第1話・アイドルからキャバクラ嬢へ。

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第1話・アイドルからキャバクラ嬢へ。

【ホストクラブに女性が嵌るように、キャバクラ依存症の男たちも多く存在する。 キャバ嬢は、キャバクラという恋愛道場の師範であり客は弟子であるが、彼らにとってはヤレぬ女など客観的に見れば男と同じである。 しかし、当然のことながら師弟の間に友情など芽生えるわけもないから、いかに金品を賭けて口説こうと諦めた途端に赤の他人に成り下がる。あたかも二本のレールのように、お互いの思惑は永遠に交わらない……このリスクを背負いながら極めて勝率が低い無慈悲な恋愛ギャンブルに僅かな望みを懸けて、今宵も男たちは高い月謝を払うために、せっせとキャバクラ道場へ足を運ぶのである。 弟子である彼らにしてみれば、そこに山があるから登る心境であろうか。 登山家になってキャバ嬢を制覇したい客、スキューバーダイビングして女心を探りたいホスト……男とは、女性という大自然を迷走し、ときには徘徊しながら人生を切り開いて成長していく旅人なのであろうか】 (夜の経済学・キャバクラ篇) 《其の壱・アイドルからの転身》         1 安良城(やすらぎ)レイナは、女子大生として沖縄から上京した。 憧れの東京で、ファッションの発信地である人気の店(ショップ)を見て流行(トレンド)を研究(リサーチ)するのが好きなレイナは、デニムを買いに原宿へ立ち寄った。 休日の日曜日、竹下通りを人波に揉まれて歩いていたレイナは、カジュアルなグレーのジャケットとデニムパンツ姿の男に、いきなり前方から声をかけられた。優しい口調だった。 「私、グランド・プロモーションの者ですが」 しかしレイナは、一六八センチの自分より少し低い痩せ型の彼を無視して通り過ぎた。 茶髪のその男は尖った眉に薄いメークで若々しさを演出してはいるが、若作りしていると見えるところがすでに無理があった。レイナは、彼の低いトーンの発声や下から覗くような目配り、人差し指と中指で名刺を挟んで出すときの仕草を、一瞬のワンカットだけ目にしただけで中年のこげ茶色を感じた。 しかし、その男は後ろから食い下がってきた。 「少しだけでいいですから、私の話を訊いていただけませんか」 「グランド・プロって?」 何かのスカウトと思われる勧誘を断るために、レイナはあえて聞き返した。 中年らしき男は、やや誇らしげに一息置いて答えた。 「芸能プロダクションです。まだ出来たばかりですけど。私、開発(スカウト)部長の斉田(さいだ)といいます」 いいながら再び名刺を差し出すと、レイナは受け取って名前を確認した。事務所の住所は港区の青山にあった。しかし芸能界……彼女は少し戸惑った。 「でも、どうして私に?」 斉田の積極的な圧力に押され気味のレイナは思わず体を引いたが、彼の声はさらに覆いかぶさるようだった。 「あなたの目力は凄い。切れ長で少し垂れ目がちだけど、生きる強さが感じられる。それとともに目から受ける印象で、清潔感や女の子が持つ可愛らしさが見受けられます。鼻や口、顔の輪郭は、その目を際立たせるように小さくて且つ上品だ。是非、事務所(うち)の社長と話をしてもらって、スタジオで撮影できればと思います」 知らない男性に誉め言葉を畳みかけられたレイナは、嬉しいというより疑心暗鬼で如何わしい事務所ではないかと警戒したのも束の間だった。 気がついたら雑誌の表紙を飾り、テレビに出ていた。好むと好まざるとにかかわらず撮影や取材、収録に追われる日々は生活が一変してしまい、今までの自分ではないような気がした。 レイナは、巨乳を売りにするようなグラビア・タレントではない。スレンダーな容姿と明るい性格で、男女分け隔てなく人気が得られる正統派の清純アイドルとして、確固たる地位を築きつつあった。スケジュールは全てマネージャーが管理していて、いわれるままに撮影スタジオやテレビ局へ送られる毎日で、それ以外に芝居や歌の練習(レッスン)をさせられた。 