文官Aは王子に美味しく食べられました

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『……怖くて言い出せなかったんです』  静かな泉のほとり。鋭い瞳で僕を突き刺すように見つめる彼に懺悔した――。  伯爵令嬢の姉ミリアが第三王子シリウスの婚約者となったと聞いて僕は驚いた。  パーティで王妃のお眼鏡にかなったのだと父が鼻高々に家族に告げた。喜んでいたのは多分父だけだ。ミリアは良くも悪くも気が強く、本人のやる気さえあれば王族になったとしてもこなしていけるだろう。本人のやる気さえあれば……の話だ。  毎週火曜日がシリウスの休日だということで、ミリアは父から仲を深めるようにと王城へ行くよう申しつけられた。 「無理だわ。お腹が痛いの。リンド行ってきてちょうだい」 「姉様、そんな無茶だよ。……僕が行ってもバレちゃうよ」 「バレてもいいのよ。リンド、私の部屋にいらっしゃい。まだ声も高いし、背も低いから全然大丈夫。金の髪色も緑の瞳の色も一緒じゃない。皆、リンドをめかし込んでちょうだい」  バレてもいいといいつつ、ミリアは本気だった。ミリアの無茶振りに慣れている侍女達に服を剥かれ、僕はドレスを着せられた。 「こんな姿を誰かにみられたら僕、恥ずかしくて出歩けないよ」  できるかぎりの反論はしたのだ。でも、僕には無理だった。ミリアは兄妹の中で一番強いのだ。一番上の兄も二番目の兄も僕も彼女に勝てたことはない。もちろん口で。 「リンド、今回だけよ。お腹が痛いお姉様に無理をさせる気なの?」 「姉様、お腹が痛いなら今日はお休みしたらいいだけだよ。次行った時に、この前と違うって言われるよりいいよ」  僕はなんとなく察していた。ミリアは来週も僕に行かせるつもりなのだ。いくら似ているとはいえ、一週間ごときで忘れるような平凡な顔ではないのだから。ミリアのチャームポイントは気の強そうな目力で、僕の意志の弱そうな目とは印象が違いすぎる。 「リンド、もう一度は言わないわ。私の代わりに行ってきなさい。ボロが出ると困るというなら黙っていればいいのよ。微笑んでいればいいだけ。やる気のなさが伝わればいいわ。わかったわね?」 「それなら姉様がやる気のない顔をすればいいじゃないか。僕より余っ程わかりやすいよ」 「馬鹿ね、私のやる気のない顔がどれだけお母様を怒らせていると思っているの? 無礼だと言われて伯爵家がお取り潰しになったら困るのは私だけじゃないのよ」 「そんなことでお取り潰しになったりしないと思うけど……」 「猛烈に怒らせる自信はあるわ」 「そんな自信はいらないから!」  何となく、ミリアに行かせてはいけないと僕は思った。ミリアは有言実行タイプなのだ。やるといったら、やる。  着せられた青い空色のドレスは、ミリアがあまり好きじゃないと言ってクローゼットにしまい込まれていたものだ。ドレスと同じで窓の外に広がる空はこんなに美しいのに、僕の心はどんより曇っていった。  お父様は僕を見てもまったく気付かず、「我が娘ながら、美しい……。王子様もきっとお気に召すだろうね」と何度も頷いていた。気付くと思っていなかったけれど、相変わらずの人だ。お母様は領地に住んでいるお祖母様の具合が悪いのでずっと家に帰ってきていなかった。お母様がいれば、ミリアもここまで無茶をしなかったはずなのに。  貴族の子女は出かける時に親族の年上の女性が同行すると決まっているから、迎えにきた叔母様にここでバレると思っていた。でも叔母様は目が悪いのか全く気付かず僕を王城へと連れて行った。  第三王子シリウスは、噂通り切れ者だとわかる鋭い視線を僕と叔母に向けた。きっと、ここでバレるはずだと僕は今か今かとドキドキしながら座った。 「ミリア?」  ここで白状するべきかどうか迷ったけれど、隣で心配そうに見ている叔母に『実は弟です』なんて言ったら卒倒するだろうと思って諦めた。 「は、はい。殿下にはご機嫌……」  麗しくなさそうな彼を前に言葉に詰まった。にこりとも笑わないし、唇は真一文字に閉じられて、目つきが鋭い。