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モラヴィア大陸北西部最大の湖、バーレイン湖。
湖の水は美しく澄み渡り、そこで取れる魚は周囲に暮らす者にとって貴重な栄養源となっている。
かつて湖の周辺はイスラファーン王国の領土だった。
しかし『黒の災禍』、すなわち暴走した魔女の軍勢による無秩序な破壊行為によって王国は滅び、今は僅かな人々が暮らす村が点在するばかりだ。
バーレイン湖の湖畔は静寂に包まれ、時折魚が跳ねる音が微かに響く。
しかし遠くから無遠慮な馬の足音が近づいて来た。
やがて湖畔を覆う朝靄の中に二つの人影が現れる。
一つ目の人影は二ギット(メートル)をゆうに超える巨漢。
身に着けた飾り気の無い鋼のプレートメイルは、あちこちに戦傷や窪みが残されていて、歴戦の騎士であることをうかがわせる。
特にフルフェイスヘルムの破損はひどく、顔の部分の左側が醜く焼け焦げ、左目の覗き穴が溶けて塞がってしまっている。残された右目の覗き穴からは、緋色の瞳が熟れ過ぎたザクロのように爛れた輝きを発している。
ダグボルト・ストーンハート。
それがこの一つ目巨人(キュクロプス)めいた騎士の名前。
端が擦り切れボロボロになった枯葉色のフード付マントを纏い、左手にはヒーターシールド(逆三角形の中型盾)、腰のベルトには片側を尖らせた武骨なスレッジハンマー(戦槌)を吊り下げている。スレッジハンマーの片面には、聖天の女神ミュレイアを象った聖印が施されている。
ダグボルトは通常の馬よりも一回り大きめな、フォーラッド地方産の黒馬に騎乗している。
もう一つの人影は十四、五歳ぐらいの少女。
肩のあたりまで伸びた黒髪は、くしゃくしゃとしたくせっ毛。瞳は黒く、気だるげな眼差し。退廃的な美貌の持ち主だ。
肌は不健康な白さで、小柄で痩せぎすの身体。裾の短い黒いフード付ローブを着て、膝上までの黒のロングブーツを履いている。
少女は馬ではなく黒い体毛の獅子に騎乗している。
しかしよく目を凝らしてみれば、この獅子の身体が無数の黒蟻によって構成されたものであると気付くであろう。いや、獅子だけではない。少女が纏うローブやブーツもまた、黒蟻が集まって形作られたものなのだ。
魔力で生み出した黒蟻を使役する。
それがこの少女――『真なる魔女』、『黒獅子姫』の能力なのである。
――前方に何かいる。
突然、先頭を進んでいたダグボルトが馬を止め、左手のヒーターシールドを軽く上げて合図する。同時に腰のスレッジハンマーに右手を掛けている。
『黒獅子姫』が目を凝らして靄の中を見ると、遠くの方で複数の人影が蠢いている。
しばらく観察した後、ダグボルトに近づいて囁きかけた。
「人が何人かおるが、武装はしとらんようじゃ。それに怪我人もおるようじゃな」
「そうか。賊か何かに攻撃を受けて逃げてきたのもしれんな。少し話を聞いてみるか」
二人は警戒を解いて人影の群れに近づいて行った。
そこでは二十人ほどの人間が集まって焚火で暖をとっている。年齢も性別も様々で、『黒獅子姫』が言った通り武装はしておらず、全員質素な服を着ている。どこかの村の村人のようだ。
皆、目は虚ろでくたびれた顔をしている。身体に血の滲んだ包帯を巻いている者もいた。
「大丈夫か? わしらに何か手助けできることがあれば協力するぞ」
『黒獅子姫』は地面に倒れている男の頭に包帯を巻いている、四十代ぐらいの中年女に声を掛けた。
女は顔を上げて『黒獅子姫』を見た。やつれてはいたが、それでも気丈な表情を崩さない。
この状況で大したものじゃな、と『黒獅子姫』は感心する。
