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 クァールンの街は、『紫炎の鍛え手』の勢力圏の中でもレウム・ア・ルヴァーナに近く、いまだ戦果を免れていた。  街の中央広場には、『紫炎の鍛え手』配下の傭兵達の手で、ほぼ全市民が集められてる。  人々は集められた理由を何も知らされておらず、不安な顔をして、これから何が起こるのかとひそひそと囁き合っている。  広場には石造りのステージがあり、髭面の傭兵が腕を組んで立っている。  その隣には『紫炎の鍛え手』が造ったと思われる、赤銅と青銅を組み合わせた歪な枠に嵌め込まれた、大型の鏡が置かれていた。 「皆の者、静まれいッ!」  髭面の傭兵隊長が割れるような嗄れ声で叫ぶ。  ざわついていた聴衆が一瞬で沈黙する。  傭兵隊長は満足げに頷くと話を始める。 「なぜここに集められたか分からず、怯えているようだな。しかし案ずるな! 寛大なる『紫炎の鍛え手』閣下は、服従する者には決して危害を加えたりはせん。……だが刃向う者に対しては別だッ! 先日、閣下は愚かなるレジスタンス組織、劫罰修道会のアジトに軍勢を送り込み、これを撃滅した! 閣下の偉大なる勝利を皆で祝おうではないか!」  傭兵隊長は手が腫れんばかりの勢いで拍手する。  市民を囲む傭兵達も一瞬遅れて拍手を送る。人々は戸惑いながらもそれに従った。  拍手が収まると傭兵隊長は再び口を開く。 「さらに閣下は、聖女を騙って劫罰修道会を率いていた女を捕えた。これがその姿だ」  傭兵隊長が指を鳴らすと、大きな銀の十字架に磔にされたウォズマイラが鏡に映し出される。  群衆は一斉にどよめいた。  清純な純白の鎧を身に着けた、美しい金髪の乙女という姿は、人々が聖女という言葉で連想するイメージそのままだ。  鎖で拘束されたウォズマイラは、目を閉じてうなだれ、やつれた顔をしている。  苦しげな息遣いまでもが、鏡の中から聞こえてくる。 「竜胆(リンドウ)の月(十一月)二十三日の前天七の刻(午前七時)、『紫炎の鍛え手』閣下の宮殿において女の処刑を執行する! この街を含め、閣下が治める全ての地で、その瞬間が流される事になっている。竜胆の月二十三日……すなわち明後日の処刑の時刻には、諸君らは遅れずにここに集合するように。以上、解散!」    **********  朝靄にけぶるピラミッド状の影。  静寂に包まれた聖堂都市に鳴り響く美しい鐘の音。  それは一刻に一度だけ響く時を知らせる音色。  だが今は、ほろ苦き死の旋律とも呼べよう。  なぜなら次の音が鳴る瞬間が、『偽りの聖女』ウォズマイラの命が尽きる時だからだ。 「城壁の上には、弓兵が少なくとも二百人は配置されてるな。中に敵兵が何人ぐらいいるか分からんが、前に来た時のままなら千人から二千人ぐらいだろう。それと『異端』が少なく見ても六体」  それだけ確認すると、ダグボルトは小さな遠眼鏡(望遠鏡)を懐にしまう。  竜胆の月二十三日の前天六の刻。  ダグボルト達は、レウム・ア・ルヴァーナから僅か五十ギットの距離まで来ていた。  皆、城壁の敵兵に見つからないよう岩陰に身を潜めている。 「それに引き替え、わしらは八人。ウォズを救うにはさすがに人数が少なすぎるのう」  『黒獅子姫』はため息交じりに呟く。  生き残りの義勇兵は、さすがに無謀な救出計画に乗ってこようとはしなかった。  その上、負傷した者の手当てのために、何人かの修道士は置いてこなければならなかった。  結果として残ったのは、ダグボルトと『黒獅子姫』、そしてテュルパンと五人の厳つい修道士。  それがウォズマイラを救う決死隊のメンバーだ。 「時間があればガルダレア城塞に寄って、ザイアス達を説得して味方につけられたやもしれんがのう」 「いや、傭兵のあいつらが説得に応じてくれるとは思えないな。それこそ大金でも積まない限りは無理だろう」  『黒獅子姫』の甘い考えを吹き飛ばすように、ダグボルトはあっさりと言った。 「だからここは俺達だけで何とかするしかない。ミルダ、まず初めにお前が城門をこじ開けて、ひとりで突入して思い切り暴れ回ってくれ。傭兵共は数こそ多いが、魔女であるお前を殺す事は出来ない。『異端』が少し面倒だが、それもお前の力ならどうとでもなるだろう」 「そうじゃな。それに傭兵どもは、わしが魔女だと知ったら戦いを止めて逃げるやもしれん。あやつらは金で雇われとるだけじゃから、勝ち目のない戦いはせんじゃろう」 「確かにそうかも知れないな。とにかくミルダが傭兵共を攪乱している間に、テュルパン達は宮殿内部に侵入して、ウォズマイラを助けて脱出する。宮殿では『紫炎の鍛え手』が待ち構えているだろうが、それは俺が相手をする。ミルダは傭兵共の相手が終わったら俺を手伝ってくれ。作戦と呼べる程のものじゃないが、これでどうだ?」 「うむうむ。わしはそれで良いぞ」  『黒獅子姫』はあっさりと承諾する。  だがテュルパンは、何やら顔を強張らせ、ずっと塞ぎ込んでいる。 「どうした? 何か問題でもあるのか?」 「いや、言いづらいんだけど、密偵の報告によると少々まずい事になっててね……」  ごくりと唾を飲み込むとテュルパンは話を続ける。 「『紫炎の鍛え手』は、自分の瞳を通してウォズの処刑の映像を、多くの都市に配信する気みたいでね。その上、『碧糸の織り手』と休戦協定を結んだみたいなんだ。それで今日、『碧糸の織り手』はレウム・ア・ルヴァーナまで足を運んで、『紫炎の鍛え手』と一緒に処刑を鑑賞するらしい。聖女は二人にとって憎むべき共通の敵だからね……」  衝撃の展開に全員が言葉を失う。  しばらくして、やっとの思いで『黒獅子姫』が口を開く 「むむう。さっきの作戦のままじゃと、ダグは二人の魔女を同時に相手にする事になるのう。作戦を始めから考え直さんと……」 「いや、変更はしない。このままでいく」  ダグボルトは躊躇う事無くきっぱりと言った。 「ダグ!」 「お前が傭兵共を少し早めに片付けて、こっちに合流してくれれば問題ない。