王子様の仕事は罪人を聴取する役人ではないはずなのに、後ろめたい僕は背中を冷たい汗が流れていくのを感じていた。 「ミリア? ちゃんとご挨拶しなさい」  叔母が目を三角にしている。これは後で怒られるだろう。 「恥ずかしがりなのか、ミリアは。良かった、聞いていた話と違って」 「聞いていた話ですか……?」 「ああ、とても気が強いと聞いていてね。私は気の強い人よりも恥ずかしがりの人の方が好みなんだ」  ああ、どうしよう。ミリアじゃ無理だ。でもこれ幸いとミリアのマネをすればいいかもしれないと気付いた。 「そうなのですか? それならミリアでないほうがよろしいかと。今日は少し緊張していますが、姪はとてもしっかりした性格で……」  叔母の困ったような顔とシンクロした僕の顔を見つめる彼はとても楽しそうだ。 「そ、そうです! わたくしは気が強くて……、ええと兄弟のお菓子を奪うのが日課ですの! 兄の馬の尻尾の毛をむしってお父様の鬘を作ったり、弟の背中にカエルをいれたりするのが趣味ですわ!」  つい最近のミリアの行動を並べ立てて、胸を張った。  叔母は口に手をあてて悲鳴を飲み込んだ。王子はクスクスと笑いはじめてしまった。  僕はどうしようと焦って、額からも汗が流れていった。全身に汗をかいて、少し寒いくらいだ。 「第三王子シリウスだ。あなたより七歳も上なので嫌なのかも知れないが、せっかくの縁なのだから仲良くしよう。どうしても私のことが嫌なら結婚する二年後、いや一年後までなら母や父を説得しよう」  叔母は僕と同じように汗を拭いながら恐縮する。 「ミリアは緊張してしまって、こんな馬鹿な受け答えをしていますのに……。殿下のお優しい心遣いに感謝いたします」 「痛っ……」  僕の足を踏んだ叔母様が横目で睨んでいる。僕は慌てて頷き、「ありがとうございます」とだけ告げた。もう何をしゃべっていいのかわからなかった。  彼は高等学院も卒業して仕事をしているのだそうだ。もっと年上のように感じた。頼もしい人だった。青い瞳に美しい黒い髪。そして気遣いできる優しさ。王子ということを別にしても、彼はとてもモテるだろうと思った。  厳しいという話を聞いていたけれど噂というものは当てにならない。彼は始終笑みを浮かべて話しかけてくれる。ボロを出さないように口数の少ない僕にも優しい。最初は行くのが嫌だったのに、次第に行くのが楽しみになった。ドレスを着なければならないのは苦痛だけど、それすら我慢できるくらいに彼といるのが楽しかった。  王子であるシリウスは常に護衛がいるし、僕にも叔母や伯母がついてくるので二人きりということはない。適度な距離を保って僕に接してくれるシリウスに叔母の評価は高い。 「エリサ様、ミリアと手を繋いでもよろしいですか?」  貴公子として叔母に了解をとり、僕達が初めて手を繋いだのは三ヶ月も経ってからだ。叔母はまるで自分が言われたかのように頬を染め、「ほぅ……っ」と夢見心地なため息をついた後慌てて頷いた。 「ええ、ミリアが嫌でなければ」  訊ねるように目を細めたシリウスは、僕に手を差し伸べた。  震える指先に笑われやしないかとドキドキした。 「とても美しい指だ。すんなりと長い指だからきっと君は背が伸びるよ」  力強く掴まれた手を外すこともできず、心臓が口からでそうになりながら僕は「そうかしら?」とシリウスを見上げた。今は彼の胸にも届かないけれど、成長期になれば僕ももっと高くなるだろう。 「シリウス様はとても背が高いですから、お似合いですわ」  叔母は本当に僕がリンドだと気付いてないのだろうか。自分で言うのもなんだが、ミリアのマネを早々に諦めた僕は気の強い伯爵令嬢には見えないだろう。 『失敗してもいいわよ』  何度もこんな事は止めようとミリアに訴えたが無駄だった。 「私も好きな人ができたの。だから、気にせず失敗していいのよ。なんなら僕はリンドですって言ってみなさいよ」  僕が言える性格でないことを知っているくせにミリアはあっけらかんと笑う。酷すぎる。ミリア史上最大の無茶振りだ。でも僕もミリアのことをどうこう言う資格はないのだ。