当然学校は疎かになったが、元々勉学に勤しむタイプではないレイナにとっては成績云々より、とりあえず卒業できればよかった。だから問題はないはずだった。 しかし、何かが違った。 上京した頃は、流行の最先端である東京でOLになって素敵な男性と結婚できればいいぐらいにしか考えていなかったレイナは、女優やアイドルに憧れていたわけでも芸能人になりたかったわけでもない。次第に過密スケジュールや雑音で、自分を失っていく焦燥感に駆られた。 レイナにとってアイドルという仕事は、ファンの知らないところで特定の人物を対象にしたサービス業や接待業に過ぎない。スポットライトを浴びていられるのは僅かで、情報媒体(メディア)が勝手に私生活をさらけ出したり、一人で外出すればパパラッチやストーカーに身の危険を感じるほど追いかけられたりする。さらに、ネットでの誹謗中傷に悩まされて精神安定剤に頼ったこともあった。 事務所の紹介で成金紳士をスポンサーにつけるために飲食の相手をするときは、札束をチラつかせて強要する輩や、業界関係者が仕事にかこつけて口説いてくることなど枚挙にいとまがない。 給料は一般のOLと変わらないために、先輩のグラビアアイドルは個人的なスポンサーの愛人になったが、落ち目になると事務所にAV業界へ斡旋された。 レイナは今日、アイドル歌手として三千人のファンの前に立っていた。 コンサートも終盤にさしかかり、いったん休憩をとる場面になった。通常はこの後でファンのアンコールを受けて再び熱唱するというお決まりの流れであるが、今日は違った。 興奮の観客を前にマイクを持つレイナは、緊張のあまり心臓が張り裂けそうだった。 「私は、歌舞伎町のキャバクラ嬢に転向します。今まで応援してくれたファンや支えてくれた事務所のスタッフの方々、本当にありがとう御座いました」   ひと息でいってしまったために最後は息が詰まりそうだったが、もう後には引けなかった。それから事の重大さに気づくとともに、責任が双肩に重く圧しかかってくるようだった。 彼女は舞台から宣言するとファンはどよめきを上げた。だが、レイナなりに悩みぬいた末の決断だった。 グラビア、歌、お芝居、バラエティ……これ以上メディアに晒されると、ピエロのままで終わってしまいそうな気がする。人生を切り売りする仕事は似合わないと感じていた。だから芸能界にしがみつくつもりは、さらさらない。これからは自分の足と意思で歩んでいきたい。 ファンに背を向けたレイナは、怒号のようなアンコールに応えるわけでも楽屋に戻るわけでもなく出口へ向かった。 「レイナさん、どこへ行くんですか」 マネージャーや関係者の必死の制止を振りほどいて裏口から出ると、会場の外に停めてあったキャバクラの店が用意した車の後部座席に乗り込んだ。 レイナの横に座っているのは『アバンギャルド』社長の北沢で、運転しているのは店長の土岐沢、助手席は彼女をスカウトした森だった。 車が会場を離れたころ、短いながらも全国区の人気を得ることができた芸能生活の辛いことや悲しいこと、楽しい思い出や嬉しい出来事が次々に蘇って、うっすらと涙があふれてきた。でも、未練はなかった。 レイナは、キャバクラ嬢になるきっかけとなったあの日を思い出していた……。 長身でホスト風の森は、大きめのサングラスと黒い帽子(キャップ)を目深にかぶりノーメイクに近いレイナに声をかけたのだが、まさかアイドルの安良城レイナとは思わなかったらしい。それで、彼女も面白半分でついて行った。 新宿の喫茶店でキャバ嬢の給与体系や待遇を訊いたレイナは、そこで好奇心へと変わった。芸能界入りする前はOLから結婚という普通の幸せを望んでいたが、ある程度派手な世界を垣間見たレイナは、やはり若いうちに稼ぎたいという欲が夜の世界へと繋がったのである。 レイナは売れっ子芸能人(アイドル)だから、事務所に無断で勝手に辞めることは許されない。もしそんなことをすれば、法的にも所属事務所に違約金を支払わなくてはならない。しかし、北沢は顧問弁護士に頼めば、違約金も和解金として最小限に抑える自信があるといった。さらに全責任は北沢が持つということでレイナも納得した。