それなら二対二になるからな」 「じゃが、わしが応援に駆け付けるまで持ちこたえられんじゃろ? 相手は二人、それも魔女なのじゃぞ!」 「お前が来るまでは生き残る事に徹する。けっして無理はしない。だから俺を信じてくれ」  ダグボルトの緋色の瞳は、決意の炎で燃えるように輝いている。  こういう時にはどんな説得も受け付けないと、『黒獅子姫』は今までの経験から学んでいた。 「…………分かったのじゃ」  しばらくして『黒獅子姫』は言った。そしてすぐにこう付け加える。 「じゃが絶対に死なんと約束するのじゃ。どんな深手を負っても、命さえあればウォズに癒して貰えるんじゃからな」 「ああ、約束する」  ダグボルトは静かに、そして毅然とした態度で答えた。  『黒獅子姫』はそれで納得したのか、承諾の合図として彼の右腕を軽く叩く。  すると右腕を構成する黒蟻の群れがざわめいた。  『自分達がこの男に無茶をさせないようにする』とでも言わんばかりに。  ダグボルトは、フルフェイスヘルムの中で思わず苦笑いを浮かべた。  だがすぐに顔を引き締める。 「もう時間が無い。作戦を決行するぞ!」    **********  二頭立ての純白の屋根付き馬車が、レウム・ア・ルヴァーナの瓦礫の多い大通りを難渋しながら進んでいた。  白馬に跨る四騎士が馬車を守るように並走する。いずれもフルフェイスヘルムを被っていて顔は分からない。  スプリングの効いた座り心地のいい座席には、二人の女が向かい合って腰掛けていた。  一人はブルネットの髪の侍女。顔には装飾の施された仮面を嵌めている。  そしてもう一人は、豪奢な青いドレスに身を包んだ細身の貴婦人――『偽りの魔女』、『碧糸の織り手』だ。こちらはベールで顔を隠している。 「いかにも『紫炎の鍛え手』好みの薄汚い街ね。彼女(あれ)は自分が醜いからって、身の回りから美しいものを全て遠ざけているのよ。笑ってしまうわよねえ」  『碧糸の織り手』は馬車の窓から街の様子を眺め、ベールの下の口元に嘲るような笑みを浮かべている。 「それも仕方ないのでございましょう。秀でた美意識を持ち、かつ自らが美を体現しているような者など、この世には陛下しかおりません。醜悪な『紫炎の鍛え手』が美麗な陛下を妬んで戦いを仕掛けてくるのも、当然と言えば当然でございましょう」  侍女は媚びるような口調で、聞いている者が恥ずかしくなるような美辞麗句を次々と並べ立てる。『碧糸の織り手』の宮殿では、このようなおべっか使い達が競うかのように阿諛追従する光景が、日常的に繰り広げられているのだ。 「ちょっと馬車を止めて頂戴」  不意に『碧糸の織り手』が言った。  すぐに覆面をした御者が馬車を止める。  『碧糸の織り手』は窓から顔を出し、沿道に立っているあばた顔で無精髭を生やした、太鼓腹の中年傭兵を指差した。 「あなた、顔も身体も吐き気がするくらい醜悪ね。醜い人間には醜いなりに使い道があるから、私は下僕に顔を隠して生活する事を義務付けているわ。だけど醜さにも限度と言うものがあるのよねえ。あなたみたいな歩く生塵みたいな存在は、この美しい世界にとって有害なのよ」  いきなり激烈な誹謗中傷を受けて、太鼓腹の傭兵はぽかんとしている。  周りの傭兵も何事かと遠巻きに様子を見ている。 「だからあなたには、特別に素敵な仮面をプレゼントしてあげるわ」  『碧糸の織り手』の指先から、半透明の青白い糸が噴き出した。寄り集まった糸は、瞬く間に太鼓腹の傭兵の顔を覆い尽くす。  傭兵は息が出来ずふらふらと歩いた後、瓦礫に躓いて転倒した。  するとガラスが割れるような音と共に、糸に包まれた傭兵の頭は、地面にぶつかった衝撃で粉々に砕ける。頭を失った身体はピクピクと痙攣し、首の断面から鮮血が噴き出す。 「うふふ。私の糸は触れた物をすべて凍らせてしまうのよ。おかげで歩く生塵がただの生塵になったわね。有害物質をこの世から排除出来て、少しだけ胸の不快感がとれたわ」  だが『碧糸の織り手』は周囲を見渡して、さらにこう続ける。 「あら? 他にも生きるに値しない醜悪な人間がたくさんいるわね。こうなったら全員死んでもらおうかしら?」  『碧糸の織り手』が指先を向けると、馬車の周りにいた傭兵達は一目散に逃げ出した。  彼らはいやおうなしに理解する。  『紫炎の鍛え手』は決して慈悲深い雇い主とは言えないが、それでもこの狂える魔女よりは多少はましだという事を。  『碧糸の織り手』が窓を閉めると、再び馬車が進みだした。彼女は上機嫌だったが、侍女は顔を曇らせている。 「よろしかったのですか? あのような悍ましい醜男でも、一応は『紫炎の鍛え手』の兵士。勝手に殺しては休戦協定に影響が……」 「あらあら。そんな心配をするなんて、あなたは本当にお莫迦さんねえ。休戦協定なんて一時的なものよ。共通の敵である聖女さえ死ねば、またすぐにあいつと争う事になるわ。むしろ今のうちに戦力を削いでおきたいから、もっと殺しておいた方がいいかも知れないわねえ」  『碧糸の織り手』は無邪気な口調であっさりと言い切った。  宮殿地下にある、剥き出しの金属板で覆われた円形の鍛冶場(ダグボルトが『紫炎の鍛え手』の謁見を受けた場所)には、磔にされたウォズマイラの姿があった。彼女の足元には火刑用の薪が積み上げられている。  近くには、顔に黒い覆面をつけた上半身裸で筋肉質の処刑人が、火のついた松明を手にして立っていた。他に人間の姿は無い。 「どうだ、惨めな姿で人生の最後を迎える気分は?」  ウォズマイラの眼前で、片膝をついて座る『紫炎の鍛え手』がノイズ交じりの声で尋ねる。  何日もの間、ウォズマイラは磔のままで水も食事もほとんど与えられず、肉体的には限界にあった。   だがそれでも決して弱みは見せようとせず、残された命を振り絞るようにこう答える。 「人々の希望の礎として散るなら本望だ……。何の悔いも無い……」 「フン。まだくだらぬ聖女ごっこを続けるつもりか? ご苦労な事だ。だがその努力も徒労に終わる。