シリウスに会いたいから、こんな替え玉生活を嬉々として続けているのだ。  僕はリンドです。姉ではなく、僕と婚約してもらえませんか?   いくら同性との結婚ができる自由な国だといっても、シリウスが伴侶に望むのが女性だからミリアとの婚約が整ったのだ。僕が妹ならともかく、弟じゃ無理だろう。  半年ほどたったある日。舞踏会へ行くことになった。  ミリアはもう成人しているので、父か兄同伴で参加していた舞踏会だが、未成年の僕は行ったことがない。ミリアは半年の間で何度か参加しているはずだが、シリウスと踊ったという話を聞いたことがない。だからシリウスは踊るのが好きではないのだろうなと思っていた。そのシリウスから招待状が届いたのだ。ミリアは当然僕が行くものと思っている。まだ未成年だから参加したこともないのに。女の子の踊り方なんてわからないと半分泣きながら兄に手ほどきを受けた。  もう父を含め、家族にはバレていたのだ。そりゃ半年も通い続けていたし、ミリアはバレてもいいと思っているのだから。 「ミリアが嫁に来るぐらいだったら、俺はリンドのほうがマシだね」  長兄はそう言って笑っている。笑い事じゃない。 「ほら、綺麗な青色のドレスだ。殿下のプレゼントだって。知っているか、リンド。ドレスを贈るって、自分の手で脱がしたいっていう意思表示なんだぜ」  次兄は僕にドレスを渡してそんなことを言う。 「シリウス様はそんなこと思ってないから! 兄様とは違うんだから!」 「リンドは自分も男なのにわからないんだね」 「男はドレスなんて着ないんだよ、普通は!」  文句を言いながら着たドレスは僕にピッタリだった。 「随分と優雅な振る舞いができるようになったね。リンドが娘のようじゃないか奥さん」 「昔からミリアとリンドは性別が反対なのではないかと思ってましたけど……」  両親ですらそんな有様だ。僕がミリアでないとバレたら、お家は断絶とかにならないのだろうか。暢気な家族のことが心配になる。 「行ってらっしゃい。ドレスのお礼にキスでもしてあげたら?」  ミリアはそう言って手を振った。僕は、迎えに来てくれたシリウスに手を引かれ、売られていく牛の気分で馬車に乗った。 「二人きりは初めてで……少し照れるね」  シリウスはエスコートになれているはずなのに、そんな事を言う。 「シリウス様……」  照れているのか耳が少し赤くなったシリウスに見つめられた。熱っぽい視線に僕は恥ずかしくてたまらない。 「君が大人になるまで……私は……」  暮れゆく景色を眺めながら、シリウスが何かを呟いた。 「なんておっしゃったのですか?」 「いいや。とても綺麗な庭だろう。見てごらん」  シリウスが促すまま僕は庭に視線を移した。王城は舞踏会の仕様になっていて、きらびやかな光が溢れていた。 「あそこ、光っています」  建物に近い場所はもちろんランプの光で明るくなっている。でも少し離れた辺鄙な場所にポツンと一つだけ光っているように見えた。 「ああ、あそこには小さな泉がある。気持ちが昂ぶった時に水面を眺めていると心が凪いで落ち着くんだ。私のお気に入りの場所だが、君になら提供してもいい」 「シリウス様の専用の場所なのですか?」  悪戯ぽく笑ったシリウスはこう言った。 「泉に明かりを灯すのは、以前あそこで溺れた人間がいるからだよ。誰も来ないんだ」  誰も来ない場所をお気に入りというシリウスに、少しだけ怖いものを感じて身体が震えた。 「幽霊なんていない。溺れただけで死んだわけじゃないからね」 「シリウス様!」  僕を揶揄っていたのだと気付いた。 「君の怯えた顔は本当に愛らしい……。ドレスも良く似合っている。君は清楚で、青がとても良く似合う」 「シリウス様は意地悪です……。でもありがとうございます。シリウス様の夜会服も……素敵です」  シリウスの髪の色と同じ黒の夜会服がとても似合っている。胸に飾っていた花を僕の髪に挿して、彼は言った。 「今日は私だけを見るんだ。その約束の印だ」  一気に頬が火照った。そんな風に独占欲をむき出しにされると、何だか自分の全てが彼の物になった気分になる。