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 ダグボルト達がテュルパンを説得してから一週間が過ぎた。  各地に潜む同志に号令が掛けられ、必要な物資が掻き集められていく。  劫罰修道会が密かに行った募兵に応じた義勇兵も、続々とヘインマリア廃村に集まり出してきた。  この地下拠点からは人が溢れ出しているため、入れない義勇兵は地上にキャンプを張って待機している状態だった。  そのため、近々もっと広い拠点に移る事になっていた。    ********** 「おい、飯を持ってきてやったぞ!」  薄暗い地下牢の入口に、食事を載せた金属のトレイを二つ持った修道士が現れる。  何時もは厳つい中年修道士が牢番を担当しているのだが、今日は若い修道士が担当だった。  地下牢には、土をくり抜いた部屋に鉄格子が嵌められただけの簡素な牢が五つある。  現在塞がっているのは、乞食のランデポールが入れられている一番奥の狭い独房だけだ。 「遅過ぎやすぜ、修道士の旦那! 昼飯の時間はとうに過ぎてますぜ。あっしのことなんざ忘れちまったのかと思いやしたよ」  藁の敷かれた土床に寝そべっていたランデポールが飛び起きる。温かい食事の匂いを嗅いだせいで、腹がぐうぐうと鳴っている。  若い牢番は、地下牢の隅に置かれた机に自分用のトレイを置くと、もう一つのトレイを持ってランデポールの独房の前にやって来た。 「悪いな。今は忙しい時期なんだ。お前に構ってる余裕は無いんだよ」 「もしかして魔女と戦う準備を進めてるんですかい? それならここから出してくれれば、あっしもお手伝いしやすぜ!」  ランデポールは自分が活躍する姿を想像してか、興奮で目をキラキラと輝かせる。  だが牢番は首を横に振った。 「そいつは無理なんだ。正直、今は猫の手も借りたいぐらい忙しいから、お前のような奴でも手伝ってくれると助かるんだけどな。今回の作戦が終わるまでは、牢屋の外に出すなって言われてるんだよ。万が一にも計画が外に漏れないようにな」 「そ、そんなあ……。一体、誰がそんな酷い命令を出したんですかい? まさか聖女様じゃ……?」 「いや、サー・ダグボルトだよ。隻眼の大男だ。分かるか?」 「ええ、分かりやす。ダグボルトの旦那ときたら、どれだけ用心深いんだか……」  がっくりと肩を落とすランデポール。  その姿に憐れみを覚えた牢番は、普段の不満もあってか愚痴をこぼし出す。 「あいつ、図体はでかい癖に細かい性格で色々と面倒なんだよ。ウォズマイラ様のお気に入りなのをいい事に、新人の分際で偉そうに計画を仕切ってやがるしな。しかもあいつ、噂じゃ魔女の愛人らしいぞ」 「魔女? ま、まさかダグボルトの旦那は『碧糸の織り手』か『紫炎の鍛え手』の手先なんですかい!?」  ランデポールが目を丸くしているのを見て、牢番は慌てて否定する。 「違う、違う。俺が言ってるのは黒髪の蟻使いだ。名前は忘れたが、ミル……何とかだ。とにかくそういう奴が今ここにいるんだよ。ウォズマイラ様の話だと心優しい魔女で、俺達に協力してくれるらしいがどうだかな。優しかろうが何だろうが魔女は魔女だ。我々の敵対勢力の一員である事に変わりはないんだからな」  牢番は苦々しげに言った。  だが自分が余計な事を喋り過ぎていると気づいたらしい。  急に口をつぐむと、鉄格子の下の取り入れ口から食事のトレイを滑らせる。  トレイを受け取ったランデポールは、しばらくそれを無言で眺めていた。  だが牢番が机の方に引き返そうとしたのを見て、恐る恐る口を開く。 「あのう……。毎回、食事の度に思ってたんですが、この施設にはフォークとかスプーンってもんがねえんですかい? それともあっしみたいな乞食野郎は、犬みたいに食うのがお似合いって事ですかい?」 「お前に尖った物は一切渡すなと言われてるんだよ。用心のためにな。これもサー・ダグボルトの指示らしい」 「ハァ……。ただの乞食をそこまで警戒するなんて、本当に疑り深い方ですねえ……」  ランデポールは何時ものようにトレイに直接口をつけ、がつがつと食事を貪り始めた。  