お前が無残に焼き殺される姿は、私の眼を通じて勢力圏下の全ての街で放映されるのだ。それを見た人間どもは反抗する気力を完全に失い、私に盲従するだけの無力な家畜となるであろう」 「人間の力を、絶望の底から這い上がる力を甘く見るな……。たとえ私が死んでも、人々の希望は決して絶えたりはしない……」 「それこそ儚き望みというものだな。どれだけ高尚な言葉をのたまおうとも、お前の命はあと残り僅かだ。せいぜい甘い夢で見ているがいい」  そうしてウォズマイラとの話を打ち切ると、『紫炎の鍛え手』は今度は小声で呟く。 「……それにしても『碧糸の織り手』め、遅過ぎる。もうすぐ処刑が始まる時間だというのに、まだ姿を見せぬのか」  すると『紫炎の鍛え手』の巨大な肩の上に黒い影が揺らめく。  『影の手』だ。  負傷した左腕を三角巾で吊っている。  衰弱して虚ろな目をしているウォズマイラは、彼の存在に気づかない。 「『碧糸の織り手』ならば、先程街に到着したようです。もう間もなくやって来るでしょう。ところで『黒獅子姫』がここに現れるであろう事は、『碧糸の織り手』には伝えてあるのですか?」 「いや、伝えていない。もし先にそれを知ってしまえば、臆病者のあやつは絶対に来ないだろうからな。腹立たしい事だが、『真なる魔女』である『黒獅子姫』を倒すためには、あやつのような者の力でも借りねばならぬのだ」  『紫炎の鍛え手』の呟き声は、苛立ちのためにノイズが一層ひどくなる。 「ですが『黒獅子姫』だけではなく、パートナーのダグボルトにもご用心あれ。あの男をただの人間だと甘く見ていると痛い目に会いますぞ」 「そうだな。お前の左腕を、そのような萎え腕にした相手でもあるしな。その腕、おそらく二度と使い物にはなるまい。いっその事、あの聖女にでも癒して貰ったらどうだ?」  『影の手』は一瞬、言葉に詰まる。  感情を殺した冷静な目をしているが、その一瞬だけ左腕を焼いたダグボルトへの凄まじい殺気が宿っていた。 「……御冗談を。拙者は主君への報告がある故、しばらくこの地を離れます。『黒獅子姫』を捕えたら連絡を下さい。それでは御免」  『紫炎の鍛え手』の肩から、黒い影が跡形も無く消え失せる。  まるで始めから存在していなかったかのように。  それとちょうどタイミングを合わせたかのように、鍛冶場の『紫炎の鍛え手』用の巨大な門扉が開き、『碧糸の織り手』の馬車が現れる。 「面白いものが見れるっていうから、わざわざ来てあげたわよ。その娘が聖女?」  護衛の騎士の手を借りて、馬車から優雅に降りた『碧糸の織り手』は、ウォズマイラの顔を一瞥して言った。 「なかなかの美貌ね。八十五点といったところかしら。聖女じゃなければ私のコレクションに加えてあげたのに残念だわ」  『紫炎の鍛え手』は自分の隣に、青銅製の見学席を用意していた。  しかし『碧糸の織り手』は、冷たく固い座席を一瞥しただけで鼻で笑う。  代わりに侍女に馬車の荷台から、折り畳み式の座り心地の良さそうな椅子を取り出させて、そこに腰掛けた。 「ずいぶん遅かったな、『碧糸の織り手』。美に固執しているくせに、時間を守るという美学は持っておらぬらしいな。まあ、自分に甘く他人に厳しいお前らしいとも言えるがな」 「あら、それが客人を遇する態度なの? 相変わらず醜い上に礼儀を知らない野蛮な女ねえ。早く死ねばいいのに」  二人の魔女は、殺気に満ちた挨拶を交わす。  いきなり殺し合いが始まるのではないかと、周りの人間は顔面蒼白になる。 「何でもいいからさっさと処刑を始めなさいよ。あなたの街は塵溜めみたいに臭いし、汚いし、不愉快だから早く帰りたいのよ」 「この処刑は、我が眼を通して全ての市民に見せねばならぬのだ。勝手に時間を早めては、それが台無しになってしまう。いいから口を閉じて待て」 (それに『黒獅子姫』とその仲間が、必ず助けに現れるだろうからな。聖女の処刑など、あくまでも前座に過ぎぬ……)  無論、『紫炎の鍛え手』はそこまで説明するつもりは無い。  『碧糸の織り手』は苛立ちを隠しきれない様子だったが、少なくとも共通の敵を葬り去るまでは争う気はないようだ。  二人は互いへの憎しみを押し殺し、ウォズマイラの処刑の時間が訪れるのを、忍耐強くじっと待っていた。    ********** 「おい、寝るなよ」  西の城壁の狭間胸壁で、うつらうつしている赤毛の弓兵の頭を、隣の白髪交じりの弓兵が軽く小突いた。 「うっせえなあ! 昨日の晩から休憩無しで見張ってるんだぜ。眠くもなるっての。大体、劫罰修道会の残党どもは本当に聖女を助けに来んのかよ?」  声を荒げる赤毛の弓兵。  白髪交じりの弓兵は慌ててその口を塞ぐ。見張りの間、私語は禁じられているからだ。  しかし少し離れた場所にいる他の弓兵達は、怠そうな顔をしていて二人に注意を払おうとはしない。  そこで白髪交じりの弓兵は声を潜めて答える。 「……ああ。『紫炎の鍛え手』閣下はそうおっしゃってる。それに劫罰修道会のアジトを襲撃した連中によると、奴らの中にとびきりやばいのが二人もいるらしいぜ。襲撃の後、そいつらの悪夢にうなされて傭兵団を脱走した奴もいるってさ」 「本当かよ!? 一体どんな奴らなんだ?」 「一人はスレッジハンマー使いの隻眼の騎士。そいつは緋色の目をした一つ目巨人(キュクロプス)みてえな凄え大男で、一人で俺達の仲間を三十人以上も殺したらしい。もう一人は黒いライオンに乗った女。そっちはあの莫迦でかい『異端』どもを、玩具みてえに薙ぎ倒したらしいぜ。全て本当だとすればおっかねえ話だぜ……」 「へえ、黒いライオンに乗った女ねえ。それってあんな感じか?」 「そうそう、ちょうどああいう感じの……」  弓兵の濁った目に映る黒き影。  それは『黒獅子姫』を乗せた黒き獅子が、飛ぶような速さでこちらへと向かって来る姿だった。  恐怖混じりの声で彼は叫んでいた。 「て、敵襲だああッ!!」  流星群の如く降り注ぐ矢の一群。  それは青空をベールのように黒く覆い、行く手を塞ぐ壁となる。  