店側にしてみれば、そこまでしても彼女が勤めるという宣伝効果を期待しての引き抜きだったのだ。 「レイナがうちの店で働いたら、歌舞伎町ならず日本中のニュースになるだろうな」と、北沢がいえば土岐沢も膝を叩いた。 「現役のアイドルが、いきなりキャバクラ・デビューなんて、ファンならずとも一度は見て話したいと思うのは男として当然ですからね。もう舞台で辞めることを公表したわけだから、これからは何の遠慮もなくHP(ホームページ)で喧伝できますよ」   しかし、レイナは不安のほうが大きかった。身近になったアイドルが果たして、どれだけ通用するのか。芸能人なんて大したことないと思われるかもしれないし、他の女の子たちの嫉妬はないか、みんなと上手くやっていけるのか……相談する相手は誰もいなかったから、自分で克服するしかないと思った。 一週間後、レイナはアバンギャルドに勤め出した。 「これは、もしかして私目当てのお客さんたち? いや、そんな馬鹿な」 タクシーを店の近くまで着けたレイナは車の外に出るのを躊躇った。客たちが、店の外にまで行列を作っていたのである。二十人ぐらい並んでいるのが見えた。地下に続く階段まで入れたら、五十人を超えるのではないか。彼女は慌ててサングラスをかけて身をかがめた。外から見えにくくするためである。 店は午後八時に開店していて、レイナの出勤は九時だった。店内の個室で、プロのヘアメイクに髪をセットしてもらう時間があるから八時二十分に店に着いたのだが、それにしてもそんなに忙しい店なのだろうか。 携帯で土岐沢に訊いてみると、彼がタクシーのドアまで迎えにきた。心配そうな表情を見せてはいるが、それは底から溢れ出る歓喜を必死に隠そうとするがゆえの、苦し紛れに作った顔のようだ。 「このお客さんたちって?」 レイナは、サイドウインドウを少し開いて訊いた。土岐沢は興奮気味の荒い息を抑えて答えた。 「ほとんどがレイナさんの指名です。昨日までは、九時前だったら三組ぐらいしか来客がなかったですから。人気のある女の子たちは、同伴してきたり出勤する時間が九時なんです。だから、九時過ぎにならないと忙しくならない。 レイナさん、とりあえずビルの裏手に車を回して、非常階段のドアから店に入ってきて」   レイナは彼の指示に従った。もしこのまま正面から入れば、客に揉みくちゃにされそうな錯覚に陥ったからだ。 個室で支度を済ませたレイナはホールへ出た。白いドレスに着替えたら、不思議と出勤前の戸惑いや不安は消えていた。 「いらっしゃいませ、ありがとう御座います」 まるで、舞台(コンサート)のファン一人ひとりに挨拶して回るという心境だった。 最近まで超人気だったアイドル見たさに押し寄せた彼らは、口説くというよりは一緒に話ができればいいといった感じだった。 心配していた女の子(キャスト)たちとのトラブルもなかった。みんな普通に接してくれるし、店ではあくまで仕事と割り切っているように思えた。それ以前に、彼女たちは自分のことで精一杯なのかもしれない。 元芸能人だと意識していたのは、逆にレイナだった。そんな自分が恥ずかしくなったりもしたけれど、店の雰囲気に馴染むまで時間はかからなかった。 レイナの人気はやはり凄まじく、その加熱ぶりと話題性にテレビカメラが潜入しようとした。 「元超人気アイドルがキャバクラ嬢デビュー、というタイトルで特番を組みたいとテレビ局が取材を申し込んできたんですけど、どうでしょうか」 土岐沢が話を持ちかけたが、レイナは即座に断った。 「それじゃ、芸能界を辞めた意味がない。たとえ一千万のギャラを提示されようと無理です」 今後も雑誌などへのメディア露出は極力避けるつもりである。もちろん売れたいという気持ちはあるけれど、あくまで接客勝負であって売名が目的ではない。           2 「お疲れさまでした」 仕事が終わった女の子(キャスト)が《送り》を使う場合、つまり客との食事(アフター)に付き合ったり、友達との付き合いや個人的な遊びをしないで自宅に直行するときは、店に千円を支払って店の車で帰ることになっている。