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 ベッドと簡素な調度類が置かれただけの殺風景な狭い寝室。  ここがウォーデンの私室となっている。  入口の他に、奥の壁には南京錠の嵌められた鋼鉄の扉がある。地下のため窓は無く、天井から吊るされた黄ばんだガラスランプだけが唯一の光源だ。  ウォーデンはベッドの上で固い枕を背もたれにして、老眼鏡を嵌めた目を細め、聖天教会のぼろぼろの聖典を熟読している。  彼が劫罰修道会の地下拠点に運び込まれてからすでに十日が経つ。  一時は生命も危ぶまれたが、ウォズマイラの癒しの秘跡と修道士達の手厚い看護のおかげで、こうしてベッドの上に起き上がれるほどに回復していた。 「先生、食事を持ってきました」  ダグボルトが温かい麦粥の皿を乗せたトレイを手にして部屋に入って来た。トレイを受け取ったウォーデンの手は少し震えていたが、顔色は運び込まれた頃よりずいぶん良くなっている。 「済まんな。おぬしには命を救ってもらった礼をせねばならんのに、こうしてまた手間を掛けさせてしまって」 「いえ、礼なんかいりません。神学校で先生の教えを受けて、苦手な勉学に必死に励んだおかげで、今の俺がいるんです。俺の方こそ感謝しても、し足りないくらいです」 「そう言って貰えると嬉しいぞ。おぬしは決して出来のいい生徒では無かったが、粘り強さでは他の者に決して負けなかった。だからこそ儂は、おぬしにだけは人一倍厳しく教えたのだ」 「ですがあれは、厳しいなんて次元のものではなかったですけどね。あの頃は先生の事を激しく恨んだものです」  ダグボルトは当時を思い出し苦笑した。それを見てウォーデンも思わず笑みを浮かべる。 「それにしても、こうしておぬしときちんとした形で会うのも久しぶりだな。おぬしは審問騎士になってからずっと音信不通だったからな。シスター・セオドラもおぬしの身を案じておったぞ」 「済みません。任務が忙しかったもので……」 「しかしおぬしが、聖堂騎士団から審問騎士団に移籍したと聞いた時は驚いたぞ。なぜ儂らに何の相談もせず、急に移ったのだ?」 「……………………」  ダグボルトが急に険しい顔になるのを見て、ウォーデンは深いため息をついた。 「……まあ良い。おぬしにも色々と事情があったのだろうな。それに聖堂騎士団がその後辿った運命を考えれば、移籍して正解だったのだろう」  それだけ言うとウォーデンは黙々と麦粥を口に運ぶ。  二人の会話は途絶え、静寂に包まれた部屋に粥を啜る音だけが響く。 「あのう……。もしよろしければ、ひとつ伺いたい事があるんですが……」  しばらくしてダグボルトが遠慮がちに口を開いた。 「構わんよ。体調は十分回復しておるし、何よりおぬしは命の恩人だ。儂が話せる事なら何でも話そう」 「有難うございます。では先生が聖女の力を与えたという少女、ウォズマイラについてお聞かせください」  麦粥をスプーンで掬うウォーデンの手が止まる。  老眼鏡を外すと厳しい視線でダグボルトを見つめる。 「その話、テュルパンから聞いたのか?」 「ええ。とは言っても、あの人はそれしか教えてくれませんでした。ですから先生の口から、詳しい事情を聞きたいんです」  ウォーデンは何も言わず罅割れた唇を舌で湿らせる。  封印していた過去を掘り起こす苦悩と戦っているようにも見える。  何度か躊躇った後、ようやくウォーデンはゆっくりと噛み締めるように話し始めた。 「話は聖天教会にいた頃に遡る。儂はおぬしと同様、シスター・セオドラとはしばらく同じ教区におり、その時に癒しの秘跡を何度も目にしてきた。あれは決してまやかしや怪しげな呪術の類ではない。本物の奇跡だ。だから審問裁判でセオドラが魔女と認定されたと聞いて、我が耳を疑ったものだ。おぬしは彼女が火刑に処された日の事を覚えておるか?」 「ええ、はっきりと」 「儂もだ。あの日の事は決して忘れん。