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アルディーン二世とホノリウスは、食堂の入口に立てかけられた長テーブルを二人がかりで押さえ、必死に『蔦の異端』の侵入を食い止めていた。隙間から伸びてくる手をフレデリクがロングソードで切り落とす。
その間、ダグボルトは指令樹と思しき怪しげな草花や木を次々と叩き潰していった。しかし依然として城は動きを止めない。
(くそッ! どこに指令樹があるか見当もつかんぞ。俺がミルダを信頼してるように、ミルダも俺を信頼してるんだ。ここで俺が失敗するわけにはいかない。必ず見つけるんだ。必ず……)
不意に右腕の蟻が一瞬だけざわめいた。その瞬間、ダグボルトの頭に電気が走るように閃きが生まれる。
(そうだ! 前に蠍使いの魔女(『緋蠍妃(パビルサーグ)』)と戦った時、この蟻は魔力探知機となって魔力で生みだされた蠍を見つけてくれた。おそらく指令樹は他の樹木より強い魔力を帯びているはず。だったら……)
ダグボルトは右手のガントレットを外す。
そして剥き出しの右腕に向かって懇願する。
「魔力を辿って俺の代わりに指令樹を探してくれ! お前達なら出来るはずだ!」
ダグボルトの右腕の肘から先が形を失い、無数の蟻の群れに戻っていく。地面に降りた蟻は辺りをうろうろと動き回り指令樹を探し始めた。
だが今度はもう片方の入口の長テーブルが大きな音を立てる。テーブルが倒れ、二十体以上の『蔦の異端』が食堂の中に入ってこようとしている。
「させるかあああーーーーーッ!!」
雄叫びを上げて突進するダグボルト。
左手のヒーターシールドを外し、代わりにスレッジハンマーを握りしめている。
ダグボルトの体重を乗せた体当りが、『蔦の異端』の群れを食堂の外に弾き飛ばす。後ろにいた者は壁に激しく叩きつけられ、身体がバラバラに砕ける。
しかし廊下からは次々と『蔦の異端』がやって来る。
巨漢のダグボルトは自らの身体をバリケード代わりにして、襲いくる『蔦の異端』の群れを食堂の外に押し留めようとした。左手でスレッジハンマーを振るい、侵入しようとする『蔦の異端』に容赦ない打撃を浴びせる。
審問騎士時代、利き腕が使えない場合を想定して左手でも戦えるように、厳しい訓練を受けていたのだ。
ヒーターシールドが使えない為、彼は『蔦の異端』の攻撃を防御する事が出来ない。プレートメイルの防御力を頼みに、攻撃を体で受け止め続けるしかないのだ。
鎧のあちこちがへこんで歪み、中の身体には痣や打撲がダース単位で増えていく。
ひとりの『蔦の異端』が振り下ろしたバトルメイスが、ダグボルトの頭にクリーンヒットした。
一瞬意識が飛び、目の前にチカチカと星が瞬く。
だが彼は倒れたりはしない。
重い蹴りが『蔦の異端』の身体を粉々に飛び散らせる。スレッジハンマーが別の『蔦の異端』の身体をベコリと陥没させる。
脳内をアドレナリンが駆け巡り、いつしかフルフェイスヘルムの中から哄笑を響き渡らせていた。
戦闘の高揚と狂気が、彼を破壊と殺戮の化身に変えていた。
目の前の『蔦の異端』が残り一体になった所で、右腕にざわざわと蟻が戻ってきた。
「いいタイミングだ。ついに見つけてくれたんだな」
ダグボルトの右拳が振り抜かれ、最後の『蔦の異端』を鎧ごと爆砕する。
食堂の中に戻ると、彼の右手はひとりでにある一点を指さす。
それは食堂のキッチンにある竈だった。灰に塗れた竈の奥を除くと、一輪の小さな黒薔薇がひっそりと咲いている。
「こんな所に隠れていたのか。悪い子だ」