「ありがとう。包帯とガーゼを持ってれば少し分けてもらえないかい? それと――」
「うう……。城が……城が襲ってくる……」
突然、倒れていた男がうわごとのように呟いた。
「城?」
『黒獅子姫』は男の不思議な台詞に眉をひそめる。
「血を吸う城が……みんなを……俺達の村を……うう……」
それだけ言うと男の身体から力が抜ける。どうやら気を失ったらしい。
「この人の言っているのは『膏血城』の事さ。あたしらの村はその城に襲われたんだよ。ここにいるのはあたしを含め、かろじて『膏血城』の魔の手から逃げ延びた人間なんだ」
気絶した男の話を継いで中年女が説明する。
「城が人を襲うのか? 城の兵士ではなく?」
今度はダグボルトが尋ねる。
「ああ。正確には『膏血城』は得体の知れない植物に覆われていて、その枝が村を襲って人間の生き血を吸い尽くすんだよ。何もない所にあの城は突然現れて人々を襲い、忽然とまたどこかに消えていくんだ。この辺りの村はもういくつも潰されたよ」
ダグボルトと『黒獅子姫』は顔を見合わせる。
「魔女の仕業かもしれんな」
「可能性は限りなく高いのう」
『黒獅子姫』は懐から包帯とガーゼ、傷薬の軟膏が入った小瓶などを取り出して中年女に手渡した。
「少ないが、これを使うのじゃ。それと、その城が今どこにあるか知ってたら教えてくれんかのう?」
「えっ? もしかしてあの城に行く気なのかい!?」
「うむ。そのような危険な代物は、わしらの手でさっさと潰してしまわんとな。そうじゃろう、ダグ?」
ダグボルトは黙って頷く。
中年女は驚いて二人の顔を交互に見る。
そして二人が本気であると分かると、顔をくしゃくしゃに歪める。
「……あんたらみたいな人間がまだいたなんてね。あたしら聖天の女神に見放されたと思ってたけど、世の中まだ捨てたもんじゃないね……」
中年女の目に涙が光っている。
『黒の災禍』以来、希望の無い過酷な生活を送ってきたのだろう。
『黒の災禍』の一因ともなった『黒獅子姫』は、何とも言えない気持ちになる。
涙を拭うと中年女は話を続ける。
「あたしらにはあの城はどこに現れるか、今どこにあるか全く分からないんだ。けどあの城について何か知ってそうな人なら知ってるよ。その人に会えば何か手がかりが得られると思うよ」
「そいつの名前は?」
ダグボルトの質問に、中年女は一瞬口籠った後こう答える。
「……アルディーン二世」
「まさかあのアルディーン二世か!? 嘘だろう?」
「そやつがどうかしたのか、ダグ?」
「イスラファーン王国の国王アルディーン二世は、『黒の災禍』の三、四年ぐらい前に亡くなっているんだ。王が亡くなった時、ちょうど俺も王都デルシスにいて葬儀を見てるから間違いない」
中年女もダグボルトの発言を肯定するように頷く。
「その人の言う通りさ。確かに陛下はずいぶん前に亡くなっている。きっとその人は陛下の騙りなんだろうね。けどその人と話してると時々、この人は本物の陛下なんじゃないかって錯覚するんだよ。不思議な事にね」
ダグボルトはフルフェイスヘルムの中で胡散臭げな顔をする。
しかし今のところ何の手がかりもない以上、その男に会うしか選択の余地はないようだ。
「そいつとはどこに行けば会える?」
「あの人は大抵、ここから少し行った所にある王都デルシスの跡地にいるよ。今はもう何もない場所だけどね……」
中年女の言葉は正しかった。
そこにあるのは無――。
かつては大陸中の富が集まる麗しの地であり、聖天教会の大聖堂がある信仰の地でもあった王都デルシス。
しかし今は無――。