都心から離れたところに住んでいる女の子にとっては、タクシーで帰ることを考えたら利用しない手はない。   店の寮(マンション)に住んでいるレイナは、自費を使ってタクシーで帰っていた。部屋は店から程近いところにあるから料金的にも安く帰れるのだ。 それによって、店の車で帰る他の女の子に気を使うこともない。 レイナはいつも通り、仕事が終わるとタクシーを拾った。後部座席のシートの奥に座った彼女が行き先を伝えると、運転手は二つ返事で答えた。 歌舞伎町のネオン街から離れたレイナは、口説かれる空間から解放されるいっときの癒しに浸っていた。車の中で安堵感に包まれながら、何も考えたくない虚無感で頭の中が真っ白になった。接客(しごと)を始めた当初こそ、物珍しさも手伝って控え目な客の対応だったけれど、羨望が身近な存在になったら今度は使う金額の多さも手伝ってか、より強く激しく自分のものにしようと躍起になってきたのである。 やがて、車がマンション前で停まった。ワンメーターの料金を支払うと、力が抜けた体をもう一度奮い立たせて座席(シート)から降りた。 夜空を見上げると、満月が雲の間から顔を出していた。少し肌寒さを感じる。 十二階のマンションの九階に住んでいるレイナは、オートロックのボタンを押して建物の中に入った。すると、すぐ後ろからドアが閉まる直前に誰かが入ってくる気配がした。後ろ髪が引っ張られる感覚を引きずりながらエレベーターのボタンを押すと扉が開いた。相変わらず背中に覚えていた違和感が、レイナと一緒にエレベーターの中に入った。 直感で危険を察知した彼女は思わず振り返った。 と同時に、後ろから右手で口を押さえられながら左手で抱きつかれた。凄い力で一瞬にして身動きがとれなくなったレイナの、眉毛まで覆う大きいサングラスが外れそうになった。 「騒ぐと殺すぞ」   低いドスの利いた男の声だった。籠もったような声は、マスクをしていると思われた。 全身が凍りついたレイナは、悲鳴を上げようにも声帯を動かすことさえできない。もし声が出たとしても口を塞がれているし、身体に危害を加えられるかもしれなかった。   男は慌てたように抱きしめた左手の人差し指で、エレベーターの扉が閉まるボタンを押した。 「何階に住んでいるんだ、ボタンを押せ」 しかし、震えたままの右手は上に挙げることさえできない。 「早く押せッ」 ……そうこうしている間に、エレベーターの扉が開いた。同じマンションの住人だと思われる、中年で紺色のスーツ姿の男が入ろうとすると、暴漢(ストーカー)男は強く舌打ちをして逃げた。 助かった。 そのままレイナは崩れ落ちた。涙は出なかったが、顔の皮膚が硬直しているのが分かった。 「大丈夫ですか。襲われたんですか」 中年男はレイナの両肩を持って叫ぶと、彼女は固唾を呑んで頷いた。すると彼はエレベーターの外へ走った。 レイナは安心感とともに、閉じた目からは自然と涙が溢れ出た。 やっと自由になった今、このまま帰ろうと思った。しかし帰宅すれば自分のために暴漢を追いかけていった彼の誠意を踏みにじってしまう。そう感じた彼女は、呆然としながらもエレベーターの前で立っていることにした。 しばらくして中年男が戻ってきた。諦めに似た表情が、暴漢を取り逃がしたことを物語っていた。 「すまない」 といいながら携帯を片手に電話している彼に、レイナは深々と頭を下げた。 言葉は出なかった。 それから約十分後、二台のパトカーが駆けつけた。 物々しい雰囲気の中、六人の制服警官がレイナと中年の男に犯行の状況を訊いてきた。中年男の名前は宮島覚(さとる)といった。 犯人の背格好を警官が確認すると、宮島は自宅に帰された。レイナは改めて、彼にお礼の言葉をいった。「本当にありがとう御座いました」 会計士の宮島は残業が長引いたので今夜は事務所に寝泊りするつもりだったらしいが、妻が高熱を出したらしく慌てて自宅(マンション)に帰ってきたという。そんな事情があったにもかかわらず、レイナのために奔走してくれた。 もし、宮島が事務所に泊まったことを考えたら……息が詰まって再び涙腺が開いた。 