特急列車にて

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 眠ってしまっていた、と目を覚ましてから気づいた。  ガタタ、ゴオゴオ、ガタタ、ゴオゴオ、と、特急列車特有の荒っぽい走りが絶え間なく肩を揺すっている。黄みがかった電灯の光も寝起きの目には眩しくて、開きかけた瞼をぎゅうと閉じる。私の目を眩ませたその光にも照らしきれない暗闇が煙のように辺りを漂っている。  深く濃い夜の暗闇だ。  彼女の声が聞こえる。小さな声でクスクスと笑い合うその声は私の胸の中へと落ちてきて小さな陽だまりを作る。薄暗い世界の中でもその陽だまりは明るく、私の胸の底をころころと撫でて暖めていく。  汗が引いて全身が薄っすらと膜に覆われたようにぎこちない。身じろぎ、こわばった背を少し伸ばすが、瞼はぴったりと閉じたままだ。重たい瞼の理由はただ眩しいというだけではない。  心地よくも淋しい倦怠感が身体を満たしている。私はすぐにまた眠りの淵をさまよいはじめた。このまま身を預けてしまおう。「だって明日は仕事だ」と分かりきっていることを思い出させるのは意地悪な焦燥感。  ガタタ、ゴオゴオと揺れる車内。眠りに身を委ねる決意をした私の身体は、遠心力で左右に大きく振り回される。  列車が一際大きく揺れる。私の身体はぐわん、と右へ傾いて、吐息がかかりそうなほどに彼女の声が大きくなる。すぐそばに彼女の肩があることは分かっていたが、そこへ頭を載せることはしない。2人きりならばあるいはそうしたかもしれない。けれど、私にとって「なにがしたいか」よりも、「他人からどう見えるか」の方が重要だから、私はこうして、しばしば自分の意思を押し殺してきた。  彼女には恋人がいる。  私ではない、ほんの2、3回会っただけの、若く、軽薄な、くだらない男だ。  彼女はこんなにも魅力的なのだから、皆が惹かれるのは当然のことだろうが、おつむの憐れな羽虫までもが身を弁えずに彼女から溢れる甘い蜜を吸おうとたかりにくるのは困ったことだ。  彼女はまだ恋を知らない。  それゆえに、恋人のなんたるかも彼女は知らない。 無垢で、純粋で、美しく、そして残酷だ。 恋を知らない彼女は、きっと私の気持ちに応えることはない。  まどろむ私の頭に、彼女の手が載せられる。小動物を愛でるように、幼い子供を寝かしつけるように、私の髪を何度か梳いて離れていく。 彼女は満足したのか、何事もなかったかのようにまた会話へと戻っていった。  眠ったふりをしながら、はやる鼓動を抑える。  彼女はなんて残酷なんだろう。たったそれだけのことで私の胸の内がどれだけ乱されるか、知りもしないし知ろうともしないのだ。そんな彼女が時折憎くなるけれど、今は、それ以上に愛おしかった。  私の気持ちに応えることはないが、こうして私を愛してくれる彼女のことを手放せない。  列車はガタタ、ゴオオ、と止まることなく走っている。  彼女の肩に頭を預けることもできない臆病な私は、まどろみの中へと意識を委ねた。  眠りの世界に、私を追い詰めるものはなにもない。  束の間の幸福感と安心感に抱かれて、暗闇に引き込まれていく。  深く濃い夜の暗闇だ。
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