まるで巨大な剣で横薙ぎに切られ、表面をそぎ落とされたかのように、城も城壁も商店も家屋も教会も全てが消え失せ、テーブルのように平らな大地が広がるばかりだ。
凄まじい熱で焼かれたため、大地は細かい罅の入った黒いガラスのようになっている。
「この地は魔女の軍勢との激戦区だったと聞いてる」
ダグボルトは感情を殺した淡々とした口調で言った。
「だがこれだけ凄惨な破壊行為が出来る魔女を、俺は一人しか知らない」
「『白銀皇女(リンドヴルーム)』じゃな」
『黒獅子姫』の言葉にダグボルトは静かに頷いた。
「……そうだ。そして俺の顔を焼いた魔女でもある」
魔女への恐怖が蘇り、顔の火傷がちりちりと疼くのが感じられる。恐怖を抑えるため、フルフェイスヘルムを脱いで火傷を掻き毟りたい衝動に駆られる。
『黒獅子姫』は押し黙ってしまったダグボルトを励ますように、腰を軽く叩いた。
「じゃが、あの娘はもうこの辺りにはおらんな。もしおったなら、すぐにでもわしらを嗅ぎつけて、ここに現れたはずじゃ。それよりあれを見よ」
『黒獅子姫』は焦土の一ヶ所を指さす。
そこにはこの状況にまるで似つかわしくない物があった。
木材の端切れを集めて作られた安っぽい玉座。
そして謎の人物がその玉座に両腕を組んで腰掛けている。
その人物は白地に金の装飾をあしらった豪奢なプレートメイルに身を固め、その上に古びた真紅のサーコート(軍用外套)を羽織っている。
王冠のような意匠の施されたフルフェイスヘルムを被っているため顔は分からない。
膝の上にはバスタードソード(片手、両手のどちらでも持てる長剣)が置かれている。
謎の人物は時々、腰のベルトからねじ巻式の懐中時計を取り出して時間を確認している。こうした精密機械は希少品のため、高貴な身分の者でしか入手出来ないはずだ。
「ううむ……。十分……。あと十分の辛抱だ……」
謎の人物はいらだった口調でぶつぶつと呟いている。ヘルムのせいでくぐもった声だが、男のものである事だけは分かる。
「おぬしがアルディーン二世?」
『黒獅子姫』は謎の男に話しかけた。
「これは麗しき乙女どの。その通りだとも。余こそがこのイスラファーン王国の十四代目国王アルディーン二世であ――」
そこでアルディーン二世は急に言葉を詰まらせる。
「おお……おおおお…………」
突然、玉座から立ち上がったかと思うと、アルディーン二世は『黒獅子姫』の後ろにいたダグボルトの前まで走って来た。ヘルムのせいで表情は分からないが、仕草を見るにかなり興奮しているようだ。
「貴公、聖天教会のサー・ダグボルトではないか!! 兜が焼けていて分かりずらいが、その巨体、そしてその聖印が施されたスレッジハンマーは間違いなくサー・ダグボルト! このような場所で貴公に再会出来るとは僥倖というもの。おお、聖天の女神よ、お導きに感謝いたします!!」
『黒獅子姫』は驚いて目をぱちくりさせている。ダグボルトも戸惑いを隠せない。
「ダグ。おぬし、この王様と知り合いなのか?」
「確かに俺は生前のアルディーン二世に謁見した事はあるが……」
ダグボルトはアルディーン二世に問いかける。
「ひとつ確かめておきたいんだが、あんたは本当に本物のアルディーン二世なのか?」
「うん? 無論そうだが」
「だったら兜を脱いで顔を見せてくれ。そうすれば信じよう」
するとなぜかアルディーン二世は肩を落とし、しょげ返った様子でまた玉座に腰掛ける。
「それがな……。なぜかこの兜は外れんのだ。鎧も同じように脱げん。そもそもどうしてこんなものを身に着けておるのかすら、余には全く分からん……」
「そういう事なら俺がその兜を外してやろう」