おびただしい数の群衆に囲まれた磔台。セオドラに罵声を浴びせる群衆の醜く歪んだ顔。死刑を宣告する執行人の無情な声。そして磔にされたセオドラの目。あの目を見れば分かる。自分を魔女呼ばわりした者達を、セオドラは最後まで憎んではおらんかった。むしろ憐れんでさえいた。彼女が死んでしまえば、世界を悪の手から守る者がいなくなる事を知っていたからだろう。だが儂には処刑に反対するだけの勇気が無かった。この取るに足らないちっぽけな命を惜しんで、聖女を見殺しにしてしまったのだ……」  静かに穏やかに輝いていたターコイズブルーの瞳。  それを思い出すたびに、ダグボルトは今でも胸を締め付けられる思いだった。  彼女を救えなかったのはダグボルトも同じ。  その罪を背負って生きなければならないのも。 「セオドラの遺灰は、執行人の手によってデズルブ大河に投げ捨てられた。だが儂は袖の下を使って一握りの遺灰を入手していたのだ。処刑を止められなかったせめてもの罪滅ぼしとして、いつか彼女をきちんとした形で埋葬するためにな。遺灰は小さなロケットのついたペンダントに納め、いつも肌身離さず持ち歩いておった」  ウォーデンは首に掛けた銀のペンダントをダグボルトに見せる。  しかしガルダレア城塞に囚われていた時には身に着けていなかったはずだ。身体のどこかに隠していたのだろうか。  ダグボルトはあえて聞かない事にした。 「だがその機会がやってこないまま、『黒の災禍』で世界は崩壊してしまった。当て所なく旅を続けるうちに、儂は二人の魔女が争うこの地にたどり着いた。そして偶然、儂はレジスタンスの劫罰修道会を率いるテュルパンと出会ったのだ。それがちょうど三年程前の話になる」 「ではその頃はウォズマイラではなく、テュルパンがリーダーだったんですね?」 「うむ、そうだ。そして儂はテュルパンに口説かれ、劫罰修道会の同志となった。しかし当時、魔女を相手に勝ち目のない絶望的な戦いを続ける劫罰修道会に、加わろうとする者など殆どいなくてな。二人で相談して色々と考えた結果、我々に足りないのは人々に希望を与える存在だと気付いた。それは魔女を滅する事が出来る者、すなわち聖女に他ならんのだ」  ようやく話が核心に触れる時が来た。ダグボルトは固唾を飲んで続きを待つ。 「儂は旅を続けていた頃から、セオドラの遺灰の入ったペンダントを傷に近づけると、治りが早くなる事に気づいていた。それはすなわち、セオドラの遺灰には僅かながら神気が宿っているという事に他ならない。そこで儂は、適性を持っていそうな乙女の中から志願者を募り、その者達に聖女の力を宿そうと考えた。だが通常の医術ではそのような真似はとうてい不可能だ」  そう言うとウォーデンはベッドから立ち上がった。いつの間にか古びた鍵を手にしている。  ふらつく身体をダグボルトに支えられ、ウォーデンは奥の扉に嵌められた南京錠を外す。そして扉を開くと、ダグボルトに中を示して見せる。  饐えた臭いが漂う真っ暗な部屋に、ダグボルト達がいる寝室からの微かな光が差し込む。部屋の中央にある机の上には、奇妙な形のビーカーや試験管が置かれている。床には古びた書籍が乱雑に散らばり、壁にはガラスの瓶詰が無数に置かれた棚がある。  瓶詰の中身を見てダグボルトは目を丸くする。  単眼の牛の頭、小人にも似た植物の根、人間の嬰児、三ツ首の大蛇……。  他にも用途不明の不気味な品々が幾つも収められている。  暗闇に目が慣れてくると、壁や床に奇妙な魔方陣が描かれている事にも気づく。  壁際には、乾いた血と腐りかけた肉片のこびり付いた手術台があり、その周りをぶんぶんと黒蠅が飛び回っていた。そして部屋の奥には、奇怪な文様が施された石棺が置かれている。 「せ、先生、これは一体……」 「儂は『煉禁術』を用いる事にした。微量の遺灰を水に溶かして志願者達の脳幹に注入させ、聖女に変生させようと試みたのだ。魔女が人間を、自らの下僕となる『異端』に変生させるようにな」 ――絶句。  