ダグボルトはフルフェイスヘルムの中で酷薄な笑みを浮かべ、右腕を竈の奥に突っ込んだ。儚げな黒薔薇をぐしゃぐしゃと無造作に握りつぶす。
城の動きが止まった。
スレッジハンマーを握り直し、ダグボルトは三人に告げる。
「こっちは終わった。さっさと残りの『異端』を片付けてミルダに合流しよう」
**********
木の枝が寄り集まってできた二つの巨大な拳を次々と繰り出す『翠樹の女王』。
それをラウンドシールドで受け流しつつ、『黒獅子姫』は何度も拳にランスを突き立てる。ぽっかりと大きな穴が開くが、すぐに新たな枝が集まって元の形に戻ってしまう。
(戦闘能力はわしの方が上。じゃが向こうは城を動かすための潤沢な魔力を惜しみなく使い、力ずくでこちらをねじ伏せようとしておる。厄介な相手じゃな……)
突然、城の振動が止まった。『翠樹の女王』はすぐに異常に気づく。
「何じゃ? 城の移動が止まったぞ? ……ま、まさかそなた、初めからこれが目的じゃったのか!?」
「気づくのが遅過ぎたのう。これでもうおぬしは魔力を補充できんぞ」
「くだらぬ!! そなたを始末したら群団を再編成して、すぐに新しい移動群団を創るだけの事じゃ!!」
ブンと風を切る音。
『翠樹の女王』は右の拳で謁見の間を大きく横に薙ぎ払う。高く跳躍して回避すると同時に空中で体を捻り、『黒獅子姫』は天井にある『翠樹の女王』の巨大な顔にランスを突き刺す。
巨大な顔はまるで効いていないかのようにニヤリと笑う。『黒獅子姫』が左頬に刺さったランスを引き抜くと、木の枝が集まって瞬く間にその傷を塞いでしまう。
だがその僅かな瞬間を『黒獅子姫』は見逃さない。彼女の目は巨大な顔の傷の奥にいた『翠樹の女王』本体の姿を捉えていた。
「なるほどのう、そういう事じゃったんか。その大きな顔もダミーで、本体はさらにその奥に隠れとったんじゃな。ついに本物のおぬしを見つけたぞ、『翠樹の女王』」
「黙れッ!! たとえ見つかった所でそなたに妾は倒せぬのじゃ!!」
本体を見抜かれた『翠樹の女王』の声にはもはや余裕など無い。巨大な両手の指を組むと全力で床に叩きつける。石床に大きな亀裂が走った。
咄嗟に『黒獅子姫』はラウンドシールドを放り投げる。それは再び黒き獅子へと姿を変える。
『黒獅子姫』が黒き獅子に飛び乗ると同時に足場が崩壊した。
黒き獅子は大きく跳躍し、壁を覆う無数の枝に鋭い爪を突き立ててしがみ付く。
崩壊した床の底はまるで巨大な生き物の咥内のようになっていた。
赤々とした柔らかな表皮は、強力な酸のような消化液で濡れている。天井から落ちた石の欠片が一瞬で溶けて消えていく。
『黒獅子姫』はこれが巨大なウツボカズラの捕虫袋だと気付く。
「愛する城を自分で壊すなんて、おぬしどうかしておるぞ。こんな無茶苦茶な事をしてまで、わしに勝ちたいのか?」
「うるさいッ!! 貴様なぞ死ね死ね死ねえええーーッ!!」
(あやつ、余裕が無くなったせいで、完全に我を失っておるな。わしが死んだら、自分の魔力も失われる事すら覚えておらんようじゃ)
巨大な左手が開かれる。掌が光り輝き、どんどんと魔力が集まっていく。球体となった魔力の塊が『黒獅子姫』に向けて放たれた。
『黒獅子姫』を乗せた黒き獅子は壁を走って避けるが、両手からは次々と新たな魔力球が放たれる。
魔力球が壁や天井に当たって破裂する度に城内に凄まじい振動が起きる。すでに壁や天井には無数の亀裂が走っている。
(あやつの魔力が枯渇するのをのんびり待っとったら、先にこの城が崩壊するわい。大怪我を負わせてしまうかもしれんが、直接本体を叩くしかないわい!)