ダグボルトはいきなりアルディーン二世のフルフェイスヘルムに両手を掛ける。そして力の限り引っ張った。
「ぐげええッ!! や、やめてくれ!! そんなに引っ張ったら首が伸びてしまう!!」
「……この兜、鎧と一体化しているような感じだな。それなら少し強引にこじ開けてみるか」
今度はフルフェイスヘルムをぎりぎりと捻るダグボルト。
ヘルムからはミシミシという嫌な音が鳴る。
「ま、待て!! サー・ダグボルト、これはいくらなんでも乱暴過ぎるッ!!」
アルディーン二世はダグボルトの手を振り切り、地面に尻餅をついた。
荒い息をついて苦しげな様子で首を押さえている。
ダグボルトの背後から『黒獅子姫』がマントを引っ張る。
「もうやめよ、ダグ。こやつが本物か偽物かなんぞ、どうでもよいではないか。それより『膏血城』について聞いてみようではないか」
「確かにそうだな。こいつの正体を暴くのは後にするか。……おい、あんた。『膏血城』について詳しいらしいな。俺達はあの城に行きたいんだが、今どこにあるか知らないか?」
「何と!! 貴公らもあの城に行く気なのか!」
アルディーン二世ははまたも興奮した様子で立ち上がった。
「それはちょうどいい。余もこれからあの城に向かおうと考えていたのだ。あの城に隠された我が王国の財宝を入手するためにな!」
「財宝?」
急にダグボルトの右目が赤々と輝いた。
「そういう事なら俺達も噛ませてもらおう。その財宝とやらを手に入れるのに俺達も協力させてくれ。あんたとの取り分は半々でいいな」
『黒獅子姫』は、またダグボルトのマントを引っ張った。今度はさっきよりも強く。
「待つのじゃ、ダグ! 今何をすべきか忘れたのか? 『膏血城』に魔女がいるかどうか確かめて、いたら魔力を回収する。それがわしらの目的じゃろうが」
「分かってる。だが旅の路銀が尽きかけているし、こんなのは魔女探索のついでに出来る仕事だ。ここで金を稼いでおけば余計な仕事に時間をとられずに済むしな」
旅の間、ダグボルト達は手持ちの金が尽きそうになると、野良の『異端』や夜盗退治などの仕事をして金を稼いでいたのだ。
「まあ、金があるに越したことはないが……。じゃがおぬし、元聖職者のくせにずいぶんと俗っぽいんじゃな」
「何とでも言え。金の管理をしているのは俺なんだから、金にうるさいのは当然だろうが」
そこでダグボルトは不意に何かを思い出した顔をする。
「そういえば俺がグリフォンズロックの闘技場(コロッセオ)で稼いだ金はどうした? 両替商で換金しておいてくれたんだろう?」
「え? ああ、あれなら全部使ってしまったぞ」
事もなげに答える『黒獅子姫』。
「はあ!? 半年分の宿代が払えるくらいの金だぞ。それをどうやって数日で使い切れるんだ!?」
「宿代の他にも、情報収集とかで色々と入り用だったんじゃ。おぬしは細かい事でグチグチとうるさいわい」
格好つけて『馬の骨亭』の主人に全部あげてしまったとは言えず、『黒獅子姫』は適当に誤魔化そうとする。
「あー、お二人さん。痴話喧嘩はいいがそろそろ時間だぞ」
急にアルディーン二世が口を挟んできた。
「何の時間だ?」
ダグボルトが尋ねた瞬間、何の前触れもなく玉座の背後に巨大な建造物が現れる。
たくさんの尖塔とステンドグラス、複雑な装飾が施された繊細な石造りの城にも見えるが、外壁は蔦や太い木の幹で覆われ原形が全く分からないような状態だ。上部の枝からは緑の葉がふさふさと生い茂っている。
これが『膏血城』に違いない。
「出発の時間という事だ」
アルディーン二世はバスタードソードを背負い、城に向かって歩き出した。二人も慌てて後を追う。