しかし現実は、そんな猶予を与えなかった。 「それで犯人に心当たりは?」 「店に来るお客さんに、しつこい男はいないか」など、警察の質問が続いた。   どうやら犯人は、レイナが毎晩タクシーで帰宅するのを知って車で後を追跡したらしい。そんな状況を踏まえて彼女が住んでいるマンションを確認すると、今度は帰ってくるのを見計らって入口の近くで待ち伏せしていたようだ。 と、黒っぽいスーツ姿の刑事が推理した。   警察がマンションの管理会社に問い合わせてみたところ、防犯カメラに映っていたのは黒いニット帽を被って白いマスクと手袋をした、サングラス姿の中肉中背の男であることがわかった。やはり、宮島の供述と一致した。 レイナには犯人がどんな格好をしていたかなど、全く分からなかった。いきなり自分の身に降りかかった狂気に怯えるだけだったというのが、偽らざる事実である。   実際に、レイナも犯人の映像を見せられた。 「カメラに映った人物と似たような客はいませんか」と訊いてきたが、映像に映っている曖昧なシルエットでは同じような男はいくらでもいるし、表情ももちろん特定できない。   二時間ほどの事情聴取を受けた後で、ようやくレイナは帰宅を許された。 事件後、仕事を終えたレイナは《送り》の車を利用するとともに、寮の入口まで店が雇ったボディガードが付き添った。店側(アバンギャルド)は、話題づくりのためにパトカーを同行させることも検討したが、さすがに政府の要人ならともかく一般市民の警護はできないと警察には断られたらしい。 いずれにしても辞められては困るという、レイナに対しての配慮である。 入店から一ヶ月たったNO.1のレイナは、一日の平均指名本数が約三十本に落ち着いた。 売れっ子キャバ嬢の金銭(ギャラ)は店側との駆け引きになるために、レイナは土岐沢店長と交渉した。一ヶ月間の査定である。 それによって一か月分の給料が決まる。 「通常は時給制ですが、売り上げがあるキャストさんの場合は店との折半にします。それは、初めにレイナさんが入店したときの契約通りです」 その内容については、森にスカウトされたときに訊いたことと同じだった。 土岐沢は続けた。 「レイナさんの客単価は平均すると一人三万円ですから、単純計算で一日の売り上げは、九十万になります。それからサービス料・税金の三十%やT・C(テーブルチャージ)を差し引いた純利益は六十万。これを九時から一時までの労働時間で割ると、一時間当たり十五万円で、時給は七万五千円になります」 「でも、私がストーカー被害に遭ってからボディガードを付けてくれたり、店のスタッフはお客さんに気を遣ってくれたりして、それが指名につながっているんだから七万でいいです」   引いた五千円という金額はどんぶり勘定である。七万の時給に見合った働きをしているとは思えなかったが、給与システムに準じて賃金が支払われるのであるし、それだけ多くの自分の客が満足しているのならば、と納得した。 金銭に無頓着のレイナだが、それは天然のおっとりした性格も関係していた。また客(ファン)には、それが魅力にさえ見えるらしい。彼らは驕り高ぶることなく自然に接してくれるレイナの態度と笑顔に、癒しと安らぎを感じているに違いない。 「レイナちゃんってさ、しっかりしてそうだけど、うっかりしてんだよね。また、そんな天然なところが可愛いんだ」といわれたこともある。   何か素の自分をいい風に解釈してくれて、それがとても嬉しかった。 部屋に戻ると、レイナはシャワーを浴びた。一日の疲れとストレスを洗い流していたら思わず、その場でしゃがみ込んで股間を手鏡で覗いた。 突然見たいと思ったわけではない。 キャバクラ嬢として接客していると、ときおり客の視線を股間に感じてしまう。もちろんアイドル時代にもあった。レイナ自身も、男の股間の膨らみが気になることはある。 やはり、肉体の欲望を満たす性行為は性器の結合なのだから、人間としての本能である性のシンボルを覗き見したい思いは前からあったレイナは、鏡の表面についた水滴を人差し指で拭いた。 すると、まだ見ぬ秘境が映った。 