文字通り、発しようとする全ての言葉が絶たれる。  今、先生は何と言った?  遺灰を注入?  聖女に変生?  『煉禁術』?  この世界と同じように、ウォーデン先生までもが狂ってしまったのか?  あの信心深く公明正大な先生が? 「……おぬしの言いたい事は分かる。儂は外道に身を落とした恥ずべき男だ。セオドラの遺骸を辱めるような下劣な真似をし、さらには魔女の業にも等しき禁断の外法にまで手を出したのだからな。しかし今となってはどんな手段を使ってでも、魔女との戦いに勝たねばならぬのだ。そうでなければこの世界は闇の力に屈してしまうだろう」  『煉禁術』とは、数百年前に編み出されたといわれる魔道的な生命操作の医術工学だ。  一説では、この術を用いる医術士(セージ)は死体を蘇らせて使役したり、とある生物を全く別の生物に変生させたりするという。  しかし聖天の女神が創り出した生命を、人の手で改竄するなど冒涜にも等しい。そのため外法とされ、聖天教会の手で一切の研究を禁じられていた。  ダグボルトの口の中に苦い味が広がる。  信仰の厚いウォーデンが己の信条すら捻じ曲げ、苦渋の選択をしたのだ。それは分かる。  しかし何と答えたらいいか言葉が出てこない。 「儂は教会の禁書保管庫跡地から、密かに『煉禁術』の魔道書(グリモア)を何冊か持ち出した。そしてそこから学んだ知識を元に、幾度となく人体実験を繰り返した。実験は何度も失敗に終わったが、それでも研究を重ね、ついに聖女の力を宿した乙女が誕生した。それがウォズマイラなのだ」 「…………禁忌の技で生み出された呪われた聖女。それが彼女の正体なんですね」  ダグボルトはそれだけ言うのがやっとだった。  ウォーデンは悲しげな目をして頷く。 「うむ、その通りだ。だが全てはこの世界を救うためなのだ、ダグボルトよ。人々の希望を絶やさぬためには、今はたとえ紛い物であっても、善の象徴となる存在が必要なのだ……」    **********  幾つかの部屋の壁をくり抜いて造られた殺風景な地下訓練場。  一人、黙々と木剣を振るうウォズマイラ。  そこにダグボルトが通りかかる。  何となく背後から練習風景を眺めていたが、先程のウォーデンとの対話が頭にこびりついて離れない。彼女を禁術で生み出された呪われた存在として見てしまう自分に嫌気がさす。  不意にウォズマイラが振り返る。  白い練習着が、汗ばんだ身体にぴったりと張り付いている。胸は小さいが健康的で引き締まった身体だ。 「宜しければ稽古を見ていてくれませんか? それで私の動きにおかしなところがあったら、遠慮なく指摘して下さい」  ダグボルトは黙って頷いた。  天井から鎖で吊るされた丸太に、ウォズマイラの木剣が撃ち込まれる。  ミルダが言っていた通り、教科書通りの模範的な戦い方だが、そこにダグボルトが実践的なアドバイスを加えていった。ウォズマイラは飲み込みが早いようで、すぐにそれを剣技に取り入れていく。  だがダグボルトは、助言しながらもどこか心ここにあらずといった感じだった。 「……その様子だとウォーデンから全て聞いたみたいですね」  手を動かしたままウォズマイラは言った。  木剣が標的を打つ連続音。  それは心音にも似た穏やかな規則正しい響き。 「あなたが知った通り、私は忌まわしい秘術で創りだされた人工聖女です。でも聖女は聖女。人々の希望を守る存在である事に変わりはありません」  淡々と語るウォズマイラ。  しかしダグボルトは、彼女の太刀筋に微かな乱れを見て取った。  やはり言葉はどうあれ、心の中では自らの出自を気にしているのだろう。 「先生は志願者を募ったと言ってた。どうしてお前は聖女に志願したんだ?」  するとウォズマイラは、聖女らしからぬ冷酷な表情になってこう呟く。 「復讐」  だがその表情は一瞬で消え、すぐに申し訳なさそうな顔をする。 「私的な理由で済みません。