『黒獅子姫』は獅子の身体から飛んだ。
跳躍のエネルギーを乗せて、漆黒のランスを力の限り投げつける。ランスは美しい放物線を描き、巨大な顔目がけて飛んでいく。
だが次の瞬間、巨大な顔の両目が光り輝いた。解き放たれた魔力がレーザーとなり、命中寸前のランスを一瞬で蒸発させる。
再びレーザーが放たれる。今度は壁に張り付いていた黒き獅子が蒸発する。獅子を失った『黒獅子姫』はなすすべなく墜落する。
ウツボカズラの捕虫袋の底には消化液がプールのように溜まっている。
『黒獅子姫』の小柄な体はそこに吸い込まれるように消えていった。
「ホーホホホホホホホ!! やっと死におったか、小憎らしい蟻めッ!!」
『翠樹の女王』は快哉の声を上げた。
だが巨大な顔から笑みが消える。
漆黒の魔力球がもの凄い速度でこちらに接近してきている。
――強制魔力転換。
それは己の肉体を全て魔力へと変換する技。
『石動の皇(コロッサス)』戦で使った技だが、肉体を再構成出来なくなる危険があるため、『黒獅子姫』は二度とこの技を使いたくなかった。
だが今はそんな場合ではない。
消化液のプールに落下する寸前、彼女は自らの肉体を魔力の粒子に変換していた。
両目から放たれるレーザーを避け、漆黒の魔力球は巨大な顔を大きく抉り取る。そして奥に隠れていた『翠樹の女王』本体の姿を露わにする。
濃緑色の長い髪。耳が長く尖っていて妖精(エルフ)のような美しい顔立ち、しかし褐色の肌は木の表皮のようにざらついている。その身体に純白のドレスを纏っている。
魔力球が肉体へと再変換され、漆黒の鎧を身に着けた『黒獅子姫』の姿に戻る。
木々がざわめく。
『翠樹の女王』は傷ついた巨大な顔を再生しようとしていた。
だがもはや間に合わない。『黒獅子姫』の掌底が『翠樹の女王』本体の華奢な胸に叩き込まれる。
「かはッ!!」
『翠樹の女王』の肺の空気が一瞬で吐き出される。かさかさの唇から樹液が流れ落ちる。
もう一撃叩き込もうとしたところで、『翠樹の女王』の身体が忽然と消えた。
天井の木の枝に掴まった『黒獅子姫』は、反撃に備え身構える。しかしいくら待っても何の反応もない。
「……逃げおったか」
その言葉をきっかけとするかのように、城内の樹木がだんだんと枯れて行く。
『黒獅子姫』は樹木を伝って謁見の間の入口に戻る。
「おまけに魔力まで尽きてきたようじゃな。勝負あったのう、『翠樹の女王』」
謁見の間から逃げ出した『翠樹の女王』は、膝をついて廊下を這うように歩いていた。
まるで蝸牛のように遅々とした歩み。
掌底を浴びた胸が痛み、息するのもままならない。しかも普段は樹木の中でまどろんでいて歩く事が無いので、足腰が完全に衰えているのだ。
だが他の人間に見つかる心配は無い。
身体を流れる樹液を蒸発させ、光を屈折させる光学迷彩の霧を創りだしているのだ。それによって彼女は、この城と同様に自由に姿を消す事が出来たのである。
(ハア、ハア、蟻の分際でまさかあそこまで強いとはな……。腐っても『真なる魔女』か……)
『翠樹の女王』は悔しげに唇を噛んだ。
(何とか城の外まで逃げ延びられれば再起を図る事も出来るはず……。ハア、ハア、ハア……。いや、それは駄目じゃ! 妾はこの城だけは手放さぬぞ……絶対に……)
突然、床を這う彼女の目の前に鈍く光る金属のブーツが現れる。
見上げるとそこにはプレートメイルを身に着けた巨漢の騎士が立っていた。冷たく輝く緋色の右目が『翠樹の女王』をじっと見つめている。