「グロテスクで気持ち悪い。世の男の人たちって、こんなものを目指して生きてるんだ……魑魅魍魎が」   無論、レイナにだって性欲は存在する。 「こっちのほうが、断然素敵だから」 枕の下に手を忍ばせて握り締めたのは、黒光りする極太のバイブだった。 スイッチを入れると、機械音とともに小刻みに振動しながらくねりだす先端部分が愛しくなって、たまらず舐め始めた。次にたっぷり唾液がついたバイブの先端で、乳頭を刺激してから股間へとすべらせて恥毛をまさぐっていると、体の底から押し上げるような欲情が湧き起こった。 早く入れたいけど、快楽に溺れる自分が怖かった。 しかし……遂に我慢できなくなったレイナは一気に根元まで押し込んだ。 すると、身体を波のように揺らせてから硬直した後で痙攣した。 目が覚めたときには夕方になっていた。         3 安良城レイナに恋(こい)のホスト、美々夜(みみや)がアタックした。 お坊ちゃん育ちで苦労知らずの彼は、キャバ嬢デビューしたレイナを絶対にモノにするという動機(モチーフ)が芽生えた。憧れでしかなかった人気アイドルが手を伸ばせば届くところまで来てくれたのだから、隠れファンだった美々夜としては当然だった。いや、ファンでなくてもアイドルを口説く挑戦権(チャンス)が訪れたなら、男ならば触手が伸びるのは当たり前のことである。 キャバクラでは同業者(ホスト)の入店を断る店は多いが、アバンギャルドは受け入れた。 「キャバクラで一番モテないのはホストだ。キャバ嬢たちは、周りの友達が騙された話を聞いてるから警戒するし、プライドが高い女ほど拒絶反応を見せる。売れっこホストになるのと、店の外で女にモテることは違うんだよ」 という店側(アバンギャルド)の思惑を、美々夜は知っていた。夜の世界で生きていると同業者たちの噂を耳にすることが多いからであるが、雑音はあくまで外野の声であり、当の美々夜は自信満々だった。 NO.4の美々夜の出勤時間はAM.一時で、それまでアバンギャルドで飲むことにした。 六階建てのビルの地下にある店(アバンギャルド)は、階段を下りていくと御香の匂いが鼻孔の中から脳に入って心地よさを感じた。美々夜は、自分が勤める恋(ホストクラブ)の階段を下りるときとは違う心理だった。仕事と遊びの違いもある。もちろんキャバクラへ行くのは初めてではない。 しかし、こんな期待感は初めてだった。 アバンギャルドの店内は、白い床、白いソファ、白い壁、透明なテーブルの色彩で、淑やかな雰囲気に包まれていた。その中で、赤いドレスを着ているレイナは輝いて見えた。 映像で見ていたに過ぎないあのアイドルが、美々夜に話しかけた。 「いらっしゃいませ、ご指名いただき有難うございます。初めてですよね?」 「はい僕、美々夜といいます。恋でホストやってます」と、名刺を交換した。 「ホストさんって色々大変ですよね。私は行ったことないんですけど、ホストクラブに遊びにくる客の女の子って我がままだっていうじゃないですか。まぁ、高いお金払ってるんだから当然かもしれませんけど」   美々夜の目を見つめながら話すレイナの顔に、思わず彼は見とれてしまった。話の内容云々ではない。彼女の存在自体が癒してくれるのだ。息を吸い込むときに胸の高鳴りを感じた美々夜は、純粋なときめきというものを生まれて初めて知った。 しかし超売れっ子のレイナは、いったん付いても十分と経たずに他の客が待つ席へ目まぐるしく移動してしまう。次に、また来るまで五十分は要するといった塩梅だ。 これでは腰を落ち着けて口説く暇もないが、同じ水商売で生きる美々夜には多忙なレイナの情況が読めた。表向きはヘルプのキャストと落ち着いて歓談する美々夜は内心、彼女の性格に好感を持っていた。 三時間で三十分ほどしか話していないが、少ない時間の中でも懸命に美々夜の話を訊こうとするし、楽しんでもらおうという誠意は充分に感じ取れた。何よりレイナのおっとりとした性格に癒されるから、たとえ借金をしてでも通ってしまう客の気持ちが理解できる。   