれ果てている。ショードソード以外に武装は無く、黒い大きな旅行鞄を大事そうに抱えている。
「この階段を下りれば安全な場所があります。まずはそこまで行きましょう」
フレデリクの言葉に従い、『黒獅子姫』とアルディーン二世は階段を下りようとした。
すると突然、アルディーン二世の足に木の枝が絡み付く。バランスを崩しアルディーン二世は鈍い音を立てて転倒する。壁を覆っていた木の枝が次々と剥がれ、四人に向かってきていた。
『黒獅子姫』はアルディーン二世の足に巻き付いた木の枝をシミターで叩き切る。しかし今度は別の枝が襲いかかる。
「ああッ!! そ、そいつはいかん!!」
アルディーン二世のベルトに挟まれた王家の宝剣ゼーレン・イスラファーンの柄に、木の枝が巻き付いていた。彼は慌てて鞘を掴み、宝剣を奪われまいと必死に引っ張る。
するとカチッという音が鳴り、宝剣の柄頭から黄色いガスが噴き出した。
木の枝はそのガスを浴びると急に宝剣を離し後退していった。いや、その枝だけでなく他の枝も次々と通路の奥に消えていく。
アルディーン二世は宝剣を手にし、ほっと胸をなでおろす。
「よく分からんが宝剣を取られずに済んで助かった。ともかく早く逃げようではないか!」
四人は階段を下り、終着点にあった地下室に入る。全員が中に入ったのを確認すると、フレデリクは扉の閂を掛けた。
「これで安心です。あの植物も『異端』どもも基本的に地下までは入ってこないのですよ。日の当たらない場所が嫌いなのでしょう」
アルコールの匂いがつんと鼻をつく。
この部屋は酒蔵庫らしく、酒樽の積まれた棚が八列ほど並んでいる。天井から吊るされたランプに火が灯されているため部屋の中は明るい。壁一面にびっしりと木の根が張っている。
「この根っこは襲ってこないのかのう?」
「ハハハ。こいつらは襲ってこないどころか、私どもの重要な水分の補給源になっているのですぞ」
そう言うとホノリウスは手にしたショートソードで一本の根を傷つける。淡く光る樹液が滴り落ちると彼は手で掬ってごくりと飲んだ。
「うん、うまい。戦闘の後に飲む冷たい水は身も心も癒してくれますな。酒もいいのですがかえって喉が渇いてしまいますからなあ」
「それ、飲んで大丈夫なのかのう?」
「ハハハ。確かに光っていて薄気味悪いですが、味は普通の水と変わりありませんぞ。あなたも一杯どうですかな?」
しかし『黒獅子姫』は黙って首を横に振る。
ホノリウスは肩をすくめると、ひとりでごくごくと樹液を飲み始めた。
全員が落ち着いたところで、フレデリクが『黒獅子姫』達に声を掛けた。
「ところで、そろそろお互いに自己紹介致しませんか。私はフレデリク・モールステン。かつてはこのイスラファーンの王家に仕える近衛騎士でした。しかし今は国も主も失い、穢れた大地を当て所もなく流離う身。正直、騎士を名乗るのもおこがましいくらいです」
「謙遜せずとも良い。貴公は今でも立派な騎士だ、サー・フレデリク。故郷の地で貴公と再会出来て余は嬉しいぞ!」
アルディーン二世に突然抱きしめられて、フレデリクは目をぱちくりさせる。
「えっ? 私はあなたの事を知らないのですが……」
「余だ。貴公の主にしてイスラファーン王国の七代目国王アルディーン二世だ」
「えええッ!?」
フレデリクは驚いてアルディーン二世から身体を離した。ホノリウスも思わず飲んでいた樹液を口から噴き出す。
「そ、そんなはずはありません。陛下は遥か昔に亡くなられているのです。あなたが本物の陛下であるという証拠でもあるのですか?」
「証拠か……。そういえば貴公に騎士の叙任を行った時、余から受け取る剣をうっかり落としそうになってしまった事があったな。その後、貴公は事あるごとにそれを謝罪するものだから、余は正直鬱陶しくなってな。最後には『もう二度とその話はするな、次にその話をしたら城から叩き出すぞ』と怒鳴りつけてしまったな。覚えておるか、サー・フレデリク?」
フレデリクの目が興奮できらきらと輝き出した。
「おお!! おおお!! もちろん覚えておりますとも!! その事を知っているとは、あなたは間違いなく本物の陛下!! まさか陛下が生き返られる日がこようとは!! おお!! これこそ聖天の女神の奇跡に違いない!!」