(ば、莫迦な。妾の姿はだれにも見えぬはず……。それなのになぜ……)
『翠樹の女王』は不意に悟る。
ついに魔力を完全に使い果たしてしまったのだ。それと同時に光学迷彩の霧も解除されていた。
「ハア、ハア、そこをどけ、人間……」
このような状況下でも尊大な口調。彼女のプライドの高さを物語っている。
「人間に魔女は殺せぬ。分かったらさっさと失せるのじゃ……」
ダグボルトの右手のガントレットから黒蟻が這い出して、握りしめているスレッジハンマーを覆う。漆黒のスレッジハンマーを見た『翠樹の女王』は一瞬言葉を失う。
「その蟻は……まさか……」
ダグボルトは無言のままスレッジハンマーを振り上げた。
「待つのじゃ!! そやつを殺しては駄目なのじゃ、ダグ」
ちょうどその場に『黒獅子姫』が現れる。
彼女の制止に従い、ダグボルトはおとなしくハンマーを下す。ダグボルトの背後からアルディーン二世達が追いついて来た。
「そなた、何をしておる……早く妾を守らぬか……」
『翠樹の女王』は息も絶え絶えに呟く。
自分に掛けられた思わぬ言葉に、アルディーン二世はぽかんとする。
「うん? おぬしは一体何をいっておるのだ? 余はおぬしなど知らぬぞ?」
「へ、陛下、その顔は!?」
唐突にフレデリクが叫んだ。
アルディーン二世のフルフェイスヘルムの右側面に細い亀裂が入っている。先程の戦いによるものだろう。そこからアルディーン二世の素顔が僅かに覗いている。
無数の蔦が絡み付いた頭蓋骨の顔――『蔦の異端』の顔が。
「な、何と……。余は今まで戦ってきた奴らと同類だったというのか?」
ダグボルトから借りたヒーターシールドの鏡面に映る自分の素顔を見て、アルディーン二世は呆然とする
「しかし『異端』は魔女に絶対服従のはずでは? なぜ陛下は自分の意志で行動できたのでしょう?」
フレデリクの問いを受けて、アルディーン二世の薄れていた記憶が鮮明になる。
「『異端』……。そうだ。思い出したぞ。遥か昔に死んだ余は、霊魂となって長い間この城の中を当て所もなく彷徨っていたのだ。やがては正気を失い、自分の名前すら忘れてしまっていた。そして半年ほど前、余はこの鎧をつけた『異端』に遭遇したのだ。その途端、余の霊魂は『異端』の中に吸い込まれてしまったのだ」
「陛下のご遺体はこの城の地下納骨堂に埋葬されていました。樹の魔女はその遺体から『異端』を生み出したのでしょう。それなら陛下の魂が戻るのは当然の事と言えます。何しろ元はご自身の身体なのですから」
「うむ。しかも自分の肉体に戻ってきたおかげで、余の霊魂は正気を取り戻せたのだ。ある意味、そこの魔女のおかげだな。おぬしには感謝するぞ」
アルディーン二世は『翠樹の女王』に深々と頭を下げた。
「くだらぬ……」
『翠樹の女王』は吐き捨てるように呟く。
「もうよい。こんな茶番はうんざりじゃ。妾はこれ以上生き恥を晒すつもりはない。さっさと殺せ、『黒獅子姫』」
「死ぬ必要なんかないぞ。おぬしは本来あるべき姿に戻るのじゃ」
『黒獅子姫』は床に伏している『翠樹の女王』を優しく抱きしめた。
血の気の引いた薄い唇を、かさついた固い木の唇に重ね合わせる。
二人の身体が淡い魔力の光に包まれる。
『翠樹の女王』の身体に僅かに残った魔力が『黒獅子姫』へと返っていく。
そして『膏血城』の主にして『偽りの魔女』、『翠樹の女王』は完全に消滅した。
光が消えると、そこには二十台前半くらいの金髪の乙女が倒れていた。
その美しい顔を見てアルディーン二世は叫んだ。
「イザリア!!」