世界を救うとか、そういう大仰な目的で志願したわけじゃないんです」 「いや、別に謝る必要は無いと思うぞ。復讐だって立派な動機だ」 「そうでしょうか? 実は二年程前、私の暮らしていた村が『碧糸の織り手』が抱える傭兵団に襲われたんです。奴らは村人を手当たり次第に拷問して財産の在り処を吐かせ、若い女は誰それ構わず犯し、略奪の限りを尽くした後、村を焼き払って去って行きました。貧しい村だったのに……。奪えるような物なんかほとんど無かったのに……」  ウォズマイラは悔しげに唇を噛んだ。  唇には血が滲んでいる。 「……結局、私の家族と友人を含む、村人の殆どが奴らに殺されました。私はちょうどその時、用事があって隣の村に行ってたので無事だったんです」  ダグボルトは、ミルダと共に北狼傭兵団に加わっていた事を思い出す。  ザイアスとエリッサはそこまで冷酷な人間には見えなかったし、幸いにして非道な任務を与えられる事は無かった。しかしそれは例外のようなものなのだろう。 「確かにそこまでされれば傭兵どもを憎むのは当然だ。復讐を考えるのもよく分かる」 「そう言っていただけると幸いです。ですがそうした傭兵団も、結局は魔女の殺し合いの道具として利用されているだけなのだと、後になって気付きました。しかもプロの古参傭兵を除く大半の若い団員が、略奪で生活基盤を失った元一般市民だったんです。私の村の一部の生存者も、村を復興させるのを諦めて傭兵団に加わったようです。どうせ復興させたところで、また略奪の対象になるだけだし、奪われるより奪う側にいる方がいいと思ったんでしょうね」 「被害者が加害者に……。何とも救いが無い話だな」 「ええ。ですから負の連鎖を断つには、大元である魔女を滅するしかないんですよ。しかしウォーデンは、私にはまだ魔女を倒す程の力が無い事を理解していました。そこで新たな『煉禁術』の魔道書を探しに出掛けて、『碧糸の織り手』の兵士に捕まってしまったんです。ミルダさんは、聖女を聖女たらしめるものは決して力ではない、と言ってましたね。でも私はもっと力が欲しい! 邪悪な魔女と戦い、そして打ち破るための強大な力が!」  ウォズマイラの発する一言一言に強い熱気が籠る。  まるでその言葉に、魔女を倒す力が宿ると考えているかのように。 「だが『偽りの魔女』がこの世界から全ていなくなったら、その後はどうするんだ? 目的を失ったまま、お前は聖女を続けられるのか?」 「いえ、人々に本当の事を話します。私が『煉禁術』によって生み出された人工聖女である事を。そして潔く聖女を引退します。それから――」 「それから真実を知って怒り狂った民衆に八つ裂きにされるわけだ。民衆はひどく移り気で怒り易い。後になってお前の正体を知ったら、欺かれたと感じて激しく怒るだろう。だから聖女を演じるなら、最後まで演じ切る覚悟が必要なんだ」 「……………………」  ウォズマイラは黙り込んでしまう。  厳しい現実を突きつけられ、何と答えたらいいのか分からないのだ。  二人の間に気まずい沈黙が流れる。  すると沈黙を破るように、一人の若い修道士が訓練場に入って来た。息を切らし、ひどく興奮した様子だ。 「ウォズマイラ様、見張りの者が村の家屋を漁っていた不審者を捕えました! どこかの魔女のスパイやも知れません! 今すぐ地上に来て下さい!」  ウォズマイラはダグボルトと顔を見合わせる。  そしてすぐに二人は、若い修道士の後について走りだした。  息苦しい地下拠点を出たダグボルトはほっと一息つく。  空は雲一つ無く、残暑の太陽がじりじりと大地に照りつけている。  ヘインマリア廃村の中央広場では、襤褸を纏った男が四人の修道士に囲まれていた。石像のような粗削りな顔をした厳つい修道士達は、男を厳しく詰問している。 「貴様はどっちの魔女の下僕だ、ああン? 『紫炎の鍛え手』か? 『碧糸の織り手』か? さっさと吐かんかいッ!!」 