だが疾風となった黒き獅子を止める事など何人にも不可能。  『黒獅子姫』は鋼鉄製の門扉をX字に引き裂き、易々とレウム・ア・ルヴァーナ内部に突入する。  しかし彼女の眼前には、プレートメイルに身を固め、四ギットの長さのパイク(長槍)を手にした重装歩兵の一団が立ち塞がっていた。  その数、百人は下らないだろう。  城門前広場で方陣(兵が正方形に並んだ陣形)を敷いて、『黒獅子姫』を待ち構えている。  しかも四方にパイクを構え、全方位からの攻撃に対応できる形となっている。  彼らが手にしているパイクの槍先は、魔力の光で淡く輝いている。『黒獅子姫』は瞬時に『紫炎の鍛え手』が鍛えた武器だと見抜く。 「さすがは『紫炎の鍛え手』。備えがよいのう。確かに魔力を帯びた武器なら、ただの人間でもわしを倒せるじゃろうからな。じゃがいくら武器が立派でも、使い手の方はどうかのう?」  『黒獅子姫』の華奢な漆黒の肢体が、獅子の身体を離れ宙を舞う。  重装歩兵達はすぐに反応して、パイクの槍先を頭上に向ける。よく訓練された動きだ。  『黒獅子姫』が手にしていた漆黒のバスタードソードが、瞬時に八ギット程の長いロッド(棒術用の戦杖)に形を変える。  重装歩兵達は目を丸くした。  今や彼らの武器より、彼女の武器の方が長い。  上空への槍衾のさらに上から、長いロッドが地面に叩きつけられる。  方陣の中央を崩すと、穿たれた空隙に優雅に着地する『黒獅子姫』。  草でも刈るように周囲の重装歩兵を軽々と薙いでいく。  方陣が全方位に対応できる陣形とは言っても、さすがに内部からの攻撃には対応できない。吹き飛ばされた重装歩兵の身体が、城壁や地面に叩きつけられ、瓦礫と砂埃が激しく舞い散る。 「おぬしらがいくら小細工を弄したところで無駄じゃぞ! 魔女であるわしにはそんな物、一切通用しないのじゃ!」  『黒獅子姫』はロッドの先端で石畳を打ち鳴らし、高らかに叫んだ。  倒された重装歩兵達は呆然としている。  『紫炎の鍛え手』から鍛えた武器を与えられたとはいえ、敵が魔女だとは知らされていなかったのだろう。 「おぬしらに『紫炎の鍛え手』への忠誠なんて無かろう? 金のために命まで捨てる事はないぞ。さっさと逃げるが良いのじゃ」  重装歩兵達は顔を見合わせている。彼女の言葉に従うかどうか迷っているようだ。  チリン。  戦場には場違いなベルの音色。  大地に響く足音を伴って、一体の『赤銅の異端』が砂埃を引き裂くように、真っ直ぐこちらに走って来る。『異端』と『黒獅子姫』の間にいた重装歩兵は、次々と赤い巨体に跳ね飛ばされる。  黒き獅子が、瞬時に漆黒のラウンドシールドへと姿を変える。  『赤銅の異端』の助走をつけた右拳を正面から受け止める『黒獅子姫』。  衝撃を完全に受け止めきった小柄な身体は、砂埃と共に五ギット程後退させられる。  だが彼女は無傷のままだ。 「これで終わりかの? なら、次はこっちから行くのじゃ」  『黒獅子姫』の漆黒のロッドが、今度は長いランス(馬上槍)に形を変える。彼女が最も得意とする武器だ。  だが攻撃に移ろうとする瞬間、一本の矢が右肩に刺さる。  痛みで思わずランスを取り落とす『黒獅子姫』。  矢を引き抜くと、鏃が魔力の淡い光を放つ。 「おぬしは!?」  『黒獅子姫』は我が目を疑う。  『赤銅の異端』の左肩には人の姿があった――ガルダレア要塞にいるはずのエリッサの姿が。 「どうしておぬしがここにおるんじゃ?」  『黒獅子姫』は頭上のエリッサに問いかける。  だがエリッサは何も答えず、盾付きクロスボウのレバーを引いて次の矢を装填する。  彼女が腰のベルを鳴らすと『赤銅の異端』が動く。  『黒獅子姫』は攻撃に備えてシールドを構えるが、『異端』は後退していった。どうやら距離を置いて攻める気らしい。  『黒獅子姫』は肩の痛みをこらえ、ランスを拾うと、ラウンドシールドを再び黒き獅子に変形させて背中に飛び乗った。 「待つのじゃ、エリッサ!!」  瓦礫の多い通りを強引に抜け、障害物となる家屋を破壊しながら逃げる『赤銅の異端』。  『黒獅子姫』はすぐに後を追う。  二人の進行方向にいた傭兵達は、何もできないまま弾き飛ばされていく。  瞬く間に市内は大混乱に陥った。  『赤銅の異端』の肩の上からエリッサは次々と矢を放つ。  『黒獅子姫』はランスで矢を弾き飛ばしながら、『赤銅の異端』への距離を着実に縮める。二人の距離は僅か三ギットの所まで来ていた。  だが不意に『赤銅の異端』は走る方向を直角に転換する。  黒き獅子もそれについていこうとするが、勢いがついているためバランスを崩し転倒してしまう。  獅子の身体から投げ出される『黒獅子姫』。  それでも咄嗟に身体を丸めて、何とか受け身を取る。  だが彼女が倒れた場所の周囲には火薬樽が置かれていた。 「今だよ、ザイアス!!」  エリッサが叫ぶや否や火薬樽が爆破される。  爆発で石畳の地面が円形に崩落した。ぽっかりと黒い闇が口を開けている。 「落とし穴じゃとッ!?」  『黒獅子姫』は己の迂闊さを呪う。  エリッサが逃げていたのは、この場所に『黒獅子姫』を誘い込むためだったのだ。  黒き獅子は『黒獅子姫』を助けようと駆け出すが間に合わず、共に奈落の底へと落ちて行った。    **********  レウム・ア・ルヴァーナは混乱の極みにあった。  特に『黒獅子姫』が押し入った西門の城門前広場は酷い状況だ。  『異端』の体当たりで骨が砕け、苦痛の呻きを上げる者、負傷した仲間を担いで逃げようとしている者。そして経験の浅い若い傭兵の中には、うずくまって泣きじゃくっている者さえいる。  狭間胸壁の弓兵は、『黒獅子姫』を恐れてすでに逃げ去っていた。  ダグボルト達は、馬に乗ったまま彼らの間を駆け抜ける。  テュルパンと修道士達は、修道服を脱いで傭兵と同じような革鎧とシミターを身に着け、その上に鼠色のフード付マントを纏って顔を隠していた。  一方、ダグボルトは鎧の上に青いサーコートを羽織っているため若干目立つが、それでも止める者は誰もいない。 