「あんた、よくここに『膏血城』が現れると分かったな」
「あれは元々ここにあったものだからな。どこに場所を移したとしても、たまにここに帰ってくるのだ。移動の法則を見つけるのにはずいぶん苦労したがな」
「元々あった?」
ダグボルトは『膏血城』をじっと見る。しばらくしてある事に気づいた。
「そうか! こいつはイスラファーンの王城エイン・デルシス! しかしずいぶんとひどい有様だな。昔は美しく光輝いて見えたものだが、これでは誰も分からないな」
「うむ。かつてこの王城はデルシスの栄光と讃えられたものだ。これも栄枯盛衰というものよ……」
アルディーン二世はヘルムの中から深い嘆息を漏らした。
三人は城門をくぐり城の中に足を踏み入れた。
蔦や木の幹や枝などが廊下の壁や天井などを縦横無尽に走り、まるで密林の中に迷い込んだかのような錯覚を与える。壁の美しい燭台や床の絨毯なども全て木々に埋もれてしまっている。
周囲に警戒しつつ少しづつ先に進むと、やがて三人は中庭に出た。
そこは人間の顔くらいの大きさの花が咲きほこる花園となっていた。どの花も毒々しい原色の花びらで、くらくらするほど甘い匂いを漂わせている。
これを美しいと感じているなら、城の主は相当な悪趣味と言えるだろう。
突然、花園の中心部に生えている二ギット(メートル)ほどの大きさの巨大なウツボカズラから女の声が響き渡る。
「そなたら、この『翠樹の女王(イグドラシル)』が治める城によくも無断で汚い足を踏み入れたな! その代償は高くつくぞ。ここで妾の血となり肉となるがよい!」
周りの花がざわざわと蠢き始める。
ダグボルトとアルディーン二世は武器を構え、攻撃に備える。
しかし『黒獅子姫』だけは戦うそぶりを見せず、二人の間をすり抜けて一歩前に出た。
「久しぶりじゃな、『翠樹の女王』。またおぬしに会えて嬉しいぞ」
一瞬の静寂。
「そ、そなたはまさかッ!? ……ここでそなたに会えるとは思わなんだわ、『黒獅子姫』」
「わしもじゃよ。じゃが、こうして出会ってしまったからには、争うのは止めて平和的に話し合おうではないか。さもないと……」
「さもないと?」
「おぬしの可愛い花を、全てズタズタに切り裂いて燃やしてしまうぞ」
「………………」
『翠樹の女王』はしばし沈黙する。
「……そういう事なら仕方あるまい。妾は謁見の間で待っておる。そこまで来るがいい」
花園を覆う花々が二つに分かれ、人が通れるような道を作る。アルディーン二世は驚いた様子で『黒獅子姫』を見る。
「『黒獅子姫』とはおぬしの事か? そう言えばおぬしとは初対面だが一体何者なのだ?」
「きちんと説明すると長くなるから簡潔に言うと、わしは魔女なのじゃ。とはいっても別におぬしの敵ではないぞ。わしの目的は、この城を支配する『翠樹の女王』という魔女に貸してた魔力を返して貰う事なのじゃ」
(こいつ、自分が魔女だという事を全く隠す気がないな……)
ダグボルトは内心頭を抱えるが、今更誤魔化す事も出来ない。アルディーン二世はさらに驚いた様子で、彼女の顔をしげしげと眺める。
「魔女!? おぬしが魔女とな!? 教会が魔女の脅威を声高に煽っていたとはいえ、そんな非現実的な代物が本当に存在していたとは驚きだ……」
「それを言うなら、おぬしの存在だってかなり非現実的じゃがな。まあよいわ。そういう事じゃから、分かったらさっさと謁見の間に向かおうではないか」
「いや。そなたらだけで先に謁見の間に行っておいてくれ。余は先に宝物庫に向かうのでな」
「え?」
アルディーン二世は突然走りだすと城の奥に消えて行った。
