水族館日和

2/8
前へ
/16ページ
次へ
「水族館は向こうみたい」  駅は水族館仕様で、壁にはタイルで海の生物たちが描かれていた。その中に大きく、「水族館はあちら」と矢印付きのポスターが貼ってあった。ミナがその矢印の方へと向かおうとすると、有理に腕を掴まれた。 「ちょっと待った。先にお昼にしよう」  時計を見ると一時前だった。 「いいけど。水族館で食べないの? レストランあるんでしょ?」 「水族館のレストランもいいけど、行きたいお店、あるんだよね」 「別にどこでもいいけど」 「ちょっとした喫茶店があるんだ。そこに行こう。駅からすぐだから」  水族館へ向かうのとは別の方向にある出口から二人は外に出た。そこから三分、有理の先導で歩き、二人はこじんまりとした喫茶店に入店した。 「いらっしゃいませ」  店内には大型の本棚が並んでいた。ミナははじめ、古本屋かと思ったが、よく見ると、本棚の合間に、テーブルが置いてあった。店の一角がカウンターになっており、白いシャツに臙脂色のエプロンをした初老の男性と、同じ色のエプロンを身につけ中年の女性がいた。 「ああ、佐久間さん」  初老の男性は、有理の姿を認めたとたん、顔をほころばせた。 「来ていただけたんですね」 「ええ。いつか伺うと、約束しましたから」 「覚えていてくださったんですね。それで、今日はどのようなご用件で」 「いえ、普通に食事をと思いまして」 「ああ、それはありがとうございます。どうぞ、お好きな席に」  カウンターからほど近い、四人掛けのテーブルに二人は腰を下ろした。二人の他には、コーヒーを楽しむ客が二組と、窓際でサンドイッチを頬張っているサラリーマンが一人、席につかず本を見ている客が二、三人いるようだった。小さな店の割には繁盛していると言えるのではないだろうか。  女性店員から受け取ったメニューを見て、「本日のパスタランチ」を注文した。 「知り合いのお店?」  初老の店員がカウンターの奥にあるキッチンの方へ向かったのを確認してから、ミナは小声で訊いた。 「元お客さん」 「人生相談の?」 「そう」 「どんな?」 「守秘義務の範囲内で答えると、このお店を持つことの背中を押してあげた感じ」 「ふーん」  キッチンでテキパキと動き回る男性を見ながら、ミナは、あんなにしっかりしている人でも、悪魔にすがりたくなることがあったのかと思った。もちろんミナは天使なので、人間の弱さについては十分に理解しているつもりだ。心の強さ弱さは、見た目では決して分からない。それでも男性が先ほど浮かべていた穏やかな表情は、迷いに囚われていた過去があったことを全く感じさせなかった。きっと有理の人生相談が、うまく男性を救ったのだろう。  有理はこれまで何人の相談に乗ってきて、何人の人生を好転させたのだろうか。この男性のように。ミナはこっそりと称賛の眼差しを、目の前の悪魔に送った。
/16ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加