トレイから麦粥がぽたぽたと垂れ、炙った干し肉の欠片がぽろぽろと零れ落ちる。  それを見て牢番は苦笑する。 「仕方ないな。俺のスプーンを使え。これなら尖ってるって程じゃないからいいだろう」  ランデポールは鉄格子越しにスプーンを受け取った。鉄製の先割れスプーンで先端が小さく三つ又になっている。 「有難うごぜえやす! あんたみてえな若え人に優しくされるなんて、嬉しくて涙が止まりませんぜ。それに引き替え、いつものおっさん――いや牢番ときたら、あっしとろくに口も聞こうとしねえんですからねえ……。それじゃあ、さっそく使わせていただきやす」  次の瞬間、ランデポールの手からスプーンが消える。 「あ、あれ?」  空ろな声を上げる牢番。  右目には、ランデポールが投げつけたスプーンが深々と突き刺さっている。 「何これ、何これッ!? の、の、の、脳が痺れるのら! でも何か気持ちいい……?」  スプーンの先端は牢番の脳に触れていた。  脳の表面を走る電気信号がスプーンを伝って増幅され、ピリピリと痺れるような心地よい感覚を与えている。 「……ダグボルトの旦那の忠告を守らなかったあんたが悪いんですぜ」  ランデポールは鉄格子の隙間から指を伸ばし、牢番の腰にぶら下がっている鍵束を奪った。  扉を開けて素早く外に出ると、牢番の身体を無造作に蹴り倒す。 「いい人ほど早死にするってよく言うでしょう? 善意なんてもんは得てして仇になるんですよ。ちょうど今のあんたみてえにね。それがあんたの人生最後の教訓になりやしたねえ」  牢番はあおむけにひっくり返り、ぴくぴくと肢体を痙攣させている。  ランデポールは、牢番の右目に刺さったスプーンを力強くさらに奥まで差し込んだ。そのままスプーンで脳をぐちゃぐちゃと掻き混ぜると、やがて牢番の身体はぴくりとも動かなくなった。 「劫罰修道会が動き出した以上、こちらも急がねばな」  ランデポールは呟く。  先程までとは打って変って人間味の無い無機質な声。  牢番の目からスプーンを抜き取った。  血と脳味噌の欠片が、スプーンをぽたぽたと伝い落ちる。  それを用いて、牢番の修道服の裾を小さく破った布きれに、簡潔な血の暗号文を書き上げた。  何も知らない者が見ればただの汚い布だが、ランデポールの仲間が見ればこう読み取れるだろう。 『今ヨリ一刻(一時間)後ニ攻撃ヲ開始セヨ』  今度は自分の口に手を突っ込み、一本の奥歯を捩じり取った。  抜いた歯には小さな穴が開いており、それを吹くと犬笛のように、人間の耳には届かない高周波の音を発する。  少しすると音に応えるように、ランデポールの足元に一匹の鼠がちょこちょこと走って来る。  彼が調教した隠密鼠だ。  鼠の首に、暗号文の描かれた襤褸切れをスカーフのように巻くと、すぐに何処かへと走り去っていった。 (これでいい。後は村の外にいる同志と連携を取って動くだけだ)  ランデポールの唇に浮かぶ微かな笑み。  だがそれは一瞬で消え失せる。 (……しかし聖女のみならず、『真なる魔女』までここにいるとはな。やはりあのお方がおっしゃっていた通り、ダグボルト・ストーンハートと行動を共にしていたのだな。だが、そちらの相手は『紫炎の鍛え手』に任せるとしよう)    **********  地下訓練場に一人佇むダグボルト。  丁寧に磨き上げた鋼のプレートメイルを装備し、その上に青いサーコートを纏っている。  左手にはヒーターシールド、腰のベルトにはスレッジハンマーを吊るしている。  フルフェイスヘルムを脱いでいる事を除けば、いつもの完全武装の姿だ。 (ウォズマイラの奴、遅いな……)  いつもなら午後の戦闘訓練を開始している時間だが、今の訓練場にはダグボルトしかいない。  毎日、厳しい訓練を施したおかげで、ウォズマイラの戦闘技術は以前よりも格段に向上している。  今は武具を装備して、さらに実践的な訓練を行っていた。 (これだけ遅いと気になるな……。少し探してみるか)  ダグボルトは訓練場を出た。  