「彼女は大丈夫かねえ」  テュルパンは心配げに言った。 「あいつなら問題ない。たとえ『異端』が何体いたとしてもやられはしないはずだ」  幸か不幸か、ダグボルトはエリッサの存在には気づいていなかった。  ダグボルト達は宮殿前を守る儀仗兵と『赤銅の異端』を倒し、馬に乗ったまま内部に踏み込む。  一度中に入った事のあるダグボルトが先導し、他の者が後に続く。宮殿内に守備兵の気配はない。  皆、外の守りに駆り出されているようだ。  しかし残された時間はあと僅かだ。  一同は焦る気持ちを押さえ、がらんとした宮殿内に蹄の音を響かせながら、迷路のような廊下を先へ先へと進んでいった。    ********** 「良くやったのう。おぬしのおかげで痛い思いをせんで済んだのじゃ」  『黒獅子姫』は黒き獅子の背中を撫でて呟く。  落ちていく『黒獅子姫』を黒き獅子が空中で背に乗せ、柔らかい身体で着地の衝撃を殺していたのだ。 「それにしてもここはどこじゃ?」  そこは縦横十五ギット四方の鋼鉄製の舞台だった。  舞台の周囲は魔力を帯びた金網で囲われている。天井の金網には落下した者を閉じこめる、ばね仕掛けの蓋がついている。  その上からは微かに陽光が差し込んでいる。  地上までは二、三十ギットはありそうだ。  周囲は陽光が僅かに照らすだけで、ほぼ真っ暗で何も見えない。  だが舞台の床だけは、敷き詰められた蛍砂がほのかに光を放っている。 「まるで巨大な鼠取りじゃな……」 「そいつはひでえな、ミルダ。これはれっきとした決闘場だぜ」  背後からの声が『黒獅子姫』の呟きに答える。  ザイアスだ。  プレートメイルに身を固め、頭にはホーンヘルム(角兜)、ターゲットシールドとバトルアクスを手にしている。それら全てが赤銅製で、魔力の淡い輝きを放っている。『紫炎の鍛え手』が鍛えた物に違いない。その上から、いつもの灰色狼の毛皮のマントを羽織っている。 「俺と弟のグレイは闘技大会が大好きでな。『黒の災禍』の前は、よく二人でグリフォンズロックまで観戦しにいったもんさ。この決闘場は『紫炎の鍛え手』がそれを模して造ってくれたもんなんだぜ」  だが『黒獅子姫』は怪訝な眼差しでザイアスを見る。 「何でおぬしとエリッサがここにおるんじゃ? ガルダレア城塞を守るのが、おぬしらの仕事じゃったろ?」 「……実は俺とエリッサは傭兵稼業を引退する事にしたんだ。北狼傭兵団はシャッコにくれてやったよ」 「なぬ!? どうして急にそんな事になったんじゃ!?」  唖然とする『黒獅子姫』を見て、ザイアスは訝しげな顔をする。 「お前、ダグにエリッサの事を聞いてねえのか?」 「えっ? 何も聞いとらんが……」 「そうか……。まあいい。ちょっとした家庭の事情ってやつさ。けど今後の生活のために、最後のひと稼ぎをしておこうと思ってな。お前を生け捕りにすれば『紫炎の鍛え手』が大金をくれる事になってるんだ。そういう訳だから、痛い目を見る前におとなしく捕まってくれや」  ザイアスは、バトルアクスとターゲットシールドを構え戦闘態勢をとった。  『黒獅子姫』は深いため息をつく。 「ハァ。結局は金目当てなんじゃな。せめて最後くらいは、もっとマシな形で腕を生かせば良かったのにのう」 「そいつは無理だぜ、ミルダ。俺は骨の髄まで傭兵だからな。最後の最後までそいつは変わらねえよ」 「それなら仕方ないのう。じゃが、おぬしと遊んでいる時間は無いのじゃ。剣闘士ごっこなら一人でやるがよい」  『黒獅子姫』はザイアスを無視して、スピアを金網に突き刺した。  だが漆黒の槍先が強い力で弾き返される。金網には僅かに傷が残る程度だ。 「この金網は特に頑丈に造られてるみてえだから、そう簡単には壊せねえぜ。すぐに出て行きたいなら、天井の蓋を開けるしか方法はねえ。そのためにはこの鍵が必要だがな」  ザイアスは腰のベルトから小さな鍵を取り出す。  そしてすぐに口の中に放り込むと、ごくりと飲み込んだ。 「これで良し、と。ここから脱出したいなら、俺を倒すしかなくなったぜ。これで勝負してくれるよな?」 「……言っておくがわしは魔女じゃぞ。それでも戦う気かの?」  『黒獅子姫』は何とか戦わずに済むように、殺気の籠った視線でザイアスを睨み付けて、脅しをかける。だがザイアスは軽く肩をすくめただけだ。 「それなら事前に『紫炎の鍛え手』から聞いてるぜ。エリッサの話だと、ガルダレア城塞攻略の時には大活躍したみてえだが、魔女ならそれも当然だよな」 「知っとる上でわしと戦うのか? 勝ち目の無い戦いに挑むなんて傭兵らしくないのじゃ」 「勝算が無いならこんな仕事引き受けねえさ。やるからには勝つ。そして大金を手にして、この仕事からおさらばさせてもらうぜ」  ザイアスは譲らない。  とうとう『黒獅子姫』は説得を諦めた。 「分かったのじゃ。ちょいと痛いじゃろうが、これで鍵を無理やり吐き出させてやるのじゃ」  『黒獅子姫』が手にしていたスピアが、メイス(槌矛)に姿を変える。  同時に、傍らに座る黒き獅子がラウンドシールドに姿を変えた。 「さあ勝負だッ!!」  ザイアスが敢然と飛び掛かる。  筋肉質だが素早い身のこなし。  フェイントを織り交ぜた攻撃で『黒獅子姫』を翻弄しようとする。  しかし『黒獅子姫』はそれを上回る速度と力で反撃する。  自分の盾をザイアスの盾にぶつけ、強引にガードをこじ開けさせると、無防備な腹にメイスを叩き込む。その衝撃で、鍵が口の中まで逆流したため、慌ててザイアスはもう一度呑み込んだ。 「確かにおぬしは強いが、それはあくまでも人間としての強さじゃ。魔女であるわしには、どうあがいても敵わんのじゃ!」  だが不意に『黒獅子姫』の身体に鋭い痛みが走る。  背後の暗がりから放たれた魔力を帯びた矢が、彼女の腰に刺さっていた。 「エリッサじゃな! あやつがおったのを忘れとったわ。決闘場まで用意して、正々堂々と勝負すると思わせておきながら、実は二対一だなんてセコいやり方じゃのう」 「俺らは剣闘士じゃなくて傭兵だからな。