出勤時間が迫り会計を済ませた美々夜は、閉店まで呑みたい気分だったが、見送りのために戻って来たレイナの耳元で囁いた。 来店させれば、また彼女と楽しいひとときが過ごせる。 「お金はいらないから、俺の店に呑みに来て」 最後に彼は常套手段の誠意を見せつつ、お決まりの金満生活トークで気を引いたつもりだったが、これは他の女に対してのものとは真剣味が違った。 「楽しみや、喜び、遊び、セレブ気分も全ては金があってこそ得られるものだから、俺と一緒にいれば何も心配することはないよ」 とにかく安心を伝えたかった美々夜は、レイナに運命の出会いを感じていた。来店するまでは客にするつもりだったが、今は生涯の伴侶にしたい思いが湧き起こっていたのである。 「一生、お金には不自由させないよ」 しかし、そんな美々夜の囁きにもレイナは連れない素振りで応じようとしなかった。 「ごめんなさい。私がホストクラブに行ったら、他のお客さんに悪いから」 「えっ、どうして?」 焦りが生じた美々夜は、逸る気持ちを抑えながら店を後にした。 恋。 美々夜には、レイナが自分の誘いを断った理由が分からなかった。接客中にもかかわらず、彼は後ろの鏡を振り返って自問自答した。前髪に軽く触れながら、二次元の世界に映された誰よりも美形のイケメンに語りかけた。 「超格好いい。髪型だって化粧も服装(スーツ)だって、今日の俺を最高に引き立たせてくれたはずなのに。いろんな意味で恵まれている俺と、仲良くして損はないのに」 「どうしたの?」   隣に座っている風俗嬢の真由美が、美々夜に尋ねた。しかし、そんな客のいうことなどどうでもいい彼は無視をして席を立った。 何も考えられない美々夜は、そのまま更衣室に入るなり携帯に叫んだ。 「俺は今まで、女にフラれたことはねぇんだ。目をつけた獲物は必ず仕留めてきた。そんな俺のプライドを、お前は……でも絶対に諦めねぇからな。地の果てまでも追い掛け回してやる」 レイナは押し黙ったままだった。 次に携帯の電源を切った彼女にしてみれば、男が強気で強引なほど防衛本能が働いたのである。 なぜなら、男と女が心を許し合うプロセスを省いて肉体だけを一直線に求めても、女は貝のように心を閉じるだけなのだ。やはりレイナは盛りのついた雄(オス)に対しては、客観的にしか見られなかった。 感情移入できないのである。 それに、女は体調に左右されやすい。たとえば生理の前後や、排卵日などで感情が変わるという気持ちのサイクルがある。ただでさえ生理が終わったばかりで、性に興味が薄れている情態にあった。 しかも元々レイナは、ホストに興味がなかった。 いろんな女の子に対して巧いことをいったり、ホスト同士で客を取り合いしている状況がうかがい知れたからだ。 しかも、それら全てに金が絡んでいる。 彼女にしてみればそういう男は好きになれなかったし、自分の客にホスト遊びをしていることを知られたら、やはり嫌な思いをするだろうという気配りもあった。 美々夜の怒声は、エレベーターで暴漢に襲われたときの悪夢が再び降りかかってくるようで、身の毛がよだつ緊張に襲われた。だから、思わず電源をオフにしたのだ。 もしかしたら、あの暴漢は美々夜?  とも疑ってみた。しかし、エレベーターから逃げ去るときの男と美々夜では身長が違った。警察によると、防犯カメラに映っている男の身長は一七〇ほどで、美々夜とは約十センチ違う。 それと、ホストは日々女性客を相手にしているために、あんな事件を起こすような卑劣なことをするとは思えない。ましてや美々夜は売れっ子である。 男として、遊び人としてのプライドもあるだろう。そう考えると言葉とは裏腹に、これ以上彼が脅迫してくることは考えにくかった。 それでも暴漢の恐怖が消えることはない。   エレベーターでの事件後、捜査の進展があったかどうかは被害者のレイナには知らされなかった。おそらくストーカー殺人などといった凶悪事件にでも発展しない限り、警察は本気で動かないと思った。そもそも、ストーカー規制なる法律が施行されるきっかけとなった桶川(おけがわ)の件がいい例である。 美々夜は舌打ちした。 彼女が何を考えているのか見当もつかない。