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◆
五月中旬。
「どうしたの、ミオ。今日はずいぶんと眠たそうにしているのね」
シルクのように上品で丁寧な言葉遣いに、私は机に伏せていた顔をあげた。汗でくっついた腕と額をべりべりはがすと、おもむろにまぶたを開ける。
「アヤメちゃん、いま何時?」
「十二時。植松先生が呆れてたわよ、テストで後悔しても知らんぞって。ふふふっ、そんなことより額が真っ赤よ?」
アヤメちゃんはこちらへ手を伸ばした。細くて、綺麗な五指が私の前髪をくぐって肌に触れると、ひんやりとした心地よさが寝起きの私を覚ましていく。
「気持ちいい」
「大丈夫? 熱が出てるんじゃないでしょうね」
「いまはアヤメにお熱なのだよ」
「くだらないこと言ってないで、ご飯にしましょ」
アヤメちゃんは手を引っ込めて、後ろの席へ自分の弁当を取りにもどる。私は額に残った冷気に手を重ねたあとで、鞄から弁当を取り出した。スクールバッグの中からランチバッグ。マトリョシカみたい。
「二人だけなのは寂しいわね」
弁当箱のふたを外しているとアヤメちゃんが席の反対側へすわる。その空席は私たち四人グループの一人のものだ。
「風邪か、インフルかまだ分からないんだよね」
「ええ。ラインでも既読がつかないし、どうしたのかしらね」
机に置かれたスマホには、私たちのチャットルームが表示されている。SHL前に送信した『お大事に』と三限目途中の『風邪だった? インフル?』というメッセージがあるだけで、返事はまだきていない。
「お泊まり会でもしてたんじゃない? 一人が風邪引いてて、うつったとか」
「平日よ? 次の日に学校があるのに、お泊まり会なんて。しかも二人だけで」
「妬けるねぇ」
「ため息が出るわよ」
アヤメちゃんは色とりどりな弁当に入った焼き鮭から身をすくって口へ運んだ。まくまくと、いつもより咀嚼が早いのは不機嫌な証拠。薄い唇が引き結ばれ、頬を膨らませている様はかわいらしくて、ほっこりする。
「ミオは昨日、夜更かししたの?」
「どうして?」
「朝から居眠りをする背中が、ずっと気になって仕方なかったのよ」
「気になってたって、それは本当?」
「嘘をつく必要ある? この場面で」
思わず訊き返した私にアヤメちゃんは小さく肩をすくめた。こんな感じに、私のマイペースにアヤメちゃんが突っ込むことがままある。
「最近、悪夢を見るんだよ」
私は冷凍唐揚げをほおばりながら、重たい頭をかいた。
「悪夢?」
「内容は、まぁ滅茶苦茶なんだけどさ」
にんにくの匂いで食欲は湧いてくる。だけど、睡眠欲というやつは食事中にも関わらず居座っていて、出て行ってくれる気がしない。あとでコーヒー買おうかな。紙パックの、365ml入り。
「それは困ったわね」
アヤメちゃんは肩までの髪を揺らして、小首をかしげた。憂いに染まった瞳、顔の角度、いったん箸を置いてから思考をめぐらせる行儀の良さ。それは一輪挿しの花のように完璧な姿勢だった。できることならイーゼルを立てて今の彼女を絵に残したい。なんて、鉛筆は2Bまでしか握ったことがないんだけどね。
「とりあえず、今日は放課後になったらすぐに帰ってね」
こちらの気持ちを知らずに、アヤメちゃんは人差し指を立てて言った。
「帰ったらすぐにお風呂を沸かして入るの。普段より長めに入るといいわ、歌でも歌いながらね。そうしたらご飯をゆっくり食べて、あとの時間を好きに過ごすのよ。歯を磨く前に、あったかいミルクを飲むのもいいわ。よく眠れるから」
中指、薬指、小指を順次伸ばして、悪夢を見ないための過ごし方を教えてくれる。真面目で、とっても優しい子なんだ。
「あはは。ありがとう、アヤメちゃん。私のために考えてくれて」
せめてと思って、私は精いっぱいの感謝を伝える。もう充分だよ。ありがた過ぎて、私は胸がつぶれてしまいそう。
「待って、最後に」
アヤメちゃんは親指を開いた。
「悪夢を見たときはね、”獏”にお願いするといいわ。そうしたら食べに来てくれるから」
バク?
聞き馴染みのない私は、その妖怪の名前をすぐ復唱していた。
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