勝つためには手段なんぞ選ばねえ。魔女相手となれば特にな。俺単独じゃお前に勝てなくても、エリッサとのコンビネーションがあれば話は別だぜ」 「ふむう。さすがに年季が入っとるだけあって老獪じゃな。じゃが無駄な努力じゃぞ。人間の常識にとらわれとる限り、魔女には未来永劫勝てんのじゃ」  『黒獅子姫』は漆黒のラウンドシールドを金網に投げつけた。  するとシールドは、まるで液体のように金網をすり抜けた。地面に落ちた時には黒き獅子に姿を変えている。 「エリッサを見つけて、あやつの持っとる武器を破壊するのじゃ」  『黒獅子姫』が命じると、黒き獅子は暗闇の中に姿を消した。 「わしの武器と防具は全て、魔力で生み出した黒蟻が集まって出来た物じゃ。じゃから金網を抜けるなんて容易い事なんじゃよ。黒蟻は魔力を探知出来るから、エリッサが持つ矢の魔力を辿って、すぐに見つけだすじゃろう」  暗闇のせいで周囲を見通す事は出来ないが、決闘場の外側は半径百ギットの円形の部屋となっている。  その部屋の外周部にエリッサはいた。  蛍砂で照らされた決闘場にいる者は、狙撃の格好の標的となるが、逆に決闘場からは、闇に包まれた外周部を見る事が出来ない。金網の外にいる者が、圧倒的に有利となるように計算された構造の部屋なのだ。  エリッサは外周部を走り回り、矢を一発撃つごとに狙撃に有利な場所に移動する。  ブーツの底には鹿皮が張られていて、足音がほとんどしない。手に持つクロスボウは狙撃重視のために盾を外し、代わりに小さな遠眼鏡をつけている。  遠眼鏡を覗き込むと、激しい戦いを繰り広げるザイアスと『黒獅子姫』の姿が映る。  ザイアスを誤射せずに『黒獅子姫』だけを狙うのは至難の業だ。  しかも『黒獅子姫』は風を切る音に反応して、幾度となく矢をかわしていた。魔女だからこそ可能な芸当だ。  それでもエリッサは執拗に撃ち続け、『黒獅子姫』の身体に五本の矢を命中させていた。  彼女の動きは少しずつ鈍くなっているように見える。行動不能にさせるまでもう一息だ。 「グルルルルルルルルルルルル!!」  不意に近くから獣の鳴き声がして、エリッサは遠眼鏡から目を離す。  暗闇の中に何かの気配がある。  目を凝らすと、どこから現れたのか、僅か四ギット程離れた場所に黒き獅子がいる。 (い、いつの間にッ!?)  エリッサは悲鳴を押し殺すと、黒き獅子に向けて矢を放つ。  だが矢は、蟻で構成された獅子の身体をすり抜けてしまう。  闇の中で獅子の瞳が煌々と赤く輝く。  エリッサは蛇に睨まれた蛙のように固まる。  しかし黒き獅子の身体が急に形を失う。  かと思えばまた獅子の形に戻り、ふらふらと歩き出そうとするが、足を滑らせてみっともなく転倒してしまう。まるで酔っぱらっているかのようだ。  部屋の外周部には、モラヴィア大陸南部にのみ生息する、薫陶花の蜜が撒かれていた。  砂糖の千倍の糖度を持ち、『黒の災禍』の前は王侯貴族の食卓に上がる高級品であった。しかし強い匂いを放つという難点もある。  エリッサも甘ったるい匂いに吐き気を覚え、鼻を塞ぐようにスカーフを巻いているほどだ。  黒き獅子の身体を構成する群団(クラスター)の指令蟻は、『黒獅子姫』の指示を実行するよう末端蟻に必死に呼び掛けていた。しかし末端蟻は、蜜の匂いにつられて集中力を削がれてしまっている。 (何で『紫炎の鍛え手』様が、戦いの前にこんな物を撒くように指示したのかと思ったけど、この状況を想定してたんだね。あれじゃライオンというより、マタタビの匂いを嗅いだ猫みたいだねえ)  エリッサは思わず口元に笑みを浮かべる。  だが気持ちを切り替え、再び狙撃に集中した。 (あやつらは何をモタモタしとるんじゃ!? エリッサの攻撃が止まらんではないか!)  矢の痛みに耐えるにのも、そろそろ限界が来ていた。  動揺する『黒獅子姫』は、ザイアスの回し蹴りをかわし切れない。軽い身体が勢いよく吹き飛ばされ、後頭部が金網に触れる。  全身から力が抜ける感覚。  慌てて『黒獅子姫』は金網から頭を離した。 「そうそう、言い忘れてたけどな。それは人間にはただの金網だが、魔女が身体を接触させると、魔力を吸い取られる仕掛けになってるみたいだぜ」  そう言ってザイアスはニヤリと笑う。  『黒獅子姫』は北の城に幽閉されていた時の事を思い出す。 (そういえば、あそこでわしを拘束していた鎖を造ったのは『紫炎の鍛え手』じゃったな。確かによく見ると、この金網もあれと同じ材質のようじゃ。とは言え、あれより遥かに頑丈そうじゃから、あの時みたいに簡単には壊せんじゃろうがな……) 「ごちゃごちゃ考えてる場合か? 今は戦闘中なんだぜ!!」  ザイアスは『黒獅子姫』に体当りし、彼女の身体を金網に押し付けた。魔力が急激に失われるのを感じる。  それでも『黒獅子姫』は、ザイアスの側頭部や脇腹に何度もメイスの柄を叩き込み、何とか身体を引き離す。  だが今度は彼女の左太ももに矢が刺さる。  痛みで危うく転倒しそうになるが何とかこらえる。もはや矢を引き抜く気力も無い。無数の矢が刺さったままの身体が痛々しい。 (まずいのう……。まだ『紫炎の鍛え手』達との戦いも控えとるのに、こんな戦いをしとったら体力も魔力も持たんぞ。『強制魔力転換』なら、すぐに金網を破壊できるかも知れんが……)  『強制魔力転換』――それは己の肉体を全て魔力へと変換する、魔女の奥義とも言える技。  『石動の皇(コロッサス)』戦や『翠樹の女王(イグドラシル)』戦では、この技が勝利に大きく貢献している。  しかし『黒獅子姫』はすぐに考えを却下する。 (……いいや、駄目じゃな。金網に触れるだけで魔力を吸い取られるんじゃ。金網を破壊した時に、肉体を再構成するだけの魔力が残らんかったら、元の姿に戻れなくなる危険性が高いのじゃ) 「ガハハハハハハハ! これ以上痛い思いをしたくねえなら、負けを認めて降伏した方がいいんじゃねえか、魔女さんよォ?」  高笑いを上げるザイアス。  その振動で、マントに吊るされた無数の頭蓋骨がぶつかり合い、心地良い音色を鳴らす。  