招き猫

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吾輩は招き猫である。名前はちゃんとある。名前は後で言うことにして、ちょうど目の前で男女の修羅場が行われているので、そちらを見ていただこう。 「こんなに君のこと愛してるのに、どうして僕と付き合ってくれないんだ!」スーツ姿の男が、定食屋で働くパートの若い女性に詰め寄っている。 「今は誰とも付き合う気になれないの。どうか分かってちょうだい」女性は顔を横に向けて相手にしようとしない。 「美月さんは怯えてるんだ、人を愛することを恐れてる。僕なら美月さんのことを救ってあげられるのに」そう、この定食屋の女性は美月という名前だった。目がぱっちりとした綺麗な顔をしていて、とても愛想が良かった。この美月を目当てで足繁く通う男客も多かった。もちろん美月に言い寄ってくる男客もあまた存在した。今言い寄っている男もその中の1人だった。 「今日はもう遅い。また来ます」そう言って男は帰っていった。美月が遅番で1人になったところを狙ったのだ。 「はぁ」と美月はため息をついた。「まったく男ってめんどくさい。そう思わない?」と言って吾輩に近づいてきた。「君はいいねぇ、そうやって人間たちのいざこざを眺めてるだけで」と吾輩に顔を近づけて囁いた。 「そろそろさ、交代してよ。そっちとこっち」美月と吾輩は目が合っていた。睨みつけるように吾輩の目を見つめている。吾輩はそらしたくても、微動だにできない。 吾輩は唯一動く右手を下ろす。いいよという返事だった。「よし!じょあ決まりね!」と美月は満面の笑顔になる。身体につけていたエプロンをとると、吾輩にかけた。そして何やら呪文のようなものを呟く。すると、吾輩の身体がどんどん大きなるのがわかった。 吾輩は美月になっていた。さっき美月だった女性は招き猫になっていた。そう、吾輩の名前は美月。定食屋で働く美月なのだ。 よろしくね、という意味を込めて招き猫は右手を下ろした。
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