多分、シリウス以外の人は目に入らないだろう。  パーティの最中、シリウスは言葉どおり僕を独占した。いつもより近い距離にのぼせそうになりながら、ダンスを踊った。ミリアの知り合いに会わないかドキドキしてたけど誰にも声を掛けられなかった。 「シリウス様は他の方と踊ったりしないのですか?」 「踊りたければ声を掛けてくる。今は私だけを見てとお願いしたはずだが、覚えているか?」  僕が独り占めしてしていいものかと悩んでいたけれど、シリウスがそういうなら気にしないでいよう。 「はい」 「よろしい。母には感謝している。君に会えて、私は生まれてきて良かったと思ってる」 「そんな……わたくしもシリウス様に出会えて幸せです」  人生で今が最高潮なのだと思っていた。 「愛してる」  耳元で囁かれた声に息を飲んだ。嬉しいと見上げた僕の視線の先、彼の青い瞳にはミリアが映っていた。僕に言ってるんじゃない。シリウスは彼の婚約者、僕の姉に愛を告げていると思い出した。  馬車で送ってくれたシリウスに想いを込めて「さようなら」と告げた。シリウスにはただの挨拶にしか聞こえなかっただろう。  罪悪感にまみれた僕は、あの日からあまり食事も喉を通らなくなった。次の火曜は具合が悪いと言って王城に出かけなかった。  シリウスからのお見舞いの花を見ては涙が零れ、舞踏会で着たドレスを見ては涙が零れ、空を見上げてはシリウスの瞳を思い出して涙が零れた。精神的に追い詰められた僕は、あっというまに痩せてしまった。しかも体調が悪いから喉が痛いのだと思っていたら、変声期まで重なってしまった。まるでいい気になっていた僕を神様が嘲笑うかのように感じて、あまりの卑屈さに自分で嫌気がさした。  罰があたったわけではないけれど、今までのように高く澄んだ声は出なくなっていた。 「もういいわ」  ミリアに身代わりを下ろされた。正直そっくりだった容姿はやつれたせいで似ても似つかなくなったのだ。成長期が訪れ、上に伸びた分だけガリガリになってしまった。  僕はもう伯爵令嬢ではなく、兄達のスペアにすらなれない三男坊のリンドに戻った。  それが一年以上前のことだ。先月、第三王子と姉は婚約を解消した。姉がついに好きだった人と結婚したいと言いだしたからだ。シリウス側からは文句も慰謝料の請求もなく、滞りなく婚約破棄に至ったという。  僕は成人した。貴族の長男は繋がりが必要だから高等学院にいくが、次男以下は家庭教師に勉強を教えてもらって文官見習いや騎士見習いとして王城に上がることが多い。次兄は騎士として陛下に仕えている。文官見習いとして王城にやってきた僕は、そこにシリウスの姿を見つけて息をのんだ。彼は若いけれど、王子だからか長官という役職だった。とはいえ、新人で見習いの僕が関わることはないだろうと思っていた。 「新人はまず長官のお茶を淹れるところから練習するんですよ」  指導教官は、僕にポットとカップを渡して微笑んだ。  冷たい氷のような瞳が周りを威圧している。鬼のように仕事をしているシリウスは、僕が知っている人とは別人だった。いや、本当に。もしかして僕が代理だったようにシリウスも別人だったのだろうかと思うほどだ。  お茶を淹れるのは得意だ。伊達にミリアの身代わりをしていたわけじゃない。そんなスキルを磨いてどうするんだと思っていたけれど、シリウスの好きな味も知っているし簡単な仕事だと思っていた。 「お茶を淹れるのにどれだけ時間をかけている!」 「すみません! 直ぐに……」  急いで淹れたせいか色味も香りもよくない最低なものができてしまった。 「ふん……こんな無能をよく寄越したものだ」 「申し訳ありません……」  聞いたことのないシリウスの刺々しい言葉に竦み上がった。皆の視線がつき刺さった。お茶も淹れられない新人なんて使いようがないと思われているだろう。書類の整理も遅いと言われ、ため息をつくことで彼が怒鳴るのを押し殺していたことに気付いた。 「リンド、最初は誰だって……」  先輩の一人があまりに出来ない僕を憐れんで声を掛けようとした瞬間、シリウスの怒号が部屋に響いた。 