狭い通路はひっきりなしに人が行き交っていて、巨漢のダグボルトは人とすれ違うのも一苦労だ。 (ん? この匂いは……?)  ダグボルトの敏感な鼻は微かに漂う鉄臭い匂いに反応する。  幾多の戦いにおいて嫌と言うほど嗅いできた匂い。  嫌な予感がしたダグボルトは、匂いの源に向けて歩き出した。  一方、ウォズマイラは息を切らして訓練場に飛び込んで来た。  テュルパンとの打ち合わせが長引いて、遅れてしまったのだ。  訓練場の壁際にはたくさんの木箱が積まれている。  倉庫が一杯なので、今はここが荷物置き場の代わりとなっていた。  部屋を見渡すがダグボルトの姿は無い。 「待ちくたびれて部屋に戻ったのかな? 呼びに行ってみようかな……」  訓練場を出ようとした所で、ちょうど中に入って来た男と鉢合わせになる。 「あなたは……。ええと、確かランデポールさんでしたっけ?」 「ええ、そうでやす! 聖女様があっしの名前を憶えて下さるなんて感激ですぜ!」  ランデポールは嬉しそうに答える。 「でもあなたは牢屋にいるはずでは? どうしてここに?」 「あ、いや、ダグボルトの旦那に、忙しいからお前も仕事を手伝えって言われましてね。今朝、牢屋から出して貰ったんですよ」   ランデポールは卑屈な笑みを浮かべて言った。  顔は笑っているが、目は全く笑っていない。  しかしウォズマイラがそれに気付く様子は無い。 「そんな話は聞いてませんけど……。まあいいでしょう。どこかで情報の行き違いがあったのかも知れませんね。私はこれからダグボルトさんの部屋に行く所です。あなたはどうしますか?」 「実はあっしもダグボルトの旦那に会いたかったんですよ。牢から出してくれたお礼がしたかったんでね。へへへへへ」 「分かりました。では一緒に行きましょう」  ウォズマイラが背を向けた瞬間、首筋に鋭い手刀が放たれる。  意識を失い、力無く倒れるウォズマイラの身体を、ランデポールは捻じれた両腕で優しく抱き留める。 「簡単な任務だったな。後は同志に合流して――」  ランデポールの呟きが途中で止まり、その姿が煙のように掻き消える。  次の瞬間、彼がいた場所にスレッジハンマーが振り下ろされた。  空を切って土床を抉るハンマー。 「ダ、ダグボルトの旦那じゃねえですか! いきなり攻撃してくるなんてあんまりですぜ!」  哀れっぽい声を出すランデポール。  だが入口に立つダグボルトから三ギット(メートル)程離れた所にいる。  ウォズマイラを抱えたまま、その距離を一瞬で跳躍して攻撃から逃れたのだ。  常人の反応では無い。 「猿芝居は止めろ。牢番を殺したのはお前だな。血の匂いがしたんで地下牢を見てみたらあの有様だ。それでこっちはずっとお前を探してたんだ」  ウォズマイラに息があるのを見て、ダグボルトは心の中で胸を撫で下ろす。 「へえ、血の匂いをねえ……。まるで鮫みてえな方ですねえ、旦那は」 「黙れ。それからおとなしくこっちにウォズマイラを渡せ。そうすれば命だけは助けてやらん事もないぞ」 「へへへへへ。そいつは出来やせんよ、旦那。でもまだ時間は余ってるんで、せっかくだから少しだけ遊んでいきやしょうかねえ」  ランデポールは、ぐったりとしたウォズマイラの身体を床に下ろす。  続いて全身の骨を、ボキボキと激しく鳴らす。  すると捻じれていた体躯が、だんだんと本来の形に戻っていく。  小柄で痩せてはいるが、鋼のような筋肉のついた鍛え上げられた身体へと。  次にランデポールは自分の顔に両手を当てる。  またボキボキと音を鳴らし、頭蓋骨を力づくで強引に変形させて素顔へと戻す。  両手を離した時、そこにあったのは東方諸島特有の一重の鋭い目をした、年齢不詳の無表情な黒髪の男の顔だった。肌の色も浅黒く変色している。  骨格を組み替えて、体形はおろか人種すら変えてしまうような、常軌を逸した変装を目の当たりにして、ダグボルトは右目を瞬かせる。  最後にランデポールは、壁際に積まれた木箱の影に足を踏み入れる。  そこから出てきた時、彼はあたかも影を身に纏ったかのような黒き姿となっていた。  