恋人との距離感

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どれだけ悲しくても日常に戻る。高校生の頃みたいに、毎日恋人と会わなくても生きていけるし、生きていかなければならない。 「いらっしゃいませー」 相変わらず花の働くカフェではランチタイムに行列ができていた。会話を楽しむ声や写真を撮ってはしゃぐ声に混じり、1人の女性が怒りの声を上げる。 「ちょっと! 頼んだものと違うんだけど」 声を上げたのは40代くらいの女性で黒髪を1つにまとめ、品の良い白色のノーカラーのスーツに身を包んでいた。店内の客の目は一斉に花に向けられる。 「え……あ。た、大変申し訳ございません。ただ今お取り替え致します」 花は頭を下げて、テーブルに置いたランチプレートを慌てて手に取る。 「もう結構よ! 」 そう言って細いフレームの眼鏡から花を睨みつけて、女性は立ち上がる。   「何が人気店よ! こんな店員がいるようじゃ先は無いわね」   店内を見渡すように声を張り上げ、女性は店から出て行く。ランチタイムの混雑時に花は哀れむような視線を感じながら、やってしまったと頭で後悔を唱えながら、ランチプレートをキッチンへと戻す。 「……店長すみません」 「こういう事もあるよ」と慰められ、気を取り直しどうにかランチタイムを乗り越えた。仕事に身が入っていなかったのだと心の中で何度も溜息をのみこんで、1日を終えた。 気が逸れていた。自分で突き放しておきながら、悠に呆れられてしまったのだと一日中、考えていた。仕事にまで支障をきたすなんて、年を重ねて臆病になっただけで人間的には全く成長していない。何かあっても次の日には立ち直っているような若さはなくなって、打たれ弱くなっていると身に染みた。27だって若い。だけど何一つ怖いものの無かった20歳の頃の自分はもう笑って許してはくれない。ロッカールームで深い溜息をこぼした。 「仕事行ってくるね」 「仕事終わったよ」 送ったメールに返信はない。携帯は鳴らない。 呆れるくらい悠から届いていたメールはもう来なかった。自分のせい。痛いほど分かっている。 仕事終わりにルーヴルまで歩く。雑貨屋さんの明かりが見えて、お香の香りがした。旅から戻ったのだろう。ルーヴルの看板が目に入って足を止めて磨りガラスから中を見ても、どうせ中は見えないし、きっと悠はいない。重いドアに手をかけても、気力がない今日はうまく押し開くことも出来なかった。ようやく開けた扉から小さな鐘が自分の存在を知らせると、いつもの本の香りがやけに切なく感じた。唾がじとっと喉元から込み上げてくる。床は心なしか、ツヤを失ったように見えた。旅行から帰ってきて、手入れが行き届かなかったのだろうか。 そして待ち人は居ない。本を手に取って、表紙を撫でた。飽きた本は手放して、つまらない本は開くこともない。人の気持ちも似たようなもんで、関わらないと決めれば、そうやっていくらでも生きていける。始まった恋があっという間に終幕を迎えてしまいそうで、本の結末なんて見ることは出来なかった。
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