「ち、違えますよォ! あっしはただのこじ……いや放浪者ですよ。何か食えそうなものが無いか探しに立ち寄っただけで、決して魔女の犬なんかじゃありやせんって」  男の垢塗れの頬はげっそりとやつれている。満足に食事もとれていないようだ。荷物などは一切持っていない。  ボロボロの服の下の細い手足は、真っ直ぐ歩くのも難しそうなくらいひどく捻じれている。 「あ! 旦那!」  不意に男が高い声を上げる。  ダグボルトは男の顔に見覚えがあった。男もダグボルトに気づいたらしい。 「確かお前はタイフォンの街にいた乞食だな」 「へへへ、あん時はお世話になりやしたねえ、旦那。申し訳ねえですが、この方達の誤解を解いてやってくれやせんか?」 「そうは言っても、お前とは道端で少し話しただけで名前すら知らないんだぞ。その程度の仲なのに、お前が魔女のスパイじゃないって証明出来るわけないだろう」 「そ、そんなァ……」  ダグボルトに突き放され、乞食はがっくりと膝を落とす。 「大体、なんでお前はこんな所にいるんだ? 乞食稼業に向いたタイフォンの街を捨てて、わざわざここまでやって来る理由なんかないはずだぞ」  すると乞食は平然とこう答える。 「旦那、タイフォンならもう無くなりやしたぜ」  その言葉の効果は絶大だった。  乞食を除く全員の顔に緊張の色が走る。 「どっちの陣営が先に仕掛けたのか分かりやせんが、ついにあの街の中立が破られましてね。傭兵どもが市民を巻き込んで殺し合ったあげく、最後は街に火を放っていったんですよ。金も食料もみんな奪った後でね。だから今のあそこには誰も住んでいやせん。死肉を貪る禿鷹と鼠を除けばね」  周りの人間が黙り込んでしまったのを見て、乞食は困ったように頭を掻いた。 「あー、ところで食料があるなら少し分けて貰えませんかねえ。タイフォンを離れて当て所も無く流離ってやしたが、もう何日も雑草と雨水以外は口にしてねえんですよ。あんたらが何者かは全然知りやせんし興味もありやせんが、飯さえ食わせて貰えるなら提供できる情報を全て教えやすぜ」  乞食はとぼけているが、修道士達の正体が劫罰修道会のメンバーだと薄々感づいているようだ。  だがそれも無理もない。  誰も訪れないような廃村に潜んでいるのみならず、お揃いの修道服まで着ているのだから。  自分で正体をばらしているようなものだ。 「いいだろう。食事なら与える。ただし牢屋の中でな」  乞食の襟首を掴んで強引に立ち上がらせた。乞食の身体から放たれるひどい悪臭に、僅かに顔を顰める。 「ま、待ってくだせえよ、旦那! せっかく色々話したってのに、こんな扱いはあんまりですよォ!」 「さっき言ったはずだ。お前の身の潔白はまだ証明されてない。それがはっきりするまでは牢屋で大人しくしとくんだな。それにはっきり言ってしまえば、俺達の生活してる場所も、狭くてじめじめして牢屋と大して変わらん。違うのは鉄格子が有るか無いか、それだけだ」 「そ、そいつが大きな違いなんじゃねえですか!!」  何歩か歩いたところで乞食の足から力が抜け、その場に倒れ込んでしまう。長い距離を裸足で歩いて来たらしく、足の裏の皮膚は擦り切れ、血塗れになっていた。 「あ痛ててて……。旦那、あっしを牢屋に入れるってんならおぶってくれやせんか? この通り、足がもう限界でしてね」 「莫迦言うな。そんなに大した距離じゃないんだ。頑張って歩け」  ダグボルトは冷たく言い放った。だがしょんぼりとする乞食を再度立ち上がらせようとした所で、ウォズマイラに制止される。 「私に傷を見せて下さい」  ウォズマイラは嫌な顔一つせず、血と垢で汚れた乞食のざらざらの足の裏に触れる。ウォズマイラの手が暖かな光を放つと、乞食の足の裏の傷が跡形も無く消える。 「し、信じられねえ……。奇跡だ……。こいつは本物の奇跡だ……。じゃあ、あんたが聖女様なんですかい……?」  ウォズマイラは威厳ある面持ちで静かに頷く。  余りの出来事に呼吸不全に陥ったのか、乞食は胸を押さえてうずくまってしまう。  