疑念の度は、深まるばかりである。 「くそっ、電源を切りやがった。どういうつもりなんだ?」 音信不通となった携帯に、美々夜は耳を疑った。壊れたのでは? と一瞬、携帯画面を凝視したが故障ではなかった。イラつくほど夢中になって、まるで蟻地獄に落ちていく我が身を止められずに、ずるずると滑りころげる錯覚に陥った。すでに気持ちの管理(コントロール)ができなくなってしまっている。 ホストといっても仕事を離れれば普通の若い男と同じだから、本気で客を好きになることだってある。しかしそういった噂を訊いたときは馬鹿にして笑ったけれど、今の自分がまさにそれだとは美々夜は感じなかったし思いたくもなかった。 他のホスト(やつら)とは違うという自負があるし自尊心(プライド)もある。 「レイナは俺が好きになるはずだし、また好きにならないはずがない。一見、避けてるような態度をとっているのも、俺の本気度を試しているに違いないんだ。馬鹿だけど可愛い女だぜ」   彼女の冷たい対応をいい風に解釈して、気持ちに光明が差してきたときだった。 いきなり藤原代表(オーナー)が更衣室に入ってくるなり、美々夜の頬を平手で張り飛ばした。 接客中は仕事にならないほど乱心していたし、控室でも大声でレイナに叫んだから代表には聞こえたのだろうし、美々夜の異変に気づいたに違いない。 「どんな女を仕留めてきたのかは知らんが、まだまだ甘いな。俺は現役時代、夜の魔王の異名をとるほど次から次へと女を風呂(ソープ)に沈めた。しかし、 そんな俺でも新人時代はフラれまくったのだ」   やはり、藤原代表には物語(ストーリー)が読めていた。代表の迫力に初めは恐怖を覚えたが、思わぬカミングアウトに、床に尻餅をついた美々夜は驚いた。 代表の、過去の経験にもとづいた教えは続いた。 「そんな俺が成功するのは、至極当然。なぜホストが心の片隅で罪悪感を覚えながらも、この稼業に精を出せるか……皆がそれぞれ女に対して傷ついたトラウマを持ってるからよ。その傷が深いほど鬼になれる。えてして純な奴ほど受けた傷は深いが、逆にそれがない男は弱いのだ。鬼になる動機が小さいからな……ホスト道場はキャバクラ道場より月謝は高いんだぜ。それは、女のほうが恋愛に対しての依存度が高いからだ」   言い放った代表は部屋を出た。 叩かれた頬に手を当てる美々夜は、藤原の自分に対する愛情を感じていた。 平手打ちにしても説教にしても、おそらくは美々夜の頭を冷やす必要があると思ったのである。 叩かれた瞬間は意識が薄れた美々夜だったが、代表の温情でショックが和らぐと、頬の痛みが心地よさに変わった。 本来、女性を惚れさせる立場の美々夜が自分を見失いかけたが、寸でのところで留まることができた。 「人それぞれに、ホストをやっている色んな理由と背景があるんだな。俺自身も勘違いしていたのかもしれない。標的(ターゲット)の女は、落として当たり前みたいな。そういった自惚れを代表は、自分の恥を晒すことで教えてくれたんだ」   美々夜は冷静になってみると、女の体を焦らす要領で心を焦らすことを忘れてしまっていた。これからは美女ほど冷静に口説かないといけない。男が熱くなるような女は、夢中になられることに慣れているから、彼女たちは冷めた目で相手を品定めしている。 だから、こちらも女の心理状態を計算し尽くして無情にならないと、非情になれない。 ようし。 心機一転の美々夜は立ち上がって客席へ戻ると、今までの甘さを払拭して冷酷な心境になれた。 「ごめんね真由美、いつもお前のことばっか考えているから」 「嘘ばっかり。じゃぁ、さっきはどうして無視ったの?」 鬼になる一つの動機ができた美々夜は、やさしい表情や言葉の演出を忘れることはなかった。 「これから店が終わってから、どうやってお前を口説こうか考えてたんだよ。俺って一途だから、一つのことを考え出すと誰の言葉も耳に入ってこない。 でも、ここまで夢中になったのは初めてだぜ」 【第一話・完】
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