一瞬、ぽかんとする二人。
ダグボルトも慌てて後を追おうとするが、『黒獅子姫』にマントを掴まれ引き止められる。
「ダグ!」
「……ああ、分かってる。あいつはもう放っておくしかないな。こうなったら俺達だけで先に魔女を片付けに行こう。その方が宝探しも楽になるからな」
謁見の間は大理石造りの広い部屋で、壁にはタペストリーが掛けられ、太い円柱が等間隔で立ち並んでいる。高い天井には聖天の女神と使徒の美しい姿が描かれている。
かつてはイスラファーンの権威を示す場だったのだろう。
しかし今は廊下と同様に木の幹や蔦で覆われ見る影もない。玉座まで続くビロードの赤絨毯もタペストリーも、すっかり色あせ虫食いだらけでボロボロになっている。
『翠樹の女王』は玉座を貫くように生えている大樹の幹と半ば同化したような状態だった。顔は目も鼻も口もはっきりとせず、木のうろのようになっている。身体や手足は退化し、幹に埋まってほとんど動かせない有様だ。
「ずいぶんとひどい姿じゃな、『翠樹の女王』。わしを北の城に幽閉した頃は、まだ自分の足で歩ける状態だったのに……」
『黒獅子姫』は半ば憐れむように言った。
すると木のうろのような口から虚ろな笑い声が響く。
「ホホホホホ! なぜ哀しげな顔をしておるのじゃ、『黒獅子姫』。妾は愛するこの城と一つになれて実に喜ばしいというのに。これも全て『白銀皇女』のおかげというものじゃ」
「『白銀皇女』のおかげ?」
「ああ、そうじゃ。イスラファーンの軍勢との戦いで、『白銀皇女』はデルシスを丸ごと消滅させる気じゃった。しかし妾はこの美しい城がどうしても欲しくてな。あやつに頼んでこの城だけは滅さずにおいてもらったのじゃ」
「そいつはお優しい事だな」
ダグボルトが皮肉交じりに呟く。『黒獅子姫』は彼を無視して話を進める。
「じゃあ本題に入るが、わしが貸し与えた魔力を今すぐ返してもらえるかのう。その代りにこの廃城はおぬしの好きにするがよい」
「ホホホ! そのようなつまらぬ戯言、耳を傾ける価値など無いわ。妾の魔力は妾のもの。そなたこそさっさと北の城に帰って、さもしい隠遁生活を続けるがよいわ。時代遅れの魔女め!」
玉座の間の植物がざわざわと音を立てて動き出す。木の枝が触手のように二人を取り囲んだ。
「説得の余地はなさそうだぞ、ミルダ」
ダグボルトが腰のスレッジハンマーに手を掛ける。『黒獅子姫』は深いため息をついた。
「残念じゃ。結局はこうなるのじゃな」
『黒獅子姫』の足元に黒き獅子が現れ、二つの身体が一つに混じり合う。
漆黒の奔流が『黒獅子姫』の身体を包む。魔力で生み出された無数の黒蟻が組み合わさり、形を成していく。
獅子の顔を象った意匠の施された漆黒のラウンドシールド(大型の丸盾)、巨大な漆黒のバトルアクス、流麗な漆黒の鎧。
――『真なる魔女』、『黒獅子姫』の戦闘形態へと。
『黒獅子姫』は漆黒の旋風となり、軽やかに枝の触手を薙いでいく。
ダグボルトもヒーターシールドで枝の触手を巧みに防ぎつつ、スレッジハンマーの突部で容赦なく叩き折る。
二人の攻撃で枝の触手は次々と刈られていくが、それを上回る速度で周囲の木の幹から新たな枝が生えてくる。全方位からの攻撃に翻弄され、なかなか玉座の『翠樹の女王』に近づけない。
消耗戦を仕掛けられ、勝負はこう着状態となる。
そして『黒獅子姫』はある事に気づく。
「蟻酸の炎が点かぬとな!?」
「ホホホホホホ! 驚いておるな。この城の植物の樹液は魔力を帯びていて、あらゆる炎を無効化できるのじゃ。例えそなたの蟻酸の炎であってもな!!」
