西園寺悠

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「今日は何時に終わる? 」   悠が押し倒されたままの姿勢を正し、髪の毛や服を整える。ゆっくりと花を見上げた。 「……ランチタイムは14時までです」 「ははは。君の就業時間の話だ」   どこかの有名科学者のような笑い方に、何か私はテストでもされているのだろうかと辺りを見回す。まさか良くあるミシュランガイドの人が客になりすまして、評価をするやつだろうか。いや、ここはカフェだぜ? と花は脳内が混雑していた。 「デートをしよう」 「……はい? 」 「俺たちは今日から恋人だ。初デートをしよう」 悠が真剣な眼差しで花に伝える。やっぱり悪戯だろう。花は脳内で結論を迎えた。 「お客様? 何を考えておられるか分かりませんが、名前も知らない初対面のあなたとお付き合いする気はありません」 花はポケットからおしぼりを取り出して、テーブルにどんと押し付ける。そしてこの顔だけのクズ男を上から目一杯、見下ろしてやった。 「ああ。そうか……確かにそうだな。悪かった。想いが先走ってしまった」 悠は頭を下げて素直に謝罪をした。 「分かって頂けて何よりです」 あまりに素直な態度に、花は少しだけ強く言い過ぎた事を後悔した。 「俺は西園寺悠だ。お前の名前は知っている。花。俺たちは今日から恋人だ」 花の働くカフェでは、ネームプレートに手書きで名前を記入し、好きなメニューを書き込むシステムがある。花は慌ててネームプレートを隠した。 「そして手の甲にホクロが1つある事も」 悠は花の右手の甲を指差して、嬉しそうに笑う。花はネームプレートに添えた右手の上に左手を慌てて乗せた。 「……お客様? ご注文は? 」 店内の一番奥のテーブルとは言え、先程のフラッシュモブ紛いの出来事から、同僚の視線。近場のお客の視線が痛いほど刺さっていた。 「花」 悠は花を指差し、悪戯そうに笑う。花は、こいつは(らち)があかないと思い、この場をやり過ごす妥協点を探した。 「私ね今、見て分かる通り仕事中なの。とぉーっても忙しいの。今日は5時に終わるから、もし悪戯じゃないなら、このお店出て左に進むと、小さな雑貨屋さんがあるの。そこを左に曲がると座って本を読めるルーヴルって本屋さんがあるからそこで待っててくれますか? 狭い店内だから他のお友達とかは入れないから1人で待ってて。ねっ西園寺くん」 今は鬼のランチタイム。1人のお客に構っていたら、後で怒鳴られてしまう。しかもこの男の容姿が良いせいで、イケメンだからって。なんて誤解を生みかねない。 花は今の仕事を平穏に済ませることを選択し、面倒ごとを後回しにすることにした。 「ああ。そうだな。俺のせいで時間を取らせて悪かったな。仕事はきちんとしないとだ。分かった。待っている」 そう言って、立ち上がった悠はズボンのポケットから黒い革の財布を取り出した。 「何も注文もせず悪かった。これを」 目を細め、優しく笑い花に五千円札を手渡す。振り返ることもなく、扉へ歩いて行く。 「えっ。ちょ……ちょっと」 お金を返そうと悠の服を掴もうとすると、悠はカフェスタッフたちがいるカウンターに進行方向を変えて、頭を下げた。 「騒がせて申し訳なかった。花を頼みます」 そう言って、もう誰の声も届かないような潔さで颯爽と店内から去っていった。 たった10分ほどの出来事は彗星のごとく過ぎ去って、あまりに多くの感情を弄ばれたように、五千円札を手に持ったまま花は立ち尽くしていた。
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