**********
「前にフレデリクが話した通り、イザリアが聖天教会の修道院に入れられたのは、父親の死と王位をめぐる兄弟の争いに絶望して気が触れたため。そう世間には伝えられておった。じゃがそれは兄レマルクの讒言によるものなのじゃ。イザリアは度重なる悲劇に絶望してはおったが、決して狂気に囚われてたわけではない。レマルクは戦争に反対するあやつを疎んじて、強制的に修道院に送ったんじゃ。あやつは修道院に送られた後も、兄弟の争いを止めるためにクレメンダール教皇に仲裁を懇願する手紙を何度も送っとったらしい。実際、極秘に行われた教皇との会談によって、二人の王子は休戦の流れに傾きかけていたようじゃな。じゃがその仲裁が、イザリアの策略であると考えたダーレン伯バーティスと南部の貴族連合は、イザリアの侍女を買収して魔女の告発をさせたんじゃよ」
「何とおいたわしや……。イザリア様の無念、私めもお察し致しますぞ……」
ホノリウスが沈痛の面持ちで呟いた。他の者も皆同じ気持ちだった。
イザリアは今、自分の寝室ですやすやと眠っている。
アルディーン二世だけが側に残り、他の者は食堂でイザリアが目覚めるのを待っていた。
鎧を脱いだダグボルトは、カップに入った清潔な水を飲みながら話を続ける。
「で、お前は魔女の嫌疑で幽閉されていたイザリア王女に、魔力を与えて本物の魔女にしたんだな」
「うむ、そうじゃ。そして魔女になった時点で、あやつは王女だった頃の記憶を失ったはずじゃった。じゃがなぜか、あやつはこの城に固執した。わざわざ『白銀皇女』に頼んで残してもらうくらいにな」
「記憶を無くしても心の奥底に、この王城エイン・デルシスへの想いが残っていたんだな。かつて家族が共に暮らしたこの場所への想いが」
寝室のベッドに横たわるイザリアの目が微かに開いた。
ぼんやりとした視界に鎧姿の男が映る。
「あなたは……誰……?」
「おお、目を覚ましたか!! 余だ! そなたの父だ!」
「お父様? お父様は……亡くなったはず……」
「ああ。確かに余は死んだ。だがこうして戻って来たのだ。そなたのおかげでな」
アルディーン二世はイザリアの肩をぎゅっと抱きしめる。イザリアは最初事情が飲み込めず、おとなしく抱きしめられていたが、
だがしばらくすると急に体を離した。そしてシーツに顔を埋めて泣きだす。
「でもお父様が命を落としたのは私のせいです……。それが原因でレマルク兄様とエミルも争いを始めてしまいました。この国はもうお終いです。全て……全て私のせいなのです……」
イザリアは魔女だった時の記憶を忘れ、逆に人間だった頃の記憶を取り戻した。
しかしそれが彼女を再び苦しめる要因となっていたのだ。
「それは違うぞ」
アルディーン二世はきっぱりと言った。
そして威厳ある口調で静かに語りだす。
「余が命を落としたのは、落石に警戒しなかった自身の不注意によるもの。そしてレマルクとエミルが争うようになったのは、余があらかじめ後継者を明言していなかったからだ。そう。そなたを苦しめ、イスラファーンを破滅に導いてしまったのは、全て余の非力さ故なのだ」
「そんな、お父様……」
「そなたは故あって長く眠っていたから知らぬだろうが、世界を巡る事情は大きく変わった。大災禍によってあらゆる国家は崩壊し、文明は大きく後退した。イスラファーンも今は影も形も無い。だから全てを一から建て直さねばならぬのだ」
アルディーン二世は王家の宝剣ゼーレン・イスラファーンを両手に持った。鞘の装飾のスイッチを操作して白い刃を引き抜くと、宝剣をイザリアに差し出す。