目の部分以外の全てを覆う黒装束の出で立ちは、ダグボルトの目に、まるで闇の化身のようにも映る。 「拙者の真の名は『影の手』。拙者の正体を知ってしまったおぬしには、ここで潔く散華して頂こう。では参る!」  『影の手』がゆらりと動く。  黒装束を身に纏った身体は、水に垂らした墨のように輪郭がぼやけ、まるで大気に溶け込んでいるかに見える。 (まさかこいつ、東方諸島のニンジャか?)  ダグボルトは昔、噂で聞いた事があった。  モラヴィア大陸の東の果てにある東方諸島には、ニンジャという密偵と暗殺者と手品師を掛け合わせたような奇妙な職業があるという。  東方諸島では、メジャー・ダイミョーと呼ばれる大貴族達が絶えず領土争いを行っていて、ニンジャは彼らに雇われて暗躍しているらしい。  だが『黒の災禍』の後、東方諸島がどうなったのかはダグボルトにも分からない。  こうしてニンジャが西方に来ているという事は、メジャー・ダイミョー達も魔女の軍勢に殺されてしまったのだろうか。  ダグボルトはヒーターシールドを構え、死角となる左側に回り込まれないように間合いを取る。  『影の手』は何の武器も手にしていない。それがかえって不気味だった。  突如、『影の手』はダグボルトに背を向け、壁に向かって走り出す。  壁を蹴ってその勢いでさらに跳躍。  美しい放物線を描いて、空中からの鋭い三角蹴りを見舞う。 (こいつ、体術の使い手か? だが素手で俺を倒すなら、無防備な顔を狙うしかないはずだ!)  ダグボルトはヒーターシールドを上に掲げ、顔を隠す。  次の瞬間、左手にずしっと鈍い感触が伝わる。  三角蹴りの衝撃は全てシールドで防いだ。今度はこちらの番だ。  だがダグボルトがシールドを下した時、目の前に『影の手』の姿は無い――背後だ!  『影の手』はシールドを蹴った勢いで、さらに宙に飛び上がり、ダグボルトの背後に着地していたのだ。  ダグボルトが振り返る間もなく、『影の手』の掌底が背中を直撃する。  全身に強い電流が走るような感覚。  同時にダグボルトの巨体は五ギット程吹き飛び、壁際の木箱に叩きつけられる。  粉々になった木箱から林檎がごろごろと転がり落ちる。  すぐにダグボルトは振り返り、体勢を立て直した。  掌底で打たれた背中は全く痛まないが、代わりに脳の奥底に痺れるような痛みが残る。  今までに味わった事の無い不思議な感覚だ。 (奴は素手だぞ。しかもこっちはプレートメイルに加えて、魔力を帯びたサーコートまで着てるのに、なぜ攻撃が通る!?) 「拙者の技に驚いているようだな、西方の荒武者よ」  ダグボルトの心を見透かすように言った。 「体術などは、下忍級(マイナークラス)のニンジャが習得する基礎レベルの技術に過ぎぬ。だが頭首級(ヘッドマスタークラス)のニンジャである拙者の技は、肉体ではなく魂に痛撃を与える。従って如何なる防具も役には立たぬ。今のは『禅道(ゼン・ドー)』の技が一つ、『御霊貫(ミタマヌキ)』だ」 「『禅道』?」  ダグボルトの三十五年の人生の中で、そのような奇怪な単語は全くの初耳だった。 「肉体という牢獄から解脱し、無我の境地に達した者だけが辿り着ける世界。それが『禅道』。おぬしらのように、力任せで下品な戦いをする西方の剣客どもには、決して辿り着けぬ極みの世界なのだ」 「お前が言ってる事は全く理解出来んな。別に理解しようとも思わんが」  ダグボルトはスレッジハンマーを構え、慎重に『影の手』との間合いを調整する。  次の一撃で決着をつけるために。 「まあそうであろうな。おぬしは脳で考える。しかし脳などというものは、結局は肉体の一部に過ぎぬ。『禅道』は脳で理解するものにあらず。己が心魂に焼き付けるものなのだ!」  『影の手』は拳と蹴りの組み合わさった連撃を休む間もなく放つ。  だがダグボルトは、それをヒーターシールドで巧みに防ぎ、己の身体に触れさせまいとする。  らちが明かぬとばかりに『影の手』は体勢を低くして、今度はダグボルトの脚を払おうとする。  しかしそれこそがダグボルトが待ち望んだ瞬間。  