よく見ると枝の触手からはぽたぽたと樹液が滴り落ちている。『翠樹の女王』の言葉通り、樹液は淡い魔力の光を帯びている。
「しかし驚くのはまだ早いぞ! そなたをわざわざ謁見の間におびき寄せたのには、ちゃんとした理由があるのじゃ!!」
柱の陰から巨大なハエトリグサが現れる。『黒獅子姫』は襲いくるハエトリグサをラウンドシールドで防ぐ。
しかし受け止めた衝撃が無い。
よく見るとラウンドシールドの獅子の顔の意匠が大きく失われている。
ハエトリグサは鋭い歯がたくさん生えた口のような二枚の葉を、くちゃくちゃと下品な音を立てて動かしていた。
「わしの蟻が喰われとる!?」
『黒獅子姫』が驚く間もなく、別の柱の陰からさらに二本の巨大なハエトリグサが姿を現す。
三本のハエトリグサが宙を切り裂く度に、『黒獅子姫』の武装は失われていく。
ラウンドシールドもバトルアクスも鎧も無残に喰われ、もはや裸と変わらない姿だ。
「ホホホホホホホホホホ!! 己の能力に驕ったようじゃな、『黒獅子姫』。虫と炎は植物を使役する妾の天敵。しかしそれゆえに妾は弱点を克服する努力を怠ってはおらぬのじゃ!!」
『翠樹の女王』は勝ち誇るような笑い声を上げた。
「ここは一旦引いた方がいいな」
スレッジハンマーを振るいながらダグボルトは言った。
『黒獅子姫』は悔しそうな顔をしながらも無言で頷く。
ダグボルトは『金蛇の君(アンフィスバエナ)』との戦いで右腕を失った後、『黒獅子姫』から借りた黒蟻の一群を義手の代わりとしていた。
その蟻は右手にはめたガントレットに守られていて無事だが、『翠樹の女王』を攻撃するために表に出せば、すぐにハエトリグサに喰われてしまうだろう。
今のままでは勝機は無い。
そう判断しての言葉だった。
ダグボルトはヒーターシールドで『黒獅子姫』を庇いつつ後退する。謁見の間の入口まで後退すると二人は走りだした。
「で、どこに逃げる? あの性格の悪い魔女の事だから城の入口は塞がれてるはずだぞ」
「まずアルディーンと合流しようぞ。あやつはこの城に詳しいみたいじゃから、どこか隠れられる場所を知ってるやもしれぬ。ともかく少し休んで魔力を回復し――」
「危ないッ!!」
突然、壁を伝う蔦が『黒獅子姫』を絡め取ろうと蠢いた。
ダグボルトは咄嗟に『黒獅子姫』を突き飛ばす。
『黒獅子姫』が振り返ると、ダグボルトの身体に無数の蔦や枝の触手が巻き付いている。
『黒獅子姫』は巻き付いた蔦を引き千切るが、すぐに別の蔦が絡み付いてしまう。ダグボルトはかろうじて動く右手で、『黒獅子姫』を突き離した。
「俺の事はいい!! さっさとアルディーンに合流しろ!!」
「じゃが、おぬしが……」
「だから俺の事はいいって言ってるだろうが!! お前が捕まったら全てが終わりなんだ!! とにかく今は逃げろ!! 俺の事は考えるな!!」
壁を伝う別の蔦が動き始めている。
『黒獅子姫』はダグボルトの胸に顔を埋めると、決意を秘めた力強い口調でこう言った。
「必ず助けに来るぞ」
そしてすぐに身体を離すと城の奥に消えて行った。
無数の蔦や枝の触手がダグボルトの全身を覆いつくし、もはや完全に身動きがとれない状態となっている。
プレートメイルの隙間から蔦が入り込んでくる。蔦はまるで蛭のように皮膚に張り付き、乳飲み子のように血を吸い取っている。
(さすがは『真なる魔女』。何とも心強い言葉だな。そいつを信じて待つとしよう……)
ダグボルトは心の中で呟く。
やがて彼は木の枝に首をゆっくりと締め上げられ意識を失った。
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