「だが余にはもはや王である資格など無い。だから今こそそなたに全てを託そう。余に残された全てをな」
しかし彼女は哀しげな顔をして首を横に振る。
「駄目です、お父様。私には受け取れませんわ。詳しい事情は分かりませんが、イスラファーンが完全に失われたというのなら、私の力ではもはやどうする事もできません。それにあの国には悲しい思い出が多過ぎます……」
二人の間に長い沈黙が流れる。
すると不意に男の声が沈黙を破る。
「だったらイスラファーンに代わる新しい国を創ればいい」
二人が寝室の入口を見ると、そこにはダグボルトが立っていた。後ろにはフレデリク達もいる。
「申し訳ありません。お二人の邪魔はしたくなかったのですが、心配になって皆で様子を見に来たのです」
フレデリクはすまなそうに言った。だが急に顔を引き締めると、イザリアのベッドの前にやって来て跪いた。
「しかし先程のサー・ダグボルトの言葉ですが、イスラファーンに代わる新たな国創りとはいい考えだと思います。私も改めてイザリア様に忠義を尽くす所存であります。今度はイスラファーンの近衛騎士としてではなく、新王国の女王にお仕えする一介の騎士として」
「おお!! それならぜひ私めもお雇い下さい。王宮詩人として存分に才を振るいますぞ!」
大きな旅行鞄を抱えたホノリウスも、どたどたとフレデリクの隣にやって来て跪いた。
「新王国はまだ旗揚げしたばかりなのだぞ。お前のような詩人を雇う余裕などない」
フレデリクに冷たく言われしょげ返るホノリウス。それを見て皆が笑った。
「……分かりました。一から国を立ち上げるなど私一人の力では不可能ですが、皆の助力があれば話は別です。ぜひ、やらせてください」
イザリアはにっこりとほほ笑んだ。見る者の心を癒すような曇りなき笑顔だ。そして彼女はアルディーン二世の方を向いた。
「それでよろしいですか、お父様?」
「うむ。愚行の末に滅びたイスラファーンなどに囚われずに、そなたはそなたの国を興せばよい。それがそなたの新たな幸せに繋がるのであればな。これで余はもはやこの世に何の未練も無い……」
「お父様?」
「そなたの身とイスラファーンの行く末が余の気がかりであった。それが解消されたおかげで余の魂は天へと召されようとしている。余の霊魂が離れれば、この身体はただの『異端』に戻ってしまうであろう」
そう言うとアルディーン二世は自らの右胸に宝剣ゼーレン・イスラファーンの刃を突き付ける。
慌ててフレデリクが足元に縋り付いた。
「い、いけません、陛下ッ!! まだ行かないでください!! ここに残って我々を導いて下さい!!」
「そんな顔をするな、サー・フレデリク。死者である余に、生者である貴公らを導く事は出来ん。それにあの世で二人の息子が待っておるのでな。イスラファーンを傾けたあやつらに、たっぷりと説教をしてやらねばならんのだ」
アルディーン二世はフレデリクの肩を優しく叩いた。フレデリクは涙を拭うとアルディーン二世から身を離す。
他の者も覚悟を決め、イスラファーン王国最後の王の誇り高き最期を見届けようとしている。
アルディーン二世は一通り皆の顔を見渡すと大きく頷いた。
「では、さらばだ諸君!! 汝らの行く末に幸あらん事を!!」
プレートメイルの隙間から右胸に刃を力強く突き刺した。
全身に繋がる蔦が切れ、アルディーン二世の身体は両膝をついた形で動きを止める。
それっきり二度と動く事はなかった。