タイミングを合わせて横に振り抜かれたスレッジハンマーが、腰の位置まで下がった『影の手』の頭に叩き込まれる。  頭蓋骨が粉々に砕け、凄まじい勢いで血と脳味噌が飛び散る――はずだった。  だがスレッジハンマーは『影の手』の身体をすり抜け、虚しく空を切っていた。  唖然とするダグボルト。  しかし驚くのはまだ早かった。  いつの間にか彼の周囲には、さらに五人の『影の手』の姿があった。六人の『影の手』が全く同じ動きでダグボルトを取り囲む。 「ぶ、分身だとッ!?」 「肉体は移ろい易く、容易く欺かれる。魂が傷つけば、肉体もその干渉を受けるのだ。初めの一撃で、すでにおぬしの魂は苛まれ、その肉体も我が術中に嵌っている。もはやおぬしの眼(まなこ)は正しい物を見ることが出来ず、脳は正しい事象を認識出来ぬ。それは肉体という牢獄に囚われし者の、哀しき宿命でもあるのだ」  六体の『影の手』の姿が怪しく蠢き、蹴りが、拳が、ダグボルトの身体に幾度となく浴びせられる。  その度にダグボルトは痺れるようなショックを受け、ヒーターシールドが吹き飛び、スレッジハンマーが右手から滑り落ちる。  やがて全身が麻痺したかのように、全ての感覚を失っていく。 「なかなか面白い勝負であったぞ、西方の荒武者よ。だが残念ながら惜別の刻だ。おぬしの首級(みしるし)、頂戴致すッ!」  『影の手』のような熟練のニンジャは、手刀で敵の首を刎ねる事が出来る。  そのような相手を前に、ヘルムを脱いでいるダグボルトの首はあまりにも無防備だ。  六人の『影の手』の左手から六つの手刀が放たれる。  そのうち五つは、ダグボルトの脳が生み出した虚像。  本物は一つのみ――だがダグボルトにそれを見分けるすべは無い。  交錯する手刀。  ダグボルトの動きが止まる。 「何イィッ!?」  『影の手』は熟練のニンジャらしからぬ驚きの声を上げる。  ダグボルトの右腕がひとりでに動いていた。  そして右後ろにいた『影の手』の手刀をしっかりと掴んでいる。  残り五体の『影の手』も、自分の左手を掴まれたかのように動きが止まっている。  ダグボルトの右腕のガントレットの隙間から、ざわざわと無数の黒蟻が這い出す。  黒蟻の大群に包まれて漆黒の輝きを放つガントレット。  次の瞬間、掴まれていた『影の手』の左手が蟻酸によって紅蓮の業火に包まれる。 「ぐうッ!!」  『影の手』は歯を食いしばって痛みをこらえ、左手を引き離す。そして地面に腕を何度も叩きつけて火を消す。  だが左腕の肘から先の表面は真っ黒に炭化し、割れた表皮から赤黒い肉が剥き出しになっていた。 「またお前達に助けられたな」  ダグボルトは右腕のガントレットを愛おしげに撫でる。  それに応えるように表面を覆う黒蟻の群れがざわついた。  そして片膝をついた『影の手』に向けて、ダグボルトはこう言った。 「残念だったな、『影の手』。この右腕は俺の肉体じゃない。見ての通り、『黒獅子姫』が生み出した黒蟻の義手だ。だからいくらお前が身体機能を狂わせて幻覚を見せた所で、こいつらは全く影響を受けないんだ」 (一体、どういう事だ!? ダグボルトがあのような腕を持っているなどと、あのお方は一言も言ってなかったぞ!!)  『影の手』の心にどす黒い疑念が渦巻く。  だがニンジャは自らの感情をコントロールする術を学んでいる。  疑念は瞬時に消え、冷静さを取り戻す。 (……いや、これは拙者の慢心が生んだ失態。きっとあのお方は拙者を試すために、あえておっしゃらなかったに違いない)  ズシン。  不意に、腹に響くような衝撃が地下拠点全体に響く。  天井から乾いた土がぱらぱらと落ちる。 「どうやら時刻切れのようだな」  『影の手』は苦々しげに呟くと、無事な右手で懐から煙玉を取り出す。 「おぬしとの決着はいずれつけさせて貰う。ではさらばだ!」 「待てッ!!」  だがダグボルトが掴みかかるよりも早く、『影の手』は煙玉を地面に叩きつける。  噴き出した白い煙が訓練場の中に充満し、視界が完全に失われる。  苦しげに咳き込むダグボルト。  煙が目にしみ、涙が止まらない。  