もはや『黒獅子姫』は何も言い返せない。 (手詰まりじゃ……。まさかわしが敗れるのか……? こんな所で……?)  口の中にピリピリと苦い敗北の味が広がる。  久しく感じた事の無い絶望の感覚がそこにあった。  せめてダグボルトが近くにいてくれれば。  弱気になった『黒獅子姫』は、今は何よりもダグボルトの励ましが欲しかった。    ********** ――いいえ、あなたは負けません。  不意に『黒獅子姫』の心の中に、彼女と一体化した『石動の皇(コロッサス)』の声が響いた。  目の前の景色から色が消え失せ、ザイアスはぴくりとも動かない。  まるで時間が静止したかのような感覚。 ――と言うか、戦いしか取り柄の無い僕に勝った方なんですから、こんな所で負けられては困りますよ。 (じゃがどうすればよい? この状況を打開する方法が、わしには見つからんのじゃ) ――魔女の重大な欠点は、人間の力を侮ってしまうところにあります。   あなたにも、しばしばそういう言動が見受けられます。   でもそれは大きな誤りです。   現にあなたは、人間であるダグボルトからとても多くの事を学んだはずです。 (うーむ。確かにあやつは、人間の可能性というものを何度もわしに教えてくれたのう。北の城でわしを解放してくれた時からずっとじゃ) ――それなら同じように、他の人間からも多くを学べるはずです。   あなたはこの戦いで逆転できる方法を、すでにとある人間から学んでいるのですよ。   答えはあなたの記憶の中にあります。  『黒獅子姫』は記憶を辿り……そして見つけ出した!  この圧倒的に不利な状況を覆しうる戦い方を。  同時に止まっていた時が動き出す――。    ********** 「降伏なんてせんぞ、ザイアス。わしは絶対に負けん。『偽りの魔女』を生み出してしまった過ちを正し、平和な世界を取り戻すためにも、こんな所で旅を終わらせるわけにはいかんのじゃ!!」  『黒獅子姫』は高らかに宣告する。 (それに今のわしには、戦いの天才である『石動の皇(コロッサス)』がついとるからな)  『黒獅子姫』の胸に残る傷痕が、ひりひりと心地良く痛む。 「ハハッ。平和ねえ。そいつは傭兵にとって一番聞きたくねえ言葉だぜ」  茶化しながらもザイアスは、『黒獅子姫』の声が先程とは違う事に気づく。  ただの空元気とは違う、裏付けのある自信に満ちた声だ。  『黒獅子姫』が手にしていたメイスがぐにゃりと歪む。  メイスがある形に変わるのを見て、ザイアスは目を丸くする。遠くにいたエリッサも同様だ。  それは――漆黒の盾付きクロスボウ。 「まさか偉い魔女様がエリッサの……いや、人間の戦い方を真似するとはなァ!」  そう叫ぶとザイアスは激しく斬りかかる。  『黒獅子姫』は斬撃を盾で受け止め、クロスボウの引き金を引く。  至近距離のためザイアスは防ぐ事もできず、右肩にぶすりと漆黒の矢を受ける。ザイアスは痛みで、ふらふらと後退した。 「わしも元は人間じゃ。相手が誰であれ、学ぶべきものがあるなら、それを取り入れるのに何の抵抗も無いわい!」  背後から風を切る音。  『黒獅子姫』は際どい所で矢をかわすと、振り返りもせずに背後に矢を撃ち返す。  彼女のクロスボウはエリッサの物とは異なり、矢が自動装填されるのだ。  一瞬前まで自分がいた場所の壁に、矢が刺さるのを見てエリッサの背筋が凍りつく。 (ミルダの奴、矢の軌道を読んで瞬時にこっちの位置を特定したのかい。さすがは魔女だねえ。でも撃ちながら動き続けていれば絶対に当たりはしないよ!)  エリッサはすぐに冷静さを取り戻し、走りながら射撃を続行する。  『黒獅子姫』はザイアスの攻撃を盾で防ぎながら、隙あらば暗闇に潜むエリッサを狙って矢を放つ。  しかしエリッサからの攻撃が止む事は無い。  ザイアスもターゲットシールドで、しっかりと『黒獅子姫』の矢をガードしているため、戦闘はこう着状態に陥る。  だんだんと『黒獅子姫』の顔が、疲労と痛みのために苦しげな表情となる。  すでに外周部に五十本近く矢を打ち込んでいた。  引き金を引く指の感覚が無くなっているのを感じる。そろそろ体力の限界が来ていた。 「どうした? お前の攻撃、全然エリッサに当たってないみてえだぜ。さすがの魔女様でも、暗闇の中の敵を狙撃するのは無理なんじゃねえか?」  ザイアスはまた茶化すように言った。  だが『黒獅子姫』は、血の気の引いた顔をしながらも不敵な笑みを返す。 「確かにそうじゃな。じゃが明かりがあればどうかの?」 「はァ? お前、何を言って……」  ザイアスの声が急にしぼむ。  そして顔を引き攣らせて叫んだ。 「エリッサーーッ!! 早くそこから逃げろーーッ!!」  クロスボウの遠眼鏡を覗いていたエリッサは、ザイアスの叫びに反応して顔を上げる。  そして自分の周りが、明るく照らし出されているのに気づく。  外周部の壁に刺さっている無数の黒蟻の矢が、蟻酸の炎で燃えていた。  それはまるで松明のように辺りを照らす光源となっている。  エリッサの顔がさっと青ざめる。これでは決闘場から彼女の位置が丸見えだ。 (ミルダめ!! 矢を撃ちまくってたのは、これが狙いだったんだね!!)  エリッサは走りだす。  『黒獅子姫』に狙いをつけられないため。  そして身を隠せる暗がりに入るため――外周部は広いので、黒蟻の矢が刺さっている箇所の近くしか照らせず、残りは暗いままなのだ。  ザイアスもエリッサの逃走を助ける為、『黒獅子姫』に攻撃を仕掛ける。  『黒獅子姫』はあえてクロスボウに付いた盾で受けずに、左肘でバトルアクスの柄の部分を受け止める。  骨が折れる鈍い音。  それでも彼女は構わず、右手に持ったクロスボウを金網の外に向けて引き金を引く。  だがその一瞬の攻防の間に、エリッサは近くの暗がりに走り込んでいた。 (やった!! 逃げ切っ――)  風を切る音。  漆黒の矢が右目を貫き、神経を引き裂く凄まじい痛み。 「ぎゃああああああああああッ!!」  