フレデリクはアルディーン二世の足に縋り付き、号泣し始めた。
ホノリウスは旅行鞄から羊皮紙とインク壺、羽ペンを取り出し、この劇的な場面を切り取って詩に収めようと悪戦苦闘している。
しばらくして興奮が収まったフレデリクは、マントで涙を拭い立ち上がった。
「よく見るとその鎧は陛下の死装束でしたね。御姿を見た時に気づくべきでした」
「死装束?」
「ええ。陛下の遺体は損傷がひどかったので、棺に納める時にその鎧を着せていたのです。覚えていないのですか?」
「うむ、余は自分が死んだ頃の記憶が全く無くてな。よければ話してはくれぬか」
するとフレデリクは急に言葉を詰まらせる。
「どうした、サー・フレデリク? 話せないような事なのか?」
「い、いえ、そういう訳ではないのですが……。あの当時、イザリア様の体調が悪かったのを陛下は覚えておいでですか?」
「娘が? ううむ、覚えておらぬなあ……」
「そうですか……。イザリア様は肺を患い、熱がなかなか下がらず、何日も寝込んでおられました。そこで心配された陛下は、イザリア様に何か欲しい物はないかとお尋ねされたのです。イザリア様は近くの山の麓に生えるリーリスの花が欲しいとお答えされました。陛下の亡き奥方様が愛された花であり、イザリア様はそれをお守りにしたいと申されたのです。そこで陛下はお供を引き連れ、自らリーリスの花を摘みに行かれました。しかし悪い事に長雨のせいで山は地盤が緩んでいたのです」
フレデリクはの口の中はからからに乾いていた。ごくりと無理やり唾をのみ込むと話を続ける。
「陛下が落石の下敷きとなり帰らぬ人となった時の、イザリア様の絶望は計り知れないものがありました。自分のせいで父親を死なせてしまったと悲嘆にくれ、ずっと自分を責め続けていたのです。我々はどうする事も出来ず、寝室に引きこもってほとんど外に出てこなくなったイザリア様の身を案ずるばかりでした。しかしイザリア様の悲劇はそれだけでは終わらなかったのです」
今やアルディーン二世のみならず、他の二人も話に引き込まれていた。静かな地下室にフレデリクの乾いた声が響く。
「本来ならば陛下亡き後の後継者は長兄のレマルク様でした。しかしダーレン伯バーティス・ブラックタワー率いる王国南部の貴族連合が弟君のエミル様を担ぎ出し、王位継承に異を唱え反乱を起こしたのです。そして兄弟が骨肉の争いを繰り広げる姿を見て、イザリア様の繊細な心は完全に壊れてしまわれました。レマルク様はそれを見るに堪えぬとばかりに、遠くの修道院に預けてしまわれたのです」
「それで結局、我が子らはどうなったのだ?」
アルディーン二世はとうとう我慢できずに口を挟んだ。フレデリクはためらいながらも答える。
「……レマルク様とエミル様は三年に渡り戦い続けましたが決着がつかず、最後はどちらも『黒の災禍』で魔女の軍勢に殺されました。イザリア様は『黒の災禍』後、行方が分からぬままです。預けられた修道院にも行ってはみましたが、すでに廃墟と化していました……」
話が終わるとフレデリクは力尽きたように床に腰を下ろす。
しばらく言葉を発する者はなかった。
アルディーン二世は気持が落ち着かないのか、宝剣を手の中でくるくると弄んでいる。
「ふう。もはや我が一族にこの宝剣を継げる者はいなくなったわけだ。いっその事、貴公がイスラファーンの王になるか、サー・フレデリク?」
「と、とんでもございません!! 私はとても王の器ではありません。生き返られた陛下がもう一度イスラファーンの王座について下さい!!」
「余はすでに一度死んだ身だぞ。今更王座には戻れぬ。それよりも才気溢れる次代の若人に王の座を引き継ぎたいのだ。イスラファーンを建て直せるような情熱ある者にな」
すると『黒獅子姫』が静かに手を挙げた。
驚いた全員の視線が集中する。
「む? そなたが王座を継ぎたいというのか? 女子であっても情熱さえあれば全然構わないぞ」
アルディーン二世が差し出した宝剣を受け取ると、『黒獅子姫』はすっくと立ち上がった。
「それも面白いやもしれんのう。じゃが今は、成すべき事をすべきじゃ。ずっと考えておったんじゃが、この宝剣があればダグを助け出せるかもしれんぞ」
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