「アーサー! 新人にかまっていられる立場か! 昨日言っていた書類は提出したのか!」 「すみません! すぐに」  申し訳なくて顔を上げられなくなった。  それから皆は僕を見ないようにと仕事に集中し、カリカリとペンの音が部屋に響いた。昼食の時間を報せる鐘の音が聞こえて、僕は昼ご飯も食べずに部屋を抜け出した。  水を見ていると心が和ぐと、シリウスが以前教えてくれた小さな泉の前で膝をついた。 「泣いているのか?」  誰もいないと思っていたのに、知っている声が聞こえて驚いた。振り向くと、さっきの眉間に皺を寄せた彼ではなく、僕が知るシリウスが立っていた。 「シリウス様ッ!」 「リンド……と言う名だったのだな」  シリウスが僕の名を呼ぶ。 「どうしてここに……?」 「ここに来るようにしむけるためにあれだけ怒鳴り散らかしていたんだ。初日に来てくれて助かった。皆の目が批難で剣のように鋭かっただろう?」  何もできない僕を蔑んでいるか、とばっちりを受けないようにしているのかと思っていたが違ったらしい。 「あの時、どうして……何も言わなかった? 君が悩んでいることは知っていた。もちろん入れ替わりも」  シリウスの告げた内容に、僕は愕然と彼を見上げた。 「全てを知っていたのですか……」  悩んだ日々を思い出して涙が零れた。 「君の姉は君と全然違う。どうしてだませると思ったのか謎だ……」 「怖くて言い出せなかったんです……。姉の代わりにドレスなんか着て、あなたをだまそうとしていると……」  昔とは違う姿、文官仕様のズボンをギュッと掴んだ。 「君が言い出せば、俺は許した――」 「っ! 身代わりでしかないのに好きだなんて言えなかった!」 「愛しているという言葉は君に告げたつもりだ。今でもあの時の嬉しそうな笑みを覚えている」  シリウスは、ソッと僕を抱きしめた。フワリと彼の香水の匂いがして、力が抜けた。こんなに近寄ったのはダンスの時だけだった。 「……僕は馬鹿です……」 「誠実であろうとして苦しんだのだろう? 具合が悪いと聞いたから心配で、内緒で君の家に行ったんだ。君は青ざめて遠くから見てもわかるくらい痩せてしまっていた。愛を告げたのが迷惑なのだと思った。君が無理矢理ミリアに頼まれてきていると君たちの叔母さんが教えてくれていたからね」 「叔母さま、知ってたんですか」 「三度目にさすがに性格が違いすぎると気付いたようだ。私は一目惚れだったから、問題ないとそのまま来るように頼んでいた。君が体調を崩すほど私が嫌なのだと思って、諦めて手を離してやろうとした……」  叔母さまはさぞかし驚いただろう。次に会った時にお詫びとお礼をしようと決めた。 「君が来なくなって一月、そろそろ君を解放しなければと思っていたら、ミリアがやってきたんだ。自分のしたことを棚にあげて、リンドを誑かした挙げ句振ったのねと怒りながら。やはり彼女は王子妃には向かない。怒っているからか、中々意志の疎通が図れなかったが……、彼女は君が僕を想っていると言っていた。それは彼女の勘違いか?」  ふるふると頭を振った。 「嘘じゃありません……。ずっとお慕いしていました。姉の身代わりなのに、あなたのことを想って、苦しくて……逃げたんです」  どうしたって王子様に文官見習いAなんて似合わない。それは僕が一番良く知っている。 「リンド!」  あの時のドレスの色だ……と思った。青い空のような色。僕が好きなシリウスの瞳の色。 「ん……」  唇が合わさっていると気付いて慌てて押しのけようとした。その手を握られて、草の上に転がされた。 「逃がさん――。もう、二度と――」  シリウスの唇は、柔らかくて薄い。その間から飛び出した言葉に驚いて呆然と見上げることしかできない。 「シリウス様……」 「成人まで待てるか心配だったが……もう君は成人した。図らずとも距離を置いて良かったのかもしれない」  シリウスは、何度も啄むようなキスをした。角度を変え、場所を変え、唇だけでなくこめかみや首筋まで。息が上がる僕を宥める様に背を撫でながら。 「あ……」  離れる度に寂しいと思ってしまったのがバレたのか、彼は僕を抱き上げた。 