だがウォズマイラが心配するように軽く肩を叩くと、急に乞食は跳ねるように飛び起きた。 「フヒハハハハハハハハ!! こいつは凄え!! 本物の聖女様だ!! これであの薄汚ねえ魔女どもをあの世に叩き送ってやれるぜ、こん畜生ッ!! 劫罰修道会万歳ーーッ!!」  乞食は涙と鼻水をだらだらと流し、笑いながら絶叫した。  様々な歓喜の感情が混じり合って爆発しているように見える。先程まで空腹でしょぼくれていた男とは別人のようだ。  ダグボルトは、聖女の重要性を今更ながら思い知る。 (先生が禁忌の力に頼ったのも当然だ。確かに戦闘能力に関しては、ウォズマイラはミルダに遠く及ばない。だが魔女であるミルダには、こんな風に人々に希望を与える事は出来ない。だからこそ聖女であるウォズマイラが必要なんだ)  しばらくして大人しくなった乞食に、ウォズマイラは優しく声を掛ける。 「……落ち着きましたか? ついでにその身体も治してあげましょう」  ウォズマイラは、今度は乞食の歪んだ体躯に手を触れようとした。  しかし乞食は身をよじって彼女の手から逃れる。 「あ、いや、この身体はあっしの大事な商売道具なんで、治されちゃあ困るんですよ。こいつで道行く人々の憐れみを買って、色々と恵んで貰ってるんでね。乞食の世界も競争が激しくて大変なんですよ。へへへへへ」  卑屈な笑みを浮かべる乞食を見て呆れるウォズマイラ。しかしすぐに気を取り直して話を続ける。 「それでは申し訳ありませんが、少しの間だけあなたの身柄を拘束させてもらいます。あなたが魔女の間諜では無いと分かれば、時期を見て釈放します。ですからそれまで辛抱してください。もちろん食事はちゃんと提供しますよ」  先程、ダグボルトが提示した条件とほとんど変わらないのだが、乞食は首の骨が折れんばかりに何度も首を縦に振る。 「聖女様の頼みなら、牢屋でもどこでも喜んでついて行きやすぜ! ちなみにあっしはランデポールと申しやす。どうぞお見知りおきを!」  ランデポールは修道士達に連れ去られる間もずっと、ウォズマイラに手を振り続けていた。  中央広場にはダグボルトとウォズマイラだけが残される。 「私の癒しの秘跡は不完全なものだから、失った部位を再生したり古傷を治したりする事は出来ないんです。シスター・セオドラなら、あなたの右腕と顔の火傷を癒せたんでしょうけどね」 「別にこいつは治せなくても構わない。セオドラを救えず、こんな世界を生み出す一因になった、愚かな自分への戒めみたいなものだからな」  申し訳なさそうな様子のウォズマイラとは対照的に、ダグボルトは気にする様子も無く答える。  ウォズマイラは少し躊躇った後、今度はこう尋ねる。 「……ところでさっきの私はどうでした? 立派な聖女に見えましたか?」 「は? なんでそんな事を俺に聞く?」 「あなたはシスター・セオドラと親しかったと聞いています。どうでしょう? 私はシスターの代わりになれそうですか?」  ダグボルトは返事の代わりに深いため息をついた。 「お前がどんなに足掻こうともセオドラの代わりにはなれんぞ。だがそれは別に悪い事じゃない。お前はお前だ。そんな風に難しく考えずに自然体でいればいい。セオドラを意識して無理に聖女を演じ続けてたら、そのうちプレッシャーに押し潰されるぞ」 「でも私は聖女として、そして劫罰修道会の指導者として、皆を失望させるわけにはいかないんです」  ウォズマイラの真っ直ぐな瞳は、心の迷いを無理に断ち切ろうとしているようにも見える。  それを見たダグボルトは、力強い手で美しい金髪をくしゃくしゃに掻き混ぜた。  驚いたウォズマイラは一歩飛びずさる。 「な、何をするんですか!?」 「正直、今のお前は見てられん。聖女だの、劫罰修道会だの、そんな物を全て無理に背負おうとするな。素直に周りにいる大人を頼ればいい。