しばらくして煙が薄れた時には、『影の手』とウォズマイラの姿は消えていた。  ダグボルトは目を拭って武具を拾い上げるとふらふらと入口に向かう。  再び腹に響くような衝撃。  今度は先程より大きい。  土が剥き出しになった天井には無数の亀裂が入っている。 (まずい!! 早くここから脱出しないと生埋めになるぞ!!)    **********  地上では劫罰修道会の義勇兵キャンプが、『紫炎の鍛え手』配下の傭兵団と、三体の『赤銅の異端』で構成された混成部隊の襲撃を受けていた。  簡単な戦闘訓練を受けただけの義勇兵では、百戦錬磨の傭兵には敵わない。  次々と血祭りに上げられていく。  すでに五人の義勇兵を屠っていた赤毛の傭兵が、次の犠牲者に狙いを定めた。近くにいた若い義勇兵に向かって血塗れのシミターを振り上げる。  その刹那、疾風のように現れたダグボルトのスレッジハンマーが眉間を打ち砕く。 「ここは守りきれん!! 全員、散開して逃げろッ!!」  ダグボルトは声を枯らして叫ぶ。  障壁の無い廃村は守りには適していない。  地下拠点ならばまだ守る事も可能だろうが、敵はあえて正面から攻めようとはせず、『赤銅の異端』に地面を激しく殴打させて、地下にいる者達を生埋めにしようとしている。  ダグボルトに続いて修道士達も、村の何ヶ所かに設置された隠し出口から地上に出て戦いに加わる。だが続々と押し寄せる敵を食い止めるのは到底不可能だ。  不意にダグボルトの身体に長い影が差す。  頭上を見上げると『赤銅の異端』の巨大な拳が振り下ろされようとしていた。  八ギットの巨体から繰り出される打撃は、シールドで防げるようなものではない。  ダグボルトは咄嗟に前方に転がって、地面に叩きつけられた拳を回避する。  同時に『赤銅の異端』の両足の間を抜けて、背後へと回り込んでいた。  立ち上がるや否や、ダグボルトはスレッジハンマーを力強く振り上げる。その表面は魔力を帯びた黒蟻で覆われている。  『赤銅の異端』の左踵が外殻ごと抉り飛ばされ、どす黒い血が空高く噴き出す。  赤き巨体がバランスを崩し、無様な姿で大地に伏す。  ダグボルトは、倒れている『赤銅の異端』の単眼を穿とうと走り出した。  ズゥン。  大地が強く踏み鳴らされる。  巨大な脚が、ダグボルトの身体を際どい所でかすめていた。 「新手か!!」  後ろに振り返り、二体目の『赤銅の異端』と対峙するダグボルト。  敵の攻撃を一撃でも喰らえば、ほぼ即死なのは間違いない。  スレッジハンマーを構え、慎重に間合いを測る。  だが突如として、どす黒い血飛沫があたかもスコールのように大地に叩きつけられる。  同時に切断された巨大な右手が宙を舞い、地響きと共に地面に落ちる。  転倒していた一体目の『異端』が、ダグボルトを握り潰そうと背後から伸ばしていた手だ。 「待たせたのう、ダグ」  振り返ったダグボルトの目に映るのは、黒き獅子に跨る退廃的な美貌の黒髪の少女。  『異端』の血で濡れた巨大な漆黒の大鎌を右手に持ち、流麗な漆黒の鎧を身に纏う者――すなわち戦闘形態の『黒獅子姫』がそこにいた。 「ミルダ!」 「昼寝の時間を台無しにされたのじゃ。こっちはまだ起きたばっかりじゃというのに、もう敗走寸前みたいじゃな」 「ああ、味方は壊滅状態だ。せめて残された者達だけでも救わないとな」 「そうじゃな、一丁やるとするかの」  共に戦いの日々を重ねた二人には、それ以上の言葉は必要無かった。  ダグボルトはヒーターシールドを構え、猛烈な勢いで敵中へと突進する。  体当たりを避けきれなかった傭兵は身体の骨を粉々に砕かれる。  そしてかわした者も次々とスレッジハンマーの餌食となる。  ダグボルトの緋色の視界に入った傭兵には、もはや生き残る術など無い。  吸血鬼の牙のように赤黒く濡れるスレッジハンマーを見て、息が止まらんばかりの戦慄を覚える。  一方、『黒獅子姫』を乗せた黒き獅子は、高い跳躍と共に『赤銅の異端』の巨体と交差する。  漆黒の刃が、『異端』の胸の外殻を熱したバターのように易々と切り裂き、内部の黒鉄の塊のような心臓までも断つ。