「え、あ……あの! お仕事……」  三歩歩いたところで鐘が鳴った。あっという間の触れあいだったように感じたが、意外に時間が経っていたようで、昼の勤務が始まる時刻だ。 「俺にお預けを喰らわせられるのは、君だけだ……」  笑いながらシリウスは僕を連れて執務室に戻った。  連れてと言うか……抱き上げたまま。  部屋は一瞬静寂に包まれて、おかしな状況をどう説明すればいいのかと悩んだ僕は、次の瞬間歓声に包まれた。 「良かった、俺三倍だ!」 「おれは外した!!」  なんて声があちこちで上がった。 「あの……僕……」 「ごめんね、うるさくて。僕は君が落ちるのは明日に賭けてたから残念だが、安心したよ。これで殿下が強姦罪を犯すこともない。君がここの文官なのは今日までなんだ。明日からは、王子妃ってことでよろしく!」  指導文官である青年が説明してくれた。知らなかったのは僕だけで、家族は皆了解しているらしい。もちろんこの部屋の皆も知っているというから恥ずかしい。皆、演技力がありすぎる。見習いたいくらいだ。 「リンドがねだるのでな。今日は仕方がないので仕事をする。さっさと書類を持ってこい!」  ねだるって言葉おかしくない?  機嫌のいいシリウスは、山のような書類をさばいていった。彼の笑顔に皆が凍り付き、部屋に緊張感が走った。  前に舞踏会で誰も喋りかけてこなかったのは、シリウスの笑顔が珍しくて、驚いたからだそうだ。僕といる時だけ彼は笑顔が極上の王子様になるらしい。でも慣れていない執務室の面々には恐怖でしかないようで。  シリウスはそんなことを言われても別に照れるわけでも怒るわけでない。 「好きな相手を前に笑顔になることの何が不思議なのかわからん。なぁ、リンド」  そんなことを僕に言われても、どう答えていいかわからない。顔が火照ってしまうので、できるだけ止めて欲しい。 「心臓に悪いので止めてください……」  僕達の心は図らずも一致した。側近たちの訴えにシリウスは笑った。 「お前たちも仕事ばかりしてないで好きな相手を見つけてこい」 「貴方に言われたくありません!」  鬼上司と名高いシリウスにだけは言われたくない台詞だろう。  僕は彼の膝の上で赤面しながら幸せを噛みしめた。  「シリウス様っ、んっ、僕、あの――っ」 「なんだ?」 「何ってあんっ……っ!」  皆の視線は感じないけれど、耳を澄まされているような気がするのは気のせいではないだろう。 「可愛い声だ。もう少し待っていてくれ」 「あ……や……」  僕は必死で、シリウス様の手を止めようと握った。けれど、彼は力が強くて、僕の胸の先で円を描き悪戯をする指を止めることができなかった。 「あ、後で……。お仕事が終わってから――」 「大丈夫だ、誰も見ていない」  執務室の面々は、本当に僕がされていることに気付いていないような真面目な顔で書類を作成している。 「ん……」 「リンドは敏感だな。こんな敏感な身体で今まで生きていたのか。よく無事だった」 「え、あ……んっ。お仕事、お仕事してくださいっ」 「見てみろ、いつもより速いくらいだ。そうだな、リンドも手伝ってくれ。内容をこちらの分と照合するから、読んでくれるか?」  シリウスは僕の前に書類を置いてそう言った。この悪戯を止めてくれるならと頷いて、その文章を読んだ。 「この度の結婚に際して、リンドは王族の一員となり……っええっ!」 「まだだ、お仕事は最後まできっちりしなさい」  シリウスにガッチリ抱き込まれているから逃げることも出来ず、僕は目の前の書類というか契約書の続きを読んだ。 「……シリウスの妻として……、愛を誓うと――宣言します……」 「よく出来た。ほら、人差し指にインクをつけて、押印と……、後は口付けだ」  側近の人が紙を確認し、「了承されました」と宣言した。 「おめでとうございます!」  沢山のお祝いの声に、僕は今日二度目の涙が溢れるのを感じた。 「あ――駄目ですよ、リンド様。シリウス様はドS王子なので、泣いたら酷い目に合わされます」 「セドリック!」  