テュルパンやウォーデン先生、それに俺やミルダだっているんだ」 「でも……」 「どうあがいても、お前一人で出来る事には限りがある。だがそれはセオドラだって同じだ。あいつは生前、俺にこう言ってた。『私には身体の傷は癒せても、心の傷までは癒せない。それで救えなかった人達も大勢いる。私は無力な存在だ』ってな。それが現実だ。『真なる聖女』ですら、全ての人間を救う事は出来ないし、時には泣き言だって言うんだ」 「……………………」 「だからお前も、無理に聖女を演じようとして肩肘を張るな。困ったらすぐに俺達を頼れ。分かったな?」、 「……分かりました。あなた達の力、喜んでお借りします」 「そうだ。それでいい」  今度はウォズマイラの頭を優しく撫でた。  ウォズマイラはあやされている子供のように目を潤ませ、ダグボルトの上着の裾をぎゅっと掴む。  聖女としての威厳ある姿はもはやそこには無い。  そこにあるのは年頃の少女の貌だった。    **********  地下拠点に戻った二人は『黒獅子姫』にばったりと出会う。  『黒獅子姫』はいつもの黒髪に戻っており、伊達眼鏡も外していた。 「あれ? 髪はどうしたんですか?」  以前と異なる容姿に首をかしげるウォズマイラ。 「これが本来のわしの姿なのじゃよ。黒髪だと二人の魔女に正体がばれるからって、金髪好きの誰かさんの指示で、今までずっと染めてたんじゃ」 「待て、誰が金髪好きだ! あの髪染めは適当に見繕っただけで、別に色まで気にして選んだわけじゃないぞ!」 「ほほう? 冗談で言っただけなのに、必死に否定するところが逆に怪しいのう」 「そ、そうなんですか? ダグボルトさんは金髪好きだったんですか?」  ウォズマイラは自分の頭に手を当てて真顔で言った。雪のように白い顔が微かに赤くなっている。 「ミルダ! お前が変な事を言うから、こいつが本気にしてるじゃないか。何とかしろ!」  ダグボルトは怖い顔で『黒獅子姫』を睨み付ける。 「ただの他愛無い冗談ではないか、ダグ。何でそこまで怒るのか理解に苦しむのじゃ」  『黒獅子姫』は軽いため息をついた。  そして今度は、真剣な表情に切り替わると話を続ける。 「……ところでタイフォンの件、わしも聞いたぞ。あの乞食の話、本当だと思うかの?」 「裏付けが取れるまでは何とも言えんが、たぶん事実だろう。嘘をついたところで何の得にもならんからな。少し前に滞在した街が、僅かな間に灰燼に帰したなんて、正直信じたくはないがな」 「うむ、そうじゃな。それで今からテュルパンに話をしに行こうと思うんじゃが、一緒にどうじゃ?」 「奇遇だな。俺もちょうど、あいつに会おうと考えてたんだ。たぶん言いたい事は、俺もお前も同じだろう。……ウォズマイラ、ついでにお前も一緒に来てくれ」  三人はテュルパンの私室にやって来た。  テュルパンはメモがたくさん貼られた壁に、情報を記した新たなメモを加えている所だった。 「やあ。君達の顔を見れば聞かなくても分かる。タイフォンの街についてだね。あの乞食が語っていた事は、真実と見てほぼ間違いないね」 「裏を取るのがえらく早いな」 「情報取集と人材募集を兼ねて、密偵をこの地域のあらゆる場所に送っているんだよ、ダグボルト君。タイフォンの街が戦火に包まれた話は、数日前には私の耳に届いていたんだけどね。にわかには信じがたくて、事実がはっきりするまで少し様子を見てたんだ。だけどあの街に住んでいた人間の話を聞けば、嫌でも真実だと認めざるを得ないね」  テュルパンは悔しげな顔をして、ぐったりと椅子に身を沈める。  すると『黒獅子姫』がテーブルに身を乗り出した。 「二人の魔女の諍いで、これ以上犠牲が出るのを見たくないのじゃ。そろそろ攻勢に移るべきだと思うがどうかのう?」 「攻勢? でも今戦って勝ち目はあるのかい? 我々の戦力は、まだ魔女の傭兵軍団に対抗出来るほど多くは――」 「敵は二人の魔女だけだ。魔女に雇われた傭兵や『異端』の存在は気にしなくていい」  今度はダグボルトが口を挟む。