痛みに耐えかねてエリッサは絶叫した。  全身から力が抜け、地面に倒れ込む。 (偏差射撃……。初めから……あたしが暗がりに逃げ込む事まで……想定してたんだね……。しかも……走る速さまで計算した上で……あらかじめこの位置に狙いを定めていたとは……。さすがは魔女……完敗だよ……)  エリッサは敗北を認めながらも、心の中で『黒獅子姫』に賞賛を送っていた。 (ザイアス……。せめて、あんただけでも生き延びてくれよ……)  最後にそれだけ願うと、彼女の意識はそこで途絶えた。 「エリッサ!? おい返事しろよ、エリッサ!! エリッサあああッ!!」  ザイアスは金網越しに必死にエリッサに呼びかける。しかし返事は無い。 「さすがにこの状況で、手加減している余裕なんぞ無かったわい。それでも出来れば、急所を逸らして当てたかったんじゃがのう。暗闇の中じゃから、正確な狙いまではつけられなかったのじゃ」  肩を震わせているザイアスに、『黒獅子姫』は悲しげな口調で声を掛けた。 「とにかくエリッサはもうおらん。おぬし一人では、わしには勝てんじゃろ。降伏するのじゃ、ザイアス」 「うるせえええッ!! もういいッ!! てめえは生け捕りになんかしねえ!! 俺の手でブチ殺すッ!!」  ザイアスはホーンヘルムを脱ぎ捨て、バトルアクスの刃の平で額をガンガンと殴り始めた。  いきなりの行動に、『黒獅子姫』は気が触れたのかと思った程だ。  ザイアスの額が裂け、血が噴き出す。目は狼のように狂気の赤い輝きを帯び、口の端からは泡が噴き出している。  『黒獅子姫』の方を振り向いた時、ザイアスは人の殻を脱ぎ捨てた殺戮の権化、狂戦士(バーサーカー)と化していた。 「グォオオオオオオオオオオオオオオオオ!!」  鼓膜が破れんばかり咆哮と共にザイアスが跳躍する。  空中で独楽のように回転してからの斬撃。  クロスボウの盾で受け止めた『黒獅子姫』の右手がビリビリと痺れる。  人間離れした筋力。  ザイアスは激しい怒りと憎しみによって、先程とは桁違いの攻撃能力を手に入れている。  『黒獅子姫』は瞬時に反撃に転じ、ザイアスの右胸に矢を撃ちこむ。  だがまるで痛みなど感じている様子は無い。  ザイアスはお返しとばかりに頭突きを浴びせる。鈍い痛みで『黒獅子姫』の意識が一瞬途切れる。 (ま、まずいのじゃ。どんな手を使ってでも殺す気で掛からんと、わしの方が殺されてしまうのじゃ!)  『黒獅子姫』は左肘から飛び出している折れた上腕骨を、ザイアスの右目に突き刺した。  うっ、という呻き声を上げてザイアスが一歩退く。  『黒獅子姫』のクロスボウがバスタードソードに形を変え、漆黒の刃が薙ぎ払われる。  ザイアスは咄嗟にターゲットシールドを掲げ、斬撃を受け止めようとする。だが力強い一撃のためにシールドが砕け、勢いの止まらない刃に左頬の肉を大きく削ぎ落とされてしまう。  それでも狂戦士と化したザイアスは、全く戦意を失わない。  壊れたターゲットシールドを投げ捨て、バトルアクスを両手で握り直すと、激しい攻撃を仕掛ける。  『黒獅子姫』に攻めるチャンスを与えない程に。  そして今の『黒獅子姫』には、斬撃を受け止め続けるだけの握力が残されていなかった。  汗で手が滑り、剣を取り落としてしまう。 「しまった――」  無防備な『黒獅子姫』の頭目がけ、バトルアクスが叩きつけられようとする。  次の瞬間、漆黒の竜巻が金網の外から吹き荒れる。  『黒獅子姫』の右腕に、獅子の顔の意匠が施されたラウンドシールドが装着される。  まさに間一髪――主の生命の危機を察知し、黒き獅子は薫陶花の誘惑を振り切って引き返してきたのだ。  必殺の一撃を盾で正面から受け止める『黒獅子姫』。  止めを確信していたザイアスの動きが一瞬止まる。  間髪入れず、『黒獅子姫』は床に落ちたバスタードソードを蹴り上げる。  ラウンドシールドの獅子の口が、握力を失った『黒獅子姫』の代わりに、剣の柄をがっしりと咥え込んだ。  虚ろな空間に、一陣の風に潜む鎌鼬の如き、黒き閃刃の軌跡が描かれる。  赤々と舞い散る血流の花弁。  引き裂かれたザイアスの身体が金網に叩きつけられた。 「勝てると思ったんだがなあ……。これが人間の限界か……」  地面に倒れているザイアスが苦しげに呟く。  先程までの殺意が嘘のように穏やかな声だ。  右半身は大きく損なわれ、胴体の裂け目から砕けた肋骨と臓器が剥き出しになっている。あと何分も持たないだろう。 「何を言う。ここまで戦えただけでも大したものじゃぞ。正直、わしも途中まで負けを覚悟しとったわ」  『黒獅子姫』は哀しげな顔で答える。  ザイアスは苦しげに咳き込んだ。口からごぼごぼと血の泡が吐き出される。 「ゲホッ! 目が霞んできやがった……。俺もここまでか……。だがこれが傭兵の生き様ってやつだ。別に悔いはねえぜ。最期まで思うがままに生きられたんだからな……。ゲホ、ゲホッ!」  再びザイアスが咳き込むと、マントに吊るした頭蓋骨がぶつかり合って、カラカラと笑い声のような音を響かせる。 「ああ。待たせたな、お前ら。俺ももうすぐそっちに行くぜ……」  音に答えるようにザイアスが言った。 「その骨、おぬしが殺した敵のものだとばかり思っとったが、違うんじゃな?」 「ハハ……。こいつらは『黒の災禍』で死んじまった俺の昔の部下達だ……。俺だけ生き延びちまって寂しかったから、こうして一緒に連れていたんだ……」  ザイアスは目を閉じた。呼吸が徐々に浅くなっていく。 「そうだ……。あっちにゃエリッサも待ってるんだったな。早く行ってやらにゃあ、あいつも寂しがるぜ……。じゃあな、ミルダ。平和な世界とやらを取り戻すまで、せいぜい頑張れよ……」  ザイアスの呼吸が完全に止まる。  徐々に温みを失っていく亡骸に『黒獅子姫』は背を向けた。  そして目を閉じて呟く。 「さらばじゃ、ザイアス。おぬしは最期まで誇り高き悪党じゃったぞ」
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