ひぇええと側近の人が逃げていった。 「……シリウス、様。酷い事、するのですか?」  涙でうまく言葉にならないけれど、僕は上目遣いで彼を見上げた。 「酷いことなんてするはずがない。リンド、気持ちがいいことをするだけだ」  終業の鐘が鳴り、今日の仕事が終わったのだ。これからどうなるのか期待と不安で一杯になる。 「シリウス様、独身者も多いので速くお部屋に運んで下さい。ここは、これからお二人のお祝いパーティをするので」 「僕もパーティに出たい……です」  お祝いしてくれるというのなら僕だってここにいたい。 「クッ……」  シリウスが声を詰まらせて、セドリックを睨んだ。 「私のせいではありません!」 「シリウス様……駄目? 僕も……」 「私はリンドのお願いに弱いんだ……。わかった、準備しろ。準備できるまで、ここで味見だ。それくらいは許してくれるだろう?」  僕のお願いに弱いというシリウスのお願いに僕も弱かった。駄目だ、駄目だと思いながら頷いてしまった。 「あ、くぅ、ん――」  唇が合わせられ、激しく口腔をなぶられた。口の中のどこもかしこも性感帯だということを知った。 「リンド、そんな蕩けたような顔を部下達に見られて、興奮しているのか?」  ぼんやりとするのはキスが激しすぎて空気が足りないからだと思うけれど、シリウスは僕が見られているせいだと思っているのだろうか。 「ちが……う」 「ここも勃ち上がってきてる……」 「やぁ、駄目っ。そこはっ――」  誰にも触られた事のない下半身をシリウスの手が布越しに突いた。 「嫌っ――シリウス様だけに……見られたい。お願い、もうしないで……」  身を縮めて懇願すると、シリウスは僕の額にキスをして止めてくれた。 「早くはじめろ……」  低いシリウス様の声で、宴会が始まった。皆きっと楽しくないだろうと思っていたけれど、この部屋には図太い人だとかお祭り好きな人が多いのか盛り上がって僕達を祝福してくれた。 「シリウス様、ありがとうございます。僕、文官としても頑張りますから!」  盛り上がっていた面々が一瞬で凍り付いた。 「リンド……」  シリウスの声には戸惑いが現れていた。 「……やっぱり僕みたいな出来ない男は邪魔、ですよね。ごめんなさい」 「いや、皆はお前の身体を心配しているだけだ。私を受け入れて、仕事までしていたら身体がもたないんじゃないか?」 「でも僕、男だから大丈夫です。迷惑でなければお仕事させてください」  僕はそのつもりでここに来たのだ。 「……リンド」  シリウスが言葉を濁すのは、やはり僕がここにいては迷惑なんだろうか。 「いいじゃないですか。リンド様がシリウス様のお茶を配って、書類の整理を横でやってくれたら……きっとはかどりますよ」 「言っておくが私はリンドを前に止まれないぞ」 「本来は隣の長官室で仕事をしているはずなのですから、そちらで執務されてはいかがでしょう?」  僕は周りを見渡した。 「それがいいですね」  皆が笑顔で頷いているのをみて、僕も頷いた。ちなみにシリウスの何が止まれないのか全くわかっていなかった、 「リンドがいいなら……」  渋々という風にシリウスが許可をくれた。 「ありがとうございます。僕、頑張ります!」  皆が僕に微笑むけれど、これはどういう意味だろう。素直に応援してくれていると思っていいんだよね? とシリウスを見上げると、ククッと楽しそうに笑いはじめた。 「魔王様がお笑いだ。ヤバい」  小さな呟きが聞こえた。魔王ってシリウスのことだろうか。 「リンド様の犠牲は無駄にしない」  側近の一人が僕を拝んだ。そして、次々と拝みはじめて、変なパーティは終わった。  その後、僕は皆が拝んでいた意味を僕も理解した。 『扉を勝手に開けてはいけません』 そう長官室の扉に貼り付けられるはそう遠いことではなかった。                                                           〈Fin〉  
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