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「水族館は向こうみたい」
駅は水族館仕様で、壁にはタイルで海の生物たちが描かれていた。その中に大きく、「水族館はあちら」と矢印付きのポスターが貼ってあった。ミナがその矢印の方へと向かおうとすると、有理に腕を掴まれた。
「ちょっと待った。先にお昼にしよう」
時計を見ると一時前だった。
「いいけど。水族館で食べないの? レストランあるんでしょ?」
「水族館のレストランもいいけど、行きたいお店、あるんだよね」
「別にどこでもいいけど」
「ちょっとした喫茶店があるんだ。そこに行こう。駅からすぐだから」
水族館へ向かうのとは別の方向にある出口から二人は外に出た。そこから三分、有理の先導で歩き、二人はこじんまりとした喫茶店に入店した。
「いらっしゃいませ」
店内には大型の本棚が並んでいた。ミナははじめ、古本屋かと思ったが、よく見ると、本棚の合間に、テーブルが置いてあった。店の一角がカウンターになっており、白いシャツに臙脂色のエプロンをした初老の男性と、同じ色のエプロンを身につけ中年の女性がいた。
「ああ、佐久間さん」
初老の男性は、有理の姿を認めたとたん、顔をほころばせた。
「来ていただけたんですね」
「ええ。いつか伺うと、約束しましたから」
「覚えていてくださったんですね。それで、今日はどのようなご用件で」
「いえ、普通に食事をと思いまして」
「ああ、それはありがとうございます。どうぞ、お好きな席に」
カウンターからほど近い、四人掛けのテーブルに二人は腰を下ろした。二人の他には、コーヒーを楽しむ客が二組と、窓際でサンドイッチを頬張っているサラリーマンが一人、席につかず本を見ている客が二、三人いるようだった。小さな店の割には繁盛していると言えるのではないだろうか。
女性店員から受け取ったメニューを見て、「本日のパスタランチ」を注文した。
「知り合いのお店?」
初老の店員がカウンターの奥にあるキッチンの方へ向かったのを確認してから、ミナは小声で訊いた。
「元お客さん」
「人生相談の?」
「そう」
「どんな?」
「守秘義務の範囲内で答えると、このお店を持つことの背中を押してあげた感じ」
「ふーん」
キッチンでテキパキと動き回る男性を見ながら、ミナは、あんなにしっかりしている人でも、悪魔にすがりたくなることがあったのかと思った。もちろんミナは天使なので、人間の弱さについては十分に理解しているつもりだ。心の強さ弱さは、見た目では決して分からない。それでも男性が先ほど浮かべていた穏やかな表情は、迷いに囚われていた過去があったことを全く感じさせなかった。きっと有理の人生相談が、うまく男性を救ったのだろう。
有理はこれまで何人の相談に乗ってきて、何人の人生を好転させたのだろうか。この男性のように。ミナはこっそりと称賛の眼差しを、目の前の悪魔に送った。
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