そして有無を言わさず話を進める。 「やるのなら『紫炎の鍛え手』を先に相手にするのがいいだろう。レウム・ア・ルヴァーナの方がここから近いし、俺は聖堂騎士だった頃に、あそこの守備任務に就いた事があるから地理には詳しい。それに何と言っても、あそこは聖天教会の聖地だ。取り戻す意義は大きい」 「だけどそんなに簡単に魔女を倒せるとは――」 「俺とミルダは今までに四人の『偽りの魔女』を倒してきた。今度だってやれるはずだ。だがそれを成功させるためにはあんたらの協力が必要だ。劫罰修道会の軍勢をレウム・ア・ルヴァーナの近くに送って、守備兵の目を引きつけておいてくれ。その間に俺とミルダが内部に侵入して『紫炎の鍛え手』を倒す」 「おいおい待ってくれ! それには準備が――」 「準備なら私がします。やりましょう、修道長!」  とうとうウォズマイラまでもが口を挟んできた。  ついにテュルパンは諦め顔になり、降参するように両手を上げた。 「分かったよ、私の負けだ。いいだろう。ダグボルト君の作戦を検討しよう」  しかしテュルパンも黙って引き下がるつもりは無かった。間髪入れずに言葉を続ける。 「……ただしそれには二つ条件がある。一つ目は君達が『紫炎の鍛え手』を倒しに行く時に、ウォズマイラを同行させる事。……いいね、ウォズ?」  ウォズマイラは力強く頷く。  しかし『黒獅子姫』は渋い顔をする。 「正直言って、そやつは戦力にはならんぞ。もっとはっきり言ってしまえば足手まといじゃ。一緒に連れてくのはちょっとのう」 「実戦経験が絶対的に不足しているのは私でも分かるよ。でもウォズには魔女を倒したっていう実績が必要なんだ。ウォズに魔女を倒せる力があると知れば、今よりずっと多くの人々が劫罰修道会の義勇兵として志願するはずなんだ。後の『碧糸の織り手』との戦いに備えて、これからもっとたくさんの戦力を集めなきゃいけないんだよ」 「じゃが魔女との戦いで命を落とすかもしれんぞ。大事な聖女を危険に晒すのはどうなんじゃ?」 「それは困るけど、うーん……」  ウォズマイラは無言で二人のやり取りを聞いている。  当事者であるにも関わらず口を出さないのは、足手まといになる事を自覚しているためだろう。  だが固く握り締めた拳を見れば、魔女との戦いに参加したいという強い意志がはっきりと分かる。 「ウォズマイラは作戦決行の日までに俺がみっちりと鍛えよう。少なくとも足手まといにならないレベルまではな」  とうとう耐え切れずにダグボルトが口を出した。ウォズマイラの顔がぱっと輝く。 「『紫炎の鍛え手』との戦いでも俺が責任を持って彼女を守る。それなら一緒に来ても問題無いだろう、ミルダ?」 「……うーむ、仕方ないのう。ダグがそこまで言うのなら、そやつの事は任せるのじゃ」  『黒獅子姫』は大人しく引き下がった。  ウォズマイラに他意があったわけではなく、むしろ彼女の身を案じて、あえて厳しい事を言ったのだろう。 「有り難うございます、ダグボルトさん……」  ウォズマイラは小声で礼を言った。ダグボルトも小さく頷いてみせる。 「さて、それともう一つ。作戦の準備に二週間の時間をくれるかな。その間に必要な物資をそろえ、戦力を集結させておこう。作戦をもっときっちりと詰める必要もあるしね」  話が纏まると、テュルパンは満足した面持ちで椅子に腰掛け直す。  その身体は微かに震えている。 「ふう。二人の魔女に一矢報いる機会をずっと窺っていたとはいえ、いざその時が来ると武者震いが止まらないものだねえ。だけどやるからには絶対に成功させよう。未来に希望を繋ぐためにもね」  テュルパンの言葉に三人は力強く頷いた。  決戦の予感に全員の心が逸る。  だが二人の魔女との戦いが、これから予想外の展開を迎える事になるとは、この時の四人はまだ知る由もないのであった。
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