**********
全員が城の外に出るとそこはなだらかな丘陵と草原の地だった。草間をそよそよと穏やかな風が吹き抜けている。日が落ちかけているため大分涼しい。
小高い丘に登り周囲を探っていたフレデリクが戻ってきた。
「周りの景色と北東にあるシェローナ山脈との距離を見るに、ここはおそらくハウラ大草原の南辺りでしょう。一応まだ旧イスラファーンの領内です。それでこの城はいかがしましょう。我々の新しき王国の王城として、ここを拠点として活動いたしましょうか?」
「いいえ。この城はもはや必要ありません。国を形造るのは人であって城ではないのですから。拠点となる地は自分達で見つけましょう」
イザリアはきっぱりと答える。威厳ある風格にはどこか父親の面影がある。
「それでお前はどうするのだ、ホノリウス?」
「やはり私めはイザリア様についていきますぞ。王宮詩人が無理なら、ひとまず新人騎士として召し抱えてくだされ」
「武器もまともに使えないお前が騎士だと? それを言うなら従士だろう。まあいい。私が厳しく鍛えてやるから覚悟するがいい」
フレデリクがホノリウスの肩を軽く叩いて言った。言葉は厳しいが目は優しい。
「じゃあここでお別れだな」
ダグボルトが言った。手を差し出したフレデリクとがっちりと固い握手をする。
「貴公らの旅が終わったら、我々の新たな国創りにも協力してくれ。何といってもイザリア様に国創りを勧めたのは貴公なのだからな」
「そうだったか? あれはあんたが言いたそうにしてた言葉を代弁したつもりだったんだがな。だがまあ、いずれ様子を見に戻って来よう。それでは王女……いえ、女王陛下もお元気で」
「ありがとうございます、サー・ダグボルト。そして『黒獅子姫』様。あなた方の献身、決して忘れはいたしません。また会える日を楽しみにしています」
今度は『黒獅子姫』が前に進み出て、イザリアと握手を交わす。
「別れは寂しいもんじゃが、こういう別れは嫌いじゃないのじゃ。またどこかで会うのじゃ」
どこからともなく黒き獅子が現れる。
『黒獅子姫』はひらりと跨ると、ダグボルトと共に城を後にした。
「……結局、宝物庫の財宝は手に入らなかったな」
「フレデリクの話だと、財宝はレマルク王子が軍資金としてみんな売り払ってしまったらしいぞ。ところで何でおぬしは徒歩なんじゃ?」
「あの城が移動したから、俺の馬はデルシスに置き去りにされてるんだ。だから今からデルシスに引き返すぞ」
「ふうん。せっかく格好よく別れたのに、何とも締まらない終わり方じゃなあ。じゃがデルシスまで結構距離があるぞ。おぬしが頭を下げて頼むなら、このライオンに乗せてやってもよいがのう?」
「フン。お前に頭を下げるなんで死んでも御免だ。ほら、とっとと行くぞ」
そう言うとダグボルトは走りだした。重いプレートメイルを装備しているとは思えないほど速く。
しかし黒い影が彼を一瞬で抜き去る。
獅子に乗る『黒獅子姫』は、背後に向かってからかうような声を掛ける。
「おやおや、いつの間に追い抜かしとったみたいじゃのう。全然気づかんかったわ」
「面白い。だったらこれならどうだ?」
ダグボルトはさらに速度を上げる。
夕焼けの陽光に赤々と照らされた草原を、二つの人影が駆け抜けていく。
驚いたように草間からモンシロチョウが飛び出す。
複眼に映る人影が地平線の果てに消えると、モンシロチョウは再び草間の陰へと戻っていった。
滅都の残照 完
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