豊穣なる生命の畑を刈り入れる死の天使を思わせる気だるげな動作で、続けざまに他の二体の『異端』も血祭りに上げていく『黒獅子姫』。  人間相手には容赦しても『異端』相手には容赦しない。  死以外に彼らを救う術がないと分かっているからだ。  傭兵達は戸惑っていた。  人数も練度も圧倒的に敵を上回っていて、しかも三体の『異端』までいる。それなのに、たった二人の相手に優勢を覆されようとしているのだ。  金で雇われているだけであるが故に、彼らは命を賭してまで戦おうとは考えなかった。  すでに聖女の拉致には成功している上に、劫罰修道会には壊滅的な打撃を与えている。  ここが引き際だろう。  彼らの指揮官が、そう判断するのに時間はかからなかった。  ダグボルトと『黒獅子姫』は、敵が引いていくのを見ても深追いしようとはしない。残された味方を救うという目的はすでに達成していた。  二人の周囲には義勇兵と傭兵の死体の山、そして人間の姿に戻った『赤銅の異端』の死体が三つ。死体の山には早くも蠅がたかっている。  やがて二人の修道士を引き連れ、テュルパンがやって来た。三人とも修道服は破れ、あちこちから血が滲んでいる。  しかし幸いな事に深手は負っていないようだ。 「テュルパン、無事だったか」 「ああ、何とかね。だけど想像以上に酷い状況だよ。せっかく集めた義勇兵はほぼ壊滅した上に、修道士達も大半が死んだか行動不能だからね。満足に歩けるのは、私達を含めても十人くらいだろうね。……ところでウォズを見なかったかい?」  その言葉を聞いてダグボルトは急に暗い顔になる。 「……ウォズマイラは乞食に変装してたニンジャに浚われた」 「何だって!?」 「ミルダの蟻のおかげで引き分けに持ち込めたが、奴の技に翻弄されて実質的には完敗だった。……糞ッ! 俺はまた大事な人間を守れなかった……」  ダグボルトは悔しさで声を震わせる。  それを慰めるように、『黒獅子姫』は彼の背中を軽く叩いてこう言った。 「案ずるでない。わざわざ生け捕りにしたのじゃから、すぐに殺したりはせんじゃろう。奪還のチャンスはきっとあるはずじゃ」 「うん、そうだね。ダグボルト君、人々に希望を説く者が、簡単に希望を捨ててはいけないんだよ。こういう時こそ、我々がしっかりしないとね」  テュルパンも何とかダグボルトを励まそうとする。  だがダグボルトは大事な事に気づき、躊躇いながらもゆっくりと口を開く。 「……ウォーデン先生はどこだ?」  ダグボルトの周りには生存者が集まって来ていたが、その中にウォーデンの姿は無い。 「おい、誰か先生の姿を見なかったか?」  しかし周りの人々は皆、首を横に振るばかりだ。 「まさかそんな……」  ダグボルトは土砂で塞がれた地下拠点の入口を、スレッジハンマーで掘り崩し始めた。  慌ててテュルパンがそれを止めようとする。 「待つんだ、ダグボルト君!! 地下は完全に土で埋まってるんだよ。中に取り残されてたとしたら、もう手遅れだとしか……」  しかしダグボルトは、燃え立つような緋色の瞳でテュルパンを睨み付けると、構わず掘り進める。 「糞ッ!! 糞ッ!! 糞おおッ!!」  悪態をつきながら必死に掘り続けるダグボルト。  しかし掘っても掘っても、入口はまたすぐに新たな土砂で埋もれてしまう。  いつしか日は暮れ、落ちかけた陽光で空が赤く染まる。  『黒獅子姫』以外の者達はダグボルトの側を離れ、重傷で動けない人間の手当てに当たっている。  ついにダグボルトはスレッジハンマーを地面に投げ捨て、がっくりとその場に崩れ落ちる。 「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」  大地に木霊する絶望の叫び。  それに続いてすすり泣く声が響く。  その後ろで、『黒獅子姫』は沈痛の面持ちで立っていた。  慰めの言葉すら掛ける事が出来ずに――
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