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「じゃぁ俺、帰りますね」
「本当に送らなくていいのか?」
「はい。寒いので捺さんは部屋に居てください。俺は駅まで走るので」
「はは、本当毎回すごいなお前は」
「近いから走ったうちに入らないですけど」
俺は玄関まで見送りに来てくれた捺さんの瞳をじっと見つめた。すると腕が伸びてきてそれが俺の頭を支えるようにまわされ、優しくキスしてくれた。
「……捺さん」
「んー?」
「……な、なんでもないです」
口から出てしまいそうになった「帰りたくない」をぐっと堪えて、俺は目の前の愛おしい人にぎゅっと抱きついた。
「こ、今週は平日会えますか?」
「あー、ちょい難しいかも。でも金曜日は早く帰るから」
「分かりました」
「週末、何食べたいか考えといて」
「また作ってくれるんですか?」
「まぁ外でもいいけどな」
「いえ、俺は捺さんが作る料理全部大好きです」
「ふーん。俺も?」
そう言われてハッとした。また俺ばっかり言わされる。
「好……そうですよ」
「翔太、こっち見て」
捺さんの胸に埋めていた顔を上げると、さっきよりも少し熱っぽいような瞳が待っていた。
「……ん、」
それから顔が近づいてきて、また唇が重なった。甘さを増した口づけが俺を引き留めるように深く濃くなっていく。
「なつ、さ……すき、だいすき」
僅かに開いた隙間からなんとかその言葉だけを絞り出した。結局はいつも俺が言いたくなってしまうんだ。
好きだから。捺さんの事が、大好きだから。
「……泊まってく?」
キスの終わりにそんな事を優しく言ってくる捺さんは策士だと思う。
「いえ、あ、明日は仕事なので」
「そうだな」
俺は乱れた呼吸を整えながらゆっくり捺さんから離れ、靴を履いた。いつになってもこの瞬間が苦手だ。寂しくて、泣いてしまいそうになる。
「じゃぁ、お邪魔しました」
「ん、気をつけて帰れよ」
「はい。おやすみなさい捺さん」
「おやすみ」
俺は今できる精一杯の笑顔でそう言って別れた。
ガチャンと無機質な音がマンション内に響いて、あぁ、また別々になってしまったんだと実感させられる。
金曜日はあんなに楽しみで仕方ないのに、日曜日はいつもこうだ。しばらく捺さんの部屋の前から動けなくなる。もう会いたくてたまらない。
いつか、帰らなくてもいい日が来ないだろうか。
例えば──宝くじが当選して働かなくて良くなったらずっと捺さんの家に居ても怒られないかもしれない。あとは俺もこのマンションの別の部屋に引っ越して来たら、もっと長い時間一緒にいられるのかも。
なんて、そんな出来もしない事ばかりを考えてしまう。
こんな事考えていたら頭がおかしくなる。俺はやっと重たい足を動かして駅までの道を走った。
ネガティブな考え方はもうやめなければ。俺は今幸せなんだから。妄想するならもっと楽しい事にしよう。
そう、例えば──
"捺さんと同棲したら"とか。
そんなのは夢のまた夢